9 海王の譴罰
『海』が攫っていったの……きっと…そう、きっと……
う〜ん……胸元が…重い、重いよぉ……
…この頃は…ね。起きてるだけで、苦しいから…あたし、よく昼寝をするようになったの……でも、でもね? それ…全然、健康的な眠りじゃなくて……ずっと『嫌な気分』を感じながら…ただ、瞳を閉じてるだけなのよ。ヴェストルが来てくれるのを待ちながら……ずっと、目を閉じて…眠ろうとしてるの…
ヴェストルね、今は曇ってても来てくれるのよ。あたしの事を心配してくれて…僕には傍に居るしか出来ませんが…って……そんな事、無いのにね……だって、あたし…ヴェストルの素敵な笑顔を見る度に、とっても気分が良くなるんだもん。
《本当》に……全て、忘れてるのよ…
こうして横になって…瞼の裏にヴェストルを思い浮かべるだけで、頭痛も吐き気も遠のいてく……漆黒の背景に、はっきりした映像じゃないんだけど…ね。……銀色の流れで…でも、でもね? それが、ヴェストルなんだって…あたし、分かるのよ。これが、『あたし』の《中》のヴェストルなんだ…って……
……一つの心、一つの生命……
(あっ…)
すうーって頭痛が離れてく。一緒に、手足の存在もあやふやになっちゃって…あたし、寝ようとしてるんだな、って…そんな事をぼんやり考えてたら…
……え?
突然、闇に一つの『映像』が映ったの。黒い幕の中に、白く煌く湖面が見えてきて…純白の服を着た女の人がね、その岸辺を前にしゃがみ込んでる。
これって…夢なのかな。……でも…でもね? あたし、意識の隅っこで…まだ吐き気を感じてるのよ。
その時ね、真っ直ぐな黒髪を揺らして…その人、ちょっと腕を伸ばしたの。何かを洗ってるみたい。淡くて黄色い……
(…あっ! あれ…)
あれ、あたしのお気に入りのパジャマじゃない!
あたし、慌てて口を開こうとして…その時ね、女の人が振り返ったの。
「え?」
…えぇぇ〜!
だって…だって、そうでしょ? 中島のお姉ちゃんなんだもん。八つになるまで、いつも仲良くしてもらって…あたし、一人っ子だったから……《本当》のお姉ちゃんみたいに慕ってたの。確か、その頃…丁度、今のあたしくらいの歳で…
でも、でもね…お姉ちゃん……急に居なくなっちゃったのよ……あたし、お姉ちゃんを『海』に独り占めされたんだ、って…
「………」
あたし、声が出ない……お姉ちゃん…どうして…どうして、そんなに悲しそうなの? どうして…
……あっ!
…あたし、あたし………
……忘れたかった事…全部、思い出してた……
お姉ちゃん……辛かったよね……悔しかったよね………
…お姉ちゃんの気持ち…きっと、あたしには全部は分かんないかも知れない…でも、でもね……こんなに、苦しいの…
…え? …違う、の?
お姉ちゃん、静かに首を振ってる。とっても悲しそうな顔で、手元にあるあたしのパジャマを見て……
あっ! あたしのパジャマ……真っ赤に染まってる…!
あたし…あたし………
……痛い、痛いよ…又、頭が……痛い、よ…!
あたし、あたし……必死になって…あたし、叫んで……
(お姉…ちゃん……!)
でも…声に、なら……痛い! 痛いよ……
…もう、やだ……
全て…消える……闇に………
……あたし、も……
…次の瞬間、あたし、自分の声にはっと目を覚ましてた。
「きゃっ!」
痛い、よ…頭が、割れる……中から、殴られてるみたい…痛い! 痛いよ……痛い、痛い…
「くっ…」
両手で力一杯挟み込んで…締め付ける……痛い、割れる…本当に割れる…!
…やだ…やだ、痛いよ……痛い…!
……割れて! …もう、頭を割った方が……ううん!
