6 木曜の齟齬
じっと…見上げてくるんじゃよ……黒い、円らな瞳で…
「良かった…今日も、気分は好いみたいね」
礼奈、部屋に入ってくるなりそう言ってくれたの。《本当》に安心した表情で、喜んでくれる。
「うん、ありがとう。あれ以来、血も吐いてないのよ」
そうなの。あたしが……その…ね? ……ヴェストルと…
…やだ、…思い出すだけで、真っ赤になっちゃう……
あのね、あの時以来…あたし、そんなに気分が悪くなる事って無いのよ。一生懸命頑張ってくれてるお医者さんには悪いんだけど…あたしね、やっぱりヴェストルの御蔭だと思うわ。
あの日の事、勿論、礼奈にはすぐに話したの。とっても喜んでくれて…そんな礼奈を見てるとね、あたしまで嬉しくなってくるのよ。ヴェストルも、あたしの事を『好き』でいてくれたんだって……その事が、改めて思い出されるんだもん。
あんな事になるまでは…ね。あたし一人でも、ヴェストルの事、『好き』でいよう、って…ヴェストルが別にあたしの事を何とも想ってくれてなくても…あたしは『好き』な儘でいるんだ、って……そう、思ってた…
でも…でもね? ヴェストルもあたしの事を『好き』になってくれたんだ、って……そう思ったら、あたし、今迄よりももっとヴェストルの事が『好き』になっていくのよ……《本当》に、…どんどん新しく『好き』になっていくの。
…どきどきするくらい、嬉しいのよ……
「ミホ…《本当》に幸せそうね…」
優しく、くすくす笑う礼奈の声が…え?
やだ! あたし、一人の世界に入ってたんだ…あ〜ん、どうしよう。胸元まで、赤くなってるぅ。
「ご、ごめんね」
あたし、すっかり慌てちゃって…でも、でもね? やっぱり礼奈なのよ。
「ううん、大事な気持ちだもの。…忘れないようにしないとね」
そう言って、そっと微笑んでくれるの。心から喜んでくれてるのが分かるのよ。
「うん…大丈夫。絶対に忘れたりしないんだから」
そうよ。こんな素敵な気持ち、あたし、どんな事があっても忘れたりしないわ!
そう、どんな事があっても…ね。
「ねぇ、礼奈。ほら、懐かしいでしょ?」
あたし、そう言って、この前見付けた写真を礼奈に見せたの。丁度、中学一年生の頃で、夏の海辺であたしと礼奈が並んで写ってるのよ。
「これ…確か、今頃の時期に泳ぎに行ったのよね」
礼奈も、懐かしそうに写真に見入ってる。
本当は…ね。あたし…この写真を見付けた時、とってもショックだったの。だって……あたし、随分と痩せたんだな、って…毎日のように鏡見てたら分かんないけど……あたし、こんなにも弱々しくなっちゃったんだ、って…
砂浜で、きちんと真っ直ぐに立ってる事も…ちょっと不自然に思えてくる。あっ、あたしにもきちんと歩けてた頃があったんだ…泳いでた頃があったんだ、ってね……
…でも、でもね。やっぱり、ブルーになってるのって、らしくないみたい。そんな悲しい思いだって、すぐに楽しい思い出に掻き消されてしまったんだもん。
「そうなのよ。もう、九月に入ってたのにね」
ベッドの上で半身を起こして、呆れたようにあたしがそう言ったら、礼奈、くすくす笑ってるの。
「どうしたの?」
「だって…どうしても行きたいって、…ミホが言ったのよ…?」
「え? そうだった?」
礼奈、優しく微笑んで頷いてる。
「…よし、じゃぁ行こうか、って…お父さんが車を出してくれて、名前も無い小さな浜辺を見付けて泳いでいたんだもの」
あっ…!
