102 火種
一言で言えば、その子は『失敗』だった。
竜の心臓と吸血鬼の死体。そして、魔王の血。魔王というのは実は錬金術のような要領で生み出されるが、その日までそれが失敗することは一度もなかった。
その子が魔王になれなかったのは魔力が圧倒的に足りなかったから。人間と同等の魔力しかなかったからだ。吸血鬼の死体が若かったのか、竜の心臓の鼓動が脆弱だったのか、魔王の血が足りなかったのか、その原因は今でもはっきりしていない。
しかし、彼女はそんなことを気にしない性格だった。明るくて、自由で、何と言うか彼女は、人間らしかった。星空のような髪色ながら、肌色に瞳孔の色。立ち振る舞いから身体能力まで、彼女は人間の女性のようだった。
名前は『ラーニ』。魔王からの寵愛を受けながら竜の首飾りを一度も首につけたことのない唯一の子どもだ。
時は五十年前にさかのぼる。好奇心旺盛で活発的だったラーニは、父親ディヴォールの目を盗んでよく外へと抜け出していた。予め、自分は魔王にはなれないと告げられてたが、その跳ね返りか、まるで余生を余すことなく楽しもうとするような子に育っていった。娘を溺愛するディヴォールにとっては、いきなり城の中から彼女が消えるのは心臓に悪いことだったらしい。いなくなってはしょっちゅう焦りだし、私や執事たちに探すよう毎回命じた。
私はすぐにラーニを見つけた。自由奔放な彼女を見つけたのはダルバーダッドだった。
魔王国から遥か三千里。驚くことに彼女は、そこに住む人間たちと仲良くなり生活に溶け込んでいた。周りから自分が魔物だと悟られることなく、パン屋で仕事をしながら、本当に人間として暮らしているようだった。
これはこれで平和な生き方だと、その時私は思った。人間の王に統治力が必要だとしたら、魔王には絶対的で単純な力が必要だ。ラーニはどうあがいても魔王にはなれない。魔物とではなく人間と暮らしていくことの方が、彼女にとっては幸せなのかもしれない。
その考えを私は彼女に伝えてみた。ラーニは深く悩んだ。悩んだ末、人間との暮らしがひと段落したら、城に戻るという答えを出した。そしてもう一つ。このことは父親には話さないでくれとも。
約束を守ってあげながら、私はラーニがある男性に強い視線を向けていることに気づいた。彼女は密かに恋心を抱いていた。なるほどな、と私は思う。自分の想いを邪魔してほしくなくて、彼女は父親への口出しを止めて置いたのだろう。ディヴォールの心配性に触れれば、この街に長くはいられないだろうから。
それから時は流れ続け、今から二十年程前。ラーニのことをディヴォールに黙り続けているうちに、彼は諦めをつけ、新しい子ども、クイーンを生み出した。その間も王都で暮らしていたラーニだったが、彼女の恋は残念ながら実らなかった。
そもそも好きになっていた相手はログレス・セルスヴァルア。現国王である彼と偶然街中で出会ったそうだが、その時に話した記憶が彼女にとっては輝かしいものだったらしい。しかし、当時は王子様だった彼と、どこからともなく現れたラーニとの接点は限られており、数ある女性の中から選ばれることもなかった。
切実だった想いが届かず泣いていたラーニ。そろそろ城に戻るべきだろうと、時を見計らってそう促そうとした。
その時間を置いた判断がきっと、私の長い人生の中で一番の失敗だった――。
その時に現れた存在を、私は千年の中で一度しか目にしていない。いきなり空が、何者かの意志によって赤黒く変化したようで、どこからともなく街に姿を見せたそいつは、神話に記された挿絵の偶像。四肢の肌は黒く新月よりも深い紫の瞳をした、地底から出でし虚ろな生き物。アルデグラム記に登場する『悪魔』にそっくりだった。
そいつはラーニに固執していた。理由は分からない。ただ彼女が必要だと、そうとしか言わなかった。私はラーニを狙うそいつを止めるのに必死だった。だがヤツの力は強力で、私より小柄ながら巨人を相手にしているかのように歯が立たなかった。
ヤツの暴走が原因で街の人々にも二次災害が降り注ぎ、人間はラーニにまとわりつくそいつを魔物だと騒ぎたてた。こんなことをするのは魔物しかいない。悪である彼らをここから追い出せと。他力本願の叫びを聞きながら、私は死力を尽くしてラーニを取り戻そうと追いかけた。
その時のしつこさが、あの悲劇を生んでしまったのかもしれない。
逃げ続ける悪魔との鬼ごっこは、とうとう城の前まで到着した。魔物を捕えようとする兵士は当然軽く吹き飛ばされ、吸血鬼の力を露わにし、全力を惜しまなかった私も敵うことはなかった。
ラーニを抱えた悪魔が手を開き、宙に暗黒が続くゲートのようなものを開く。そしてラーニが消えてしまう寸前、セルスヴァルアの王妃様が我々の前に現れた。
慈悲深い性格で彼女は有名だった。誰よりも優しい性格に、国王様も惹かれたのだろうと。王妃は悪魔に交渉を図った。街の市民を連れていく代わりに私を連れていきなさいと、はっきりそう言った。
悪魔の反応は、どんな魔物よりも、どの人間よりも冷徹だった。
立ち上がれなかった私は、悪魔がラーニと一緒に暗黒のゲートの中へ入っていくのを眺めることしか出来なかった。そのすぐ下に転がった、国王の細君が死体となってしまったその瞬間も……。
