第十九話 ただ、甘えることしかできないほどに、長山葵は弱くない。
「それじゃ……ええっと、一時間後くらいかな? また来るから。あ、借りた服は今日返さなくても良い? 洗濯もしたいし」
「いいですよ、別に。直接持ってきて貰えれば」
「いや、流石にそれはどうかと……ま、その辺は流動的って事で。それじゃ、お世話になりました」
「いえいえ。こちらこそ、お願いします」
パタンと閉まった扉を見つめて私、長山葵は室内に敷いてあった布団を押し入れの中に仕舞い、彼女――中川香織が寝ていたベッドに腰を掛ける。
「……なんだか、凄い一日だった」
パタンとそのままベッドに倒れこむ。自分のではない甘い香りが、そのままそこに彼女が居たことを思い出させ、なんだか少しだけくすぐったい様な気持ちを覚える。
「……『香織ちゃん』、か」
自分で言うのもなんだが、私はどちらかと言えば引っ込み思案で、そこまで誰かと積極的に関わる事を得意とはしていない。それが、初対面で、なおかつ『恋敵』と言っても良い女の子を初日から名前呼びする様になるとは。
「……香織ちゃんのお蔭だよね、きっと」
彼女は……なんていうか、ちょっとだけ春人さんに似ていた。顔や雰囲気ではない、なんというか……人との距離感? 接し方? そういう所が、春人さんに似ていたのだ。それを指摘すると、香織ちゃんは少しだけ照れ臭そうに笑って。
『……だって、憧れてるから』
綺麗な笑顔でそう言った。新入行員時代、春人さんの言葉に感銘を受けた事。ミスをした時、鮮やかなフォローをしてくれた事。普段、春人さんと食事をしに行くと、イヤそうな顔をしながら、それでも最後まで付き合ってくれる事。
『私はね、葵。小山先輩みたいになりたいんだ。いつかあの人に『負けたよ、中川』って言わせたいんだ。そうじゃないと、あの人の隣にいる資格なんて、無いと思うし』
なんの気負いもなくそう言って見せる香織ちゃんのその姿に、私は何か眩しいものでも見たような気持ちで目を細めた。
「……」
春人さんの隣に居たいと思い、努力をする香織ちゃん。その姿がとても眩しくて、私はつい、本当につい、秘密を漏らしてしまう。『七億円当たった』という、秘密を。最初こそ驚いた顔をしていた香織ちゃんだったが、私がきっと泣きそうな顔をしていたからだろう、気まずそうに頭を撫でてくれた。
『……まあ、気持ちは分かるよ。怖いよね、急に大金が入るって』
『……はい』
『換金、した?』
『まだ……その、一人じゃ怖くて』
『って言っても、宝くじ持ったままでも怖いでしょ? どーする? 私明日休みだし、付き合おうか?』
『いいんですか!』
『一人で行くより気が楽なら、付き合うぐらいはするよ? どうせ暇だし。それで? 使い道は決まったの?』
『いえ……とりあえず、春人さんに全額預けようかと。それで、運用? でもして貰おうかなって』
『……ああ、だからか』
『なにがです?』
『小山先輩、こないだ私に聞いたのよ。『絶対損しない投資ってあるか?』って。先輩も銀行員なんだから、ある程度詳しいハズなのにね』
『香織ちゃんの方がもっと詳しいんです?』
『私は資産運用が専門だから。そりゃ、小山先輩よりはちょっとは詳しいよ』
ああ、と。
ああ、と思ってしまった。悔しいと思ってしまった。残念だと思ってしまった。
……妬ましい、と、そう思ってしまった。
これが完全に身から出た錆だってこと、十分承知している。それでも、この感情の制御の仕方を私は知らない。
『中川香織は、小山春人に頼りにされている』
私の為にしてくれた春人さんの行動。それ自体はとても有難いし、感謝もしている。きっと、私の七億円を上手に運用してくれようと思って香織ちゃんに聞いてくれたのだろう。それは、本来、頭を下げて謝辞を述べる行為で、そうである筈なのに。
それでも――羨ましい、という声が、心の中で止むことは無い。
私は春人さんに大事にされていると思う。香織ちゃんには申し訳ないが、きっと香織ちゃんよりも、ずっと。
でも、私は春人さんに『頼られる』事はない。
私はただ、春人さんに『甘えている』だけだ。
春人さんは問題が起きてもなんでも一人で解決してしまう。私なんて頼る事はせず、せいぜいが庇護する対象でしかない。グズグズに甘やかすだけの、そんな女の子でしかない。
「……格好いいな~、香織ちゃん」
尊敬し、その尊敬する対象に近づく為に頑張る。その姿のなんと貴き事か。挑戦する前から私が諦めた領域に、香織ちゃんは居るのだ。その差は歴然、きっと届くことは無いのだろう。
……。
………。
…………届くことはない、のだろうか?
「――っ! イヤです、そんなの!」
ベッドから飛び起きると、姿見の中の自分と目が合った。姿見に映るその顔の、なんと情けない事か。そんな顔をする自分自身が許せなくて、私は自身の頬を思いっきり両手でパンっと叩く。鏡の向こうで、涙目で頬を真っ赤に染める自分の姿と目があった。その余りの情けなさに、思わず笑みが零れる。
「……馬鹿ですね~」
鏡の中の自分にそう言うと、鏡の中の自分も同じような不細工な、それでもとびっきり良い笑顔でこちらに『馬鹿ですね~』と言って見せる。
「……ホント、馬鹿ですね、私は」
ライバルがいるだろうことは知っていた。大学時代だってそうだ。銀行を落ちてからだって、春人さんの周りの女の子が気にならなかった事なんてなかった。
――でも、そんなの、今更だ。
諦められる想いじゃないんだ。ずっと好きなんだ。ずっとずっと好きだったんだ。今、春人さんに好意を寄せている誰よりも、自分自身が春人さんを昔から、好きなのだ。手ごわいライバルが出来たぐらいで諦められる事なんてできず、仮にもし、この感情が本当に消え失せてしまうのであれば。
きっと、この世に恋なんてない。
「……努力だってしてみせますよ、春人さん。いつか、貴方に頼って貰えて……隣に並び立つまでに」
甘える事はする。懇願することだってする。べたべたに、ぐずぐずに、甘えてやる。
「いつかは春人さんを、甘やかしてあげます。蕩ける程に」
でも、それだけじゃない。庇護者と被庇護者の関係なんて、まっぴら御免だ。
「……さて、そろそろ準備しましょうか。私もシャワー、浴びたいですし」
鏡の中で良い笑顔を浮かべる私にもう一度にこっと笑んで――流石に両手で頬を張ったのはやり過ぎだったかと、ヒリヒリする頬を押さえながら私はそんな事を思った。