……少し…胸の奥が苦しいの……
あのね……礼奈の両親…もう、この世に居ないのよ……
…丁度、この写真を撮って…三ヶ月くらい経った頃かな……礼奈のおばさん、病気になって…寝込んだのよ……
本当に、何でもない病気だったんだって…でも、でもね…おばさん、普段から体が弱くて……二週間して…急に……本当に、急に亡くなったの…
あたし…あたしね。最初、信じられなくて…茫然としてたの、覚えてる…
…だって…だって、ついこの間まで、温かく迎え入れてくれたおばさんが…何だか…あっと言う間に、…誰もそんな事、思いもしない内に、攫われちゃったみたいで……
……それからなの。あんなに楽しくて明るかったおじさんも…急に、無口になって……飲めないのに…ね。……お酒も、沢山飲むようになって…
礼奈…必死で耐えてたのに……おじさん、おばさんが死んだのは…自分の責任だ、って……だから……
……去年の春……自殺…した、の…
その時ね…あたし、初めておじさんを憎んでた……あんな逃げ方って、無いと思う…礼奈はどうなるの? 礼奈だって、ずっとずっと……
…自分の苦しみも悲しみも…面になんか出さないように頑張って……優しい姿からは思えないくらい…とっても、強いから…
礼奈、本当に…忘れたりしないで…必死になって頑張ってきたのよ…
…だから…ね。…あたし、いつも拘らずに…あの二人が生きてた頃と同じように話すようにしてるの……だって…気遣いするなんて、…一生懸命、耐えてきた礼奈に失礼だと思うもん…
それにね…礼奈、敏感だから…逆に、あたしを気遣ってくれるのよ。
「…そうそう! そんな所だったから、あたし、あちこちクラゲに刺されたのよ」
「でも…あそこで泳ぐ事に決めたのも、ミホだったのよ?」
「あれ?」
あたし、礼奈と顔を見合わせて笑ってた…
「久し振りに、海にも行ってみたいな…」
歩いては無理なんだけどね。…今夜、ヴェストルに連れて行ってもらおうかな。
そう思った瞬間、開けてあった窓から声が飛び込んできたの。
「それもいいですね」
え? …えぇぇ〜!
ちょ、ちょっと待ってよ、ヴェストル! まだ、あんなに太陽が輝いてるじゃない! 早く来てくれたのは嬉しいけど…でも、でもね? あたし、礼奈にだけはきちんと紹介したかったのにぃ〜
「初めまして。あなたが景守礼奈さんですね」
「はい…宜しく御願いします」
う〜ん…やっぱり、礼奈なの。小人の姿を見ても、普段と同じように挨拶してるじゃない。
あたしが突然の事で慌ててると、礼奈、微笑んで椅子から立ち上がろうとしてる。
「じゃぁ、わたしは…」
「あっ、待って!」
あたし、急いでヴェストルを振り返ってた。
「ねぇ、ヴェストル。今日は、礼奈も連れて行ってくれない?」
「でも…」
礼奈ね、気を遣ってくれる。でも、でもね? あたし、どうしても連れて行きたかったの。本当は、もうちょっと考えてから、きちんと誘いたかったんだけど…いい機会だもん。
「僕は構いませんよ」
「ね? 礼奈」
「…本当にいいの?」
「勿論よ!」
そうよ。あたし、本当に来てもらいたいんだから。いつも、礼奈には一杯助けてもらってるんだもん。…あたしに出来る事なんて、こんな事くらいだもんね。
「でも、でもね、礼奈。約束してくれる? あたし達になんて、気を遣わなくてもいいからね?」
こうでも言っておかないと、礼奈の事だもん。とっても気にしちゃうのよ。
「…分かったわ。…有難う」
くすくす笑いながら、礼奈、嬉しそうに言ってくれる。
「では、行きましょうか」
でも、でもね? まだ、ちょっと明るくない? 空を飛んでるところなんて、見付けられたらどうするの。
「僕と一緒なら、大丈夫ですよ」
不意に、格好良い若者の姿になってる。う〜ん…あたし、まだこんなにもどきどきしちゃう…
ヴェストル、温かく微笑んで指先を取ってくれたの。でも、でもね。そのまま飛び出そうとするんだもん。あたし、慌てて引き留めたの。
「ちょっと待ってよ。礼奈は…」
そうよ、礼奈は飛べない……え? …えぇぇ〜?
どうして? どうして、礼奈、部屋の中に浮かんでるのよ!
「見事な《気》の制御ですね」
え?