…でも、でもね……あたし、あたし……
「美星さん!」
……温かい腕が……思い切り、抱き締めてくれる…
…あたしね、冷たい汗でびっしょりになりながら……ヴェストルの腕の中で、意識を失いかけてた。
「美星さん…」
優しい言葉が、とっても辛そうに響いてる…あたし、それを感じて…全力で笑おうとしたのよ……
「…ありがとう」
でも…でもね。それで、精一杯だったの……
「ゆっくり休んで下さい。僕は、このままここに居ますから…」
「うん…」
…あたし、安心して……完全に意識を失ったのよ…
目を覚ましたらね…あたし、もうびっくりして……
…ずっと横になった儘だから、すっかり細くなっちゃった両腕にね……青黒い痣が出来てたのよ。何度も何度もぶつけたみたいで…
「思い切り、腕を振り上げていたんですよ…それどころか、美星さん…今度は、頭までぶつけようとしていましたから……思わず、部屋に飛び込んでしまったんです」
あたし……そんな事、してたんだ…
「もう…大丈夫ですか?」
「うん…ありがとう」
あたし、そっと抱き着いてた。
「ヴェストル…あたし、自分が恐いの…もう、負けちゃいそうで……あたし、何をするか分かんない…」
「美星さん…」
優しく、抱き返してくれる…あたしの《全て》を、そっと包み込んでくれるのよ…
「きっと…中島のお姉ちゃんも……」
そう、きっと…あたしが『死』に負けちゃう事を……知ってたの…
…ね? ヴェストル…
「……」
ヴェストル…辛そうな顔で、何も応えてくれなかった。
あたしね、ヴェストルを苦しめたくなかったから…すぐに顔を下げたのよ。でも、でもね…? 応えないって事は………
……ね。
でも、でもね? それでも、あたし…恐くなんてないの……悲しんだりしないのよ…
「美星さん…」
うん、大丈夫。あたし、《本当》に落ち着いて迎えられるんだから…
「…はい」
あたし、にっこり笑ってた。少し恥ずかしそうに、ヴェストルも微笑み返してくれる。そして……
…ね。あたしから…
……キスしてたのよ…
「その方は、本当に美星さんの事を親しく思っておられたんですね」
あたしの『夢』の話に、ヴェストル、そう言ってくれたの。
「うん。あたしも、本当のお姉ちゃんみたいに思ってたもん。あたしが生まれた時から、一緒に沢山遊んでくれたのよ…」
とっても懐かしい……あたし、あの事件を知ってからは…辛すぎて、全部忘れてたのよ…
「あたしより七つ年上でね…すぐ近所に住んでたの。母さん同士が親しかったから、いつも遊びに来てくれて……あたしが赤ちゃんだった頃ね、何度も優しく抱いてくれてたのよ」
あたし…今でも覚えてる……あれ、まだ二歳にもなってなかったと思うけど…
お姉ちゃんね、あたしを公園まで連れ出してくれたの。一緒にシーソーをしたり、砂場で暴れたりして遊んでたら…急に、雨が降ってきたのよ。お姉ちゃん、あたしが風邪をひいたらいけないからって、両腕に抱き上げてくれてね。全力で家に向かって駆け出してた。その走ってる途中にもね、そっと優しく尋ねてくれて…「恐い?」って…何度も、何度も……温かな声で尋ねてくれるの……
あたしね、恐かったんだけど…お姉ちゃんの笑顔を見たら、すっかり安心してたのよ…
とっても、懐かしい……胸の奥が熱くなって…その頃の思い出が、黄金色の波に洗われて次から次へと浮かんでくる…
「…ヴェストル。あたしに綺麗な星を教えてくれたのも、お姉ちゃんなのよ。もっと他にも、本当に沢山の事を教えてもらったの…本当に、沢山……
お姉ちゃんが一番『好き』だったのはね…『海』だったの。あたし、歩けるようになったら、すぐに連れて行ってもらったのよ。最初はね、とっても恐くて…大きな音と一緒に、大きな『何か』があたしに近付いて来るんだもん…もう、びっくりして…お姉ちゃんにしがみついてた…」
本当は、とっても穏やかな波だったの。その時にね、お姉ちゃん、笑いながらあたしの頬をちょん! って突っついたのよ。
「『ミホちゃん、お姉ちゃんも嫌いなの?』って聞いてくるんだもん。あたし、びっくりして…慌てて首を振ってた。そしたらね、お姉ちゃん、笑みを深めてこう言ったのよ…『じゃぁ、海さんも好きになってあげなくちゃ。だって、お姉ちゃんも海さんも『一緒』なんだから』って…
お姉ちゃん、《本当》に『海』が『好き』だったの。毎月、必ずあたしを連れて行ってくれて…あたしを紹介してくれるのよ。寄せてくる波に足を浸しながら、お姉ちゃん、いつも『海』と親しげに話してた。あたしも恐くなくなってから…暫くの間なんだけどね、その話に加わってたような気がして…」