ログレス国王は愛する者の変わり果てた姿を見て、世界中に響きそうなくらいの金切り声で泣き叫んだ。以後、彼は誰よりも魔物を拒絶するようになった。また、事実を私から知った魔王ディヴォールも、悪魔が現れたなどという私の話を信じきれず、消化できない苛立ちを、ラーニを監禁していたんだと、ありもしない話をでっちあげて王都に住む人間たちに向けていった。
セルスヴァルア王国では、この一日を『王都の悪夢』と呼ぶようになった。国王、魔王ともに相手国への印象が最悪になり、劣悪だった関係はさらに悪化。ラーニが消えてしまったその日は私にとっても悪夢としか言いようがない。その事件で染み付いた傷口が、きっとこれからも引きずっていってしまうだろうから。
長い話が終わった。悲劇的な終わりではあったけど、そんな大規模な事件を一ミリも知らなかったボクは正直唖然としてしまっている。
「……お父さんは、そのラーニを本当に可愛がっていたの?」
「ああ。クイーンと同じくらい彼女を愛していたさ」
「ボクにはそんな話、一切したことがなかったよ。今日までそんな人がいただなんて、全く気付かなかった。お父さんは悲しくないのかな?」
「あいつが悲しみを感じないことはないだろう。クイーンを転移させた時も焦りを見せていたくらいだ。でもそれを今まで見せてこなかったのは、魔王たるもの、小さくなった背中を誰かに見せてはいけないからだ」
「……そうなんだ」
泣きたくても泣いちゃ駄目。人前で涙を見せたら他を不安にさせちゃうからだ。お父さんは魔王としての姿が徹底出来てる。そう思えるくらい、ボクには微塵もラーニの存在を感じさせたことがなかった。二十年前ってことはボクがとっくに生まれていた頃だったのに、その事実をすべて完璧に隠してただなんて。
「とっても悲しいお話だね……」
誰よりもしょんぼりとしているテレレン。ドリンも口を開く。
「んでも、そんなに大変な話、この街にいても誰も話してなかったダヨ。王都の悪夢、なんて単語も一度も聞いたことないダヨ」
「口にすれば極刑に値するんだ。ログレス国王はその事件に関する口外の一切を禁じた。彼にとっても強いトラウマで、あまり思い出したくないのだろう。誰かが口にした、と報告するだけでお礼金が貰えてしまう時期があったくらいだ。口に出来るとしたらこうして人に聞かれないところか、国王からその調べや研究の許可を貰った専門家だけだろう」
口にすることすら許されない悪夢。あの正義に強い執着を持つ王であれば、本当に誰一人として口外することを許さないだろう。ブロクサだって目の前で殺してしまうようなヤツだ。アルヴィアだって話すのを躊躇っていたことだろう。
それはそれとしてだ。今の話を聞いたボクには、一つはっきりさせておかないといけないことがある。
「ゼレスおじさん」
「何だ?」
「今の話は、真実なんだよね?」
これからの行動を考えていく上で、何よりも確かめておかなければならないこと。それは、憎しみとか悲しみとか、そういう感情を持ち込まずに王都の悪夢を見ていけるかどうか。
「国王は悪魔を魔物と勘違いしていて、お父さんも悪魔の存在を信じきれずに人間を憎んだ。その悪魔って存在は、本当にいたんだよね?」
ゼレスおじさんが自分の手の平を見つめる。爪を伸ばし老いさばらえたような皺だらけの、いわゆる吸血鬼の手に変化させながらこう語る。
「あの時の手ごたえを忘れることはない。あの絶対的な強さ。あいつは間違いなく悪魔だった」
「……そっか」
「……ねえねえ。そのアクマって、どんな生き物なの?」
テレレンに何も知らないように訊かれた。
「アルデグラム神話のことは知っているか?」とゼレスおじさん。
「うーんと、アーティファクトってものが、その時代に作られたってことくらい、かな?」
「神話の話は情報が少なく諸説様々あるが、魔王国の書物に残っている悪魔は、この世界の大陸を生み出した者たちであり、魔物と人間すべてを統括する統治者だったと言われている。悪魔の性格は冷酷無比で統治も野蛮なものだったらしく、人間はアーティファクトを生み出して反抗し、魔物たちもすべてを束ねるリーダー、いわゆる魔王を選別し反逆していったと」
「そして、その時の魔王の名前がアルデグラムだった」
ボクの補足にテレレンは「へぇ」と腑に落ちたように頷いた。
「そんなことがあったんだね。でも、ゼレスさんでもちゃんとしたものが分からないってことは、千年よりも前の話なんだよね?」
「推定五千年前の話だ。私が世界中の最年長だとしたら、当時を知っている生命体はこの世界にはもういない」
そんな昔の話の存在が、数十年前に現れたってのか。にわかに信じきれない話だけど、ゼレスおじさんが嘘を言うはずもない。それに、今街中がピリピリしているのを見れば、そんな事件があったのも本当で、ラーニっていうボクのお姉さんがいたことも真実で間違いない。
「さて。どうするクイーン」
ゼレスおじさんが大事な質問を投げかけてくる。
「これから起こるのは戦争。私たちはそれを予見出来ていて、元凶の火種の正体もお互いの思い違いだとも知っている。これから魔王を目指すお前の意見を、ぜひとも私に聞かせてくれ」
ボクの意見。そんなの当然決まってる。
「止めないと。お父さんも国王も止める。無益な血は、絶対に流させない」