あたしね、きっと、とってもおかしな顔してたと思う。でも、でもね? 仕方無いじゃない? あたし、礼奈が飛べるなんて知らなかったんだもん。
「ミホ…」
少し、恥ずかしそうに礼奈が笑ってる。
「生きている限り、誰もが《気》と呼ばれるエネルギーを持っているの…それは『大地』を始めとする、様々な存在に繋がって、わたし達を包んでいるわ…」
うん。それは、前にヴェストルから教えてもらった事があるけど…
「わたしは…ね。自分の中の《気》を使って飛ぶ事を…あの『樹』に教わったのよ……」
あの『樹』って…『郷夢の森』の……
…そうなんだ。
「あれ? じゃぁ、あたしも教えてもらったら空を飛べるの?」
「美星さん。《気》の制御には二つの要素が必要なんです。一つは鍛錬で、これは能力の安定と助長を目的とします。もう一つは、素質です。残念ですが、努力だけで《気》の発現を自由に行う事は出来ないんですよ」
「分かったわよ、ヴェストル。あたしには、その素質が無いのね」
う〜ん、ちょっと悔しいかな。
でも、でもね。あたしには、ヴェストルが居てくれるんだもん。それは、きっと自由に空を飛べるのと同じくらい…ううん、きっと、それ以上に素敵な事なのよ。
「では、行きましょうか」
柔らかな藍色の瞳が微笑み掛けてくれる。ヴェストル、そっと優しく手を握って、星夜の町へと誘ってくれるの…
あたしね…《本当》に嬉しいのよ? 幸せなんだから、ヴェストル…
《本当》に…ね!
西方で輝いてる大好きな金星から、ずっと北に回ってケフェウスの細長い五角形を見付けるの。それからゆっくりと、頭上にある白鳥の十字架まで駆け昇って…琴と鷲の間を通ってね、くるっと南に目を向けたら…真っ赤なアンタレスがS字の中央で煌いてる。
その間にも、足下に広がる真っ黒な海原からは…ずっと、波の音が聞こえてくるの。途切れ無く打ち寄せてる、永遠に続く不思議な音色……でも、でもね…何処か、静かなのよ。このまま、すぅーっと吸い込まれていきそうで…
ね? 礼奈…あたし、いつもこんな素敵な星空を見る事が出来て…本当に幸せだな、って思うのよ…
「……」
…あたしね、そんな想いも声にはしなかった。礼奈、少し青の入った黒い瞳で、ずっと空から目を逸らさないんだもん。素敵な気持ちを、邪魔したらいけないもんね…
「ミホ…有り難う……」
暫くしてから、礼奈、そう言ってそっと微笑んでくれたの。でも、でもね。あたし、小さく首を横に振ってた。
「ううん…お礼なら、ヴェストルに言って。あたしだって、ヴェストルが連れてきてくれなかったら…絶対に、こんな星空、知らなかったはずだもん」
「いいんですよ、美星さん。僕が御誘いしたかったんですからね」
あたし、そう言ってくれたヴェストルの指を、そっと力を込めて握り返してた。
すぐに、温かな手が包み込んでくれる…
あたしね、真っ赤になってくるのが自分でも分かったから、慌てて南の空を見上げたの。
何気無く向けた視線の先に、ティーポットが浮かんでる。射手座の下半分を四角く結んだら出来るのよ。注ぎ口からは、ちゃんと湯気まで出てるんだから。
その白くて微かな湯気が、ずぅーっと夏の大三角形を通り越して、北の方まで伸びてきてる…
「こんなに沢山の星を見たのは、とても久し振りな気がするの…」
あたしの視線を追ってた礼奈が、静かに呟いてる。
「いつのまにか、見えなくなってしまって…でも、ずっと変わらずに、こうして輝き続けていたのね…」
「…うん」
そう…あたしだって、よく空を見上げるけど…気が付いたら、どんどん星が見えなくなってたもんね…
満天の、ちょっと背伸びしたら頭をぶつけそうな星達に囲まれて…傍に、大好きなヴェストルと礼奈が居てくれる。同じ場所で、同じ時間、同じ想いで……
あたし…今、とっても素敵な『時間』に抱かれてたの。ずっと、このままでいてもいいな、って…心から、そう思える『時間』の中にいたのよ…
だから、ヴェストルが「降りましょうか」って言った時…ちょっと、残念だったの。
…でも、でもね? 今夜の事は…絶対、忘れない思い出になるんだもん。
きっと……それは、《永遠》と同じ事なのよ…ね?
月の光に照らされて、砂浜がぼんやりと白く浮き上がってる。あたし達がその波打ち際に降りようとした時、急に砂浜のすぐ上の道路から爆音が聞こえてきたの。
「やだ。星夜の町にもあんな人達が居るの?」
ライトも点けないで、一台の車が物凄いスピードで走ってる。青い暗闇の中を通り過ぎていったと思ったら、急にブレーキを踏んで、又あたし達の方へ戻ってくるのよ。
「あれは…」
ヴェストル、静かに礼奈を見て続けたの。
「礼奈さんの《縁》で紛れたようですね」
「…はい」
…え?
礼奈、とっても真剣な表情で…暴走してる車の前に降りようとしてる!