…そうなの、それでね……ちゃんと『海』も答えてくれたような気がするの。
「きっと、『海』もお姉ちゃんが『好き』だったのよ……あたしね、それが分かったからかな…四歳くらいの時に『海』に怒った事があったの。『お海さぁん! お姉ちゃん、ミホのお姉ちゃんなんだからね? 独り占めしたら、絶対に駄目なんだからね!』って…お姉ちゃん、必死に叫んでるあたしの横で、真っ赤になるまで笑い転げてた……
それからね、お姉ちゃん、教えてくれたのよ。『私も、ミホちゃんと同じくらいの時に、『海さん』とお約束した事があるのよ』って。あたし、びっくりして…『何て? 何て?』って、お姉ちゃんを何度も揺さぶったの。そしたら、お姉ちゃん、こう言ったのよ。『私、『お海さん』だぁい好き! だから、お利口にしてたら毎月ここに来てあげるね? って、約束したのよ』って…
…お姉ちゃん、ずっとその約束を守ったのよ………」
あたし……そこで、大きく深呼吸してた…
「お姉ちゃんね、ヴェストル……あたしが八つになるまで居てくれたの…毎日のように追いかけっこして…ダンボールで草の斜面を一緒に滑り降りて………なのに…なのにね……
…急に、遊びに来てくれなくなったの………」
「美星さん…」
あたし…両手を握り締めて……精一杯耐えてた。
…でも…でもね…涙が出るのよ……どうしても、溢れてくるの…
「あたし…あたしね? ヴェストル……あたし、本気で『海』がお姉ちゃんを独り占めしたんだ、って…そう信じてた……そう信じてた方が良かったのに……!」
肩をそっと抱いてくれる…あたし、きゅって目を瞑って…言葉を押し出してた……
「ただ…ただ、お使いに行っただけなのに……ただ、いつもと同じように歩いてただけなのに……どうして? どうして…どうして車になんて轢かれるの?
ヴェストル……犯人は、ね…ただお姉ちゃんを可愛いと思ったから…ただ、それだけの事で……そんな事で、あたし達の幸せを《全て》打ち砕いたのよ…! 横に、車をつけようとして……ちょっと、ぶつかったんだ…って………冗談じゃないわよ! 車にとってはちょっとでも、お姉ちゃん、大怪我したのよ? …ヴェストル、だから…だからね……犯人、今度は、事故を隠す為に……苦しんでるお姉ちゃんを…もう一度……そうよ、もう一度轢いて殺したのよ…!
……あたし、あたしね…信じたくなかった…お姉ちゃんが、そんな事されたなんて……酷すぎるよ……あたしの上を、ね…車が踏み潰してくの……
耐えられなくて…信じたくなかったのよ…!
…お姉ちゃん、どんなに辛かっただろう…あたしがこんなに苦しんでるんだもん…お姉ちゃんは、もっともっと苦しんだんだ、って………
ヴェストル……だって…だってね? お姉ちゃん、もう殺されちゃったのに…犯人、死んだお姉ちゃんの体に乱暴したのよ…! …あたし、信じられない……自分の欲望の為だけに、一つの命を奪って…沢山の人を不幸にしながら……犯人、死体まで弄んだのよ…! そんな、欲望に…満足したら……お姉ちゃんを……お姉ちゃんを…ばらばら、に…して……ビニール袋に、入れて……海に、投げ捨てて……!」
あたし…あたし……ただ、ただ泣き続けてた…………
「……ヴェストル…前、ルミが言ってたでしょ…? この国は…犯罪者にだけ有利なんだ…って……あたしにはね…それが《真実》なんだって…そう思えるのよ……ただ…あたし……復讐なんて…そんな事、出来なくて……ただ、忘れようとしたのよ…
…犯人、ね…お姉ちゃんが死んで……何年もしてから捕まったの……でも…でも…ね……殺すつもりだったんだ、って…そんな証拠、何処にも無くて…車も処分されてて…現場だって、何年も前の痕跡なんて消し去ってたのよ……自供はあったんだけど、ね……お姉ちゃんの…遺体、は……既に見付かってた右腕しか無くて……犯人がね…他の人がしたんだ、って…法廷で……ねぇ、信じられる…? ただの轢き逃げなら…時効が成立するんだって……殺す為に轢いたとは、認められなくて…轢きはしたけど、そのまま逃げたんだ、って……そんな言葉、信じられないのに……! 結局…法律なんて……何も、してくれなかった…
酷すぎるよ……お姉ちゃんやあたし達の…『幸せ』…全部、そうよ《全部》引き裂いて…! そんな犯人に、誰も…何もしてくれなかったのよ…!
ヴェストル……あたし、あたし…ね……お姉ちゃんの『死』を認めたら…辛くて…生きていけそうになくて……だから…《全て》忘れる事にしたの……
…楽しかった思い出だって…苦しみを思い出すから……全部、《全部》消しちゃったのよ……あたしには、辛すぎたから……認める事なんて、あたし……出来なかったのよ…!」
…ヴェストル……分かってる…これも《現実》だった、って……分かってるのよ…! でも…でもね? お姉ちゃんの事だけは……駄目なのよ…!
「美星さん…」
「…あたし、ね…弱いから……忘れたかったの…忘れたままでいたかったの…」
「…ですが、美星さんは忘れていたわけではないでしょう? …記憶の奥底に、ただ眠らせていただけなんです。それは『忘却』ではありません。しっかりとした『記憶』なんですよ…」
ヴェストル…
…そう、かも知れない……お姉ちゃん…あたしの大事なお姉ちゃんを、忘れる…《本当》の意味で忘れるなんて……そんな事、出来ないのよ…
……あたしの行為…一つ一つに、ね……お姉ちゃんとの思い出が、込められてるんだもん………
「忘れてはいけない事です。ですが、耐えられずに眠らせてしまう事は…『人間』には、仕方無いのかも知れません…」
「…ヴェストル……」
ありがとう…………
……………………………………………………………………………
「礼奈、ちょっとテレビをつけてもいい?」
「えぇ…」
礼奈、きょとんとしてる。ごめんね。でも、でもね……これだけは、見なくちゃいけないのよ…
…ヴェストルに、お姉ちゃんの事を話してから…三日経ってね。今日が、お姉ちゃんの命日なんだ、って……あたし、そんな事まで忘れてた…
テレビをつけたら…あたしの重い気持ちを踏み躙るみたいに、生中継! って派手な文字が目に飛び込んできたの……そして、ね…そこに映って…マイクを突きつけられてるのは……
……お姉ちゃんを殺した犯人なのよ…
…時効の成立で……平気な顔して…レポーターと話をしてる……
「ミホ…この人が…」
あたし…力無く頷いてた。……誰も、何もしてくれなかった…レポーターだって、怪しいとは思っても…深くは問い詰めないのよ……法律上は罪を問えない…問い詰めて、逆に訴えられたら困るもん…ね。
結局、マスコミだって、自分を不利にするような『正義』は行わないのよ……
「最初の自供では、この辺りに遺体が捨てられた事になっていましたね」
どうして…どうして……
……どうして、そんな簡単に言えるのよ…!
「えぇ、そう言わされたんです。ですが、僕はこの辺りに車を停めた事はありませんし、結局遺留品すら出なかったじゃないですか」
あたし、あたし………
「…そうだったかも知れないわ! でも、でもね、あなただって罪を犯したんじゃない! お姉ちゃんの体を轢いたのは、あなたなのよ! お姉ちゃんを奪っておきながら、どうしてそんなに平気でいられるの!」
…悔しくて…本当に悔しくて……あたし、泣きながらテレビに怒鳴ってた……
「ミホ…」
礼奈、そっと抱いてくれるの。あたし、きっと…とっても醜い顔で画面を見てる……
…穏やかで、春みたいに青い『海』…優しく、陽光に煌いてる……一番、お姉ちゃんが『好き』だった『海』……
「この崖の下での捜査は難しいですからね。これから、降りられるんですか?」
「いえ、ここに捨てられたとは分かりませんから。ですが、僕も彼女を轢いた事は確かですし…ご遺族の方と同じ所に献花をしたいと思ってるんです」
止めて! そんな事、しないで…
…白々しい真顔で、どうして…どうして、献花なんて出来るのよ!
止めて………!
「何処まで…何処までお姉ちゃんを弄ぶのよ………!」
あたし…絶叫してた……
…所詮、皆は『被害者』じゃないのよ…! 裁判官も、弁護士も、レポーターも、世論だって…全部、『あたし』じゃないのよ! どうして止めないの…どうして献花なんてさせるのよ!
「ミホ…」
泣きながら、思わず画面から顔を背けたあたしに…礼奈ね、とっても厳しい声で言ったの…
「あの現場に行きましょう…」
「…え?」
「しっかりと、見ていて欲しいのよ…」
礼奈がそう言って、あたしの濡れた瞳を覗き込んだ瞬間…
…寒い! あたし…潮風に吹かれてる?
十二月の寒風に抱かれてるのに…下の『海』は、とっても落ち着いた春の様子を呈してる…何時までも続く、潮騒の音……お姉ちゃんの『海』……
…礼奈ね、吹き上げる風に攫われないように、しっかりとあたしを支えてくれたの。そして、黙って足下を見つめて…
……! …すぐ足下に……あの、あの犯人が…!
「声は出さないで、ミホ…見ているの……人間の《法》では出来なかった事を、彼がしてくれるわ…」
え?
あたし、何の事か分かんなくて…
その時、その時ね……
…急に、崖下の海面が渦を巻き始めたの。同時に、雲一つ無かった静かな空に、鈍い灰色の靄が立ち籠めて…ゆっくりと回りながら……落ちてくる!
「礼奈!」
「……」
見上げると…ね? 礼奈、とっても厳しい顔してる……ううん、ほんの少し…哀れみも含まれてるかな…
海面からも渦が盛り上がってきて…慌ててる、道路の人達に向かって伸びていくの。
『海』が、空から落ちる水の触手に触れた瞬間……
……あの犯人、渦に巻き込まれたのよ…
凄い悲鳴がしてる…でも、でもね……正直に言うと、あたし…助けようなんて思わなかった……
犯人、『海』に向かって引き摺り込まれてく………
…犯人が波間に消えるとすぐ…竜巻は収まったのよ……
薄れてく灰色の雲から、海水の雨が降り注いでる。また照り始めた太陽の光で、無数の雫がとっても眩しく煌いて……
…あたしね、あまりに突然の事で…茫然としてた。その時、礼奈が黙って沖の方を指差したの。
前と変わらない…蒼い海原……あっ!
……白い雲の前で…お姉ちゃん?
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
あたしの声に、にっこり微笑んでくれる…
うっすらと…でも、《本当》に見えてるお姉ちゃんの横に……その時ね、青白く透き通った、男の人が現れたの。黄金色の鎧を着て…手には矛を持ってる。
その人…優しく、お姉ちゃんを引き寄せて……
…やだ! 消えてく…雲に溶けてくよ…!
お姉ちゃん…!
「お姉ちゃん!」
そっと頷いて…綺麗な笑顔で……消えてくのよ……
「ミホ…」
動けないあたしに…礼奈、そっと耳元で囁いてくれた…
「あの男の人は…《海の老人》の息子の一人、浅瀬を司る方なの…あの二人は、これから《永遠》を共にする事になるわ…」
「礼奈…」
…そんな……
「お姉ちゃん…それで、『幸せ』になれる…の?」
礼奈に聞いてもね、仕方無い…分かってる……でも、でもね? 知りたかったのよ…
「…《永遠》に『生きる』事は…《永遠》に『死ぬ』事と同じなの…だから……わたしには分からないわ…」
暫くの沈黙の後、礼奈、あたしに微笑んでくれたの…
「でも…あの人は《本当》に『死ぬ』事は無いの……神に愛されているから…神自身が、あの人の『生命』なのよ……一つの心、一つの生命…」
あたし……あたし、涙を流してた…
「第三期の存在が、生きては死んでいく…運命の女神達に依るその弛まぬ流れが、『時間』として黄金の川に紡がれていくんだけど…ミホ、《真》の存在には…『時間』は絶対に入り込まないの……それはね…『昇華』の『様相』を帯びる事はあっても…《永遠》なのよ……」
「礼奈…」
あたし…抱き着いてた……声も出さずに、泣き続けてた…
お姉ちゃん……
きっとね…お姉ちゃん、《全部》解ってて…選んだんだと思う……《本当》の中には、『時間』が存在したりしないんだ、って…それでも、《本当》を受け入れて……きっと、きっと……
だから、お姉ちゃん…
……とっても『幸せ』になったのよ……
…お姉ちゃん、あたし……もう、忘れたりしない…お姉ちゃんの心と触れてた《全て》……もう、忘れたりしないよ…
だって……それが《永遠》なんだもん……ね…
9 海王の譴罰 おわり
愛しき存在は遠くとも
常にわたしの中に舞う…