あたし、びっくりして…恐くなって……すぐに追いかけようとしたら、ヴェストルが止めたの。
「大丈夫です、美星さん」
ヴェストルね、優しく笑ってくれる……でも…でもね? 平気でいられるはず、ないじゃない? 礼奈、あたしの一番大切な友達なのよ?
あたしがそう言おうとした瞬間、下から急ブレーキの甲高い音がして…
あたし……
…目を閉じちゃったの。
「美星さん。大丈夫ですよ」
安心させてくれるヴェストルの声に誘われて、あたし、ゆっくりと目を開けてた。軽くそっと手を広げた礼奈のすぐ直前で、車が止まってる…
……良かった…何も無くて、本当に良かった……
「礼奈…もう! 脅かさないでよ…」
あたし、道路に降りるとすぐ、そう言って礼奈に抱き着いたの。
温かいのよ……《本当》に良かった…生きていてくれて…
「ごめんなさい、ミホ…でも、仕方無かったの。わたし、この人には自殺してもらいたくなかったから…」
「…え?」
自殺?
きょとんとして礼奈を見上げた時、突然、車のドアが開いてお爺さんが一人出てきたの。あたし、びっくりして…だって、もっと若くて無鉄砲な人だと思ってたのに。どう見ても、とっても人の好さそうなお爺さんなのよ。
「やはり、嬢ちゃんか…又、聞いてもらえんじゃろか…」
「……はい」
又、って…前にも、会ったの?
…そうみたい。礼奈、優しくお爺さんの肩を抱いて、近くの堤防に座らせてる。あたしとヴェストルも、黙ってその横に腰を下ろしてた。
「…近頃、又…『夢』を見るんじゃよ……あの、少女の…」
……? お爺さん…震えてる。
「もう、何十年も前の事じゃのに…なぁ、嬢ちゃんや。言い訳にしか聞こえんかも知れんが……儂は、本当に国の繁栄を望んどったんじゃ…こうする事が正義じゃと…そう思うたからこそ、儂は兵として志願したんじゃよ…」
……え?
「信じてもらえんかも知れん…じゃが、確かに南へ向かうまでは、儂には愛国心があったんじゃよ…国が望むんじゃから、行かねばならん……それが正義じゃと…儂は、そう信じとったんじゃ……
…嬢ちゃんや……そりゃ酷いもんじゃった…戦争はの、戦っている間よりも…待つ間の方が人の心を蝕んでいくんじゃ…
人ではなく、国だけを愛した儂は…抵抗できない島の人々を殺して……まだ、幼い…嬢ちゃんよりも幼い子を…皆で……何人もを弄んだりしたんじゃよ…」
あたし……あたし、体が震えてた…
その時、そっと、ヴェストルの手が肩を抱いてくれたの…あたし、そんなヴェストルに寄り掛かって…顔を伏せてた……
「儂は、否定はせん…儂等は鬼になったんじゃ…
…糧食が尽きてくると…蛮行はますます酷くなって……そこへな、敵も攻めてくるんじゃ…儂等はばらばらになって、森の奥に逃げ込むしかなかったんじゃよ…
若い体を、木の実だけで維持する事は出来んかった……儂等は、多くの血を流しながらも…まだ、…そう、まだ生きていたかったんじゃ……あれから、何度、後悔した事か…あの時、死んでいればよかったんじゃよ…」
「…いいえ。そんな事はありません」
激しく体を震わせ始めたお爺さんにね…礼奈、そっと囁いてる……
「じゃが…見上げてくるんじゃよ……下半身を虫に喰われた仲間が…青白い顔で…!」
礼奈、興奮して叫んでるお爺さんの手を、優しく両手で包み込んでた…すぐに、お爺さん…柔らかな目を取り戻して…落ち着いてる…
……でも…でもね、あたしは……
「…嬢ちゃん、信じられんかも知れん……儂は、何でもいいから『肉』が欲しかったんじゃ…虫に喰わせるなど…勿体無い……そう思うたんじゃよ……
何人かで切り分けて…血を抜いてな……今でも、思い出すんじゃ…死んだ仲間が夢で笑うんじゃよ……うまかっただろう、ってな!」
あたし、あたし……もう、耐えられなくて…
ヴェストルに抱き着いて、力一杯、泣き出してた……
…でも、でもね……聞かなくちゃいけないの…
これ…『現実』だったんだもん……
「…そうじゃ。その時の儂には…それは『肉』でしかなかったんじゃ…」
「…人間も、獣と何ら変わりませんからね。人間は理性を持つが故に自らを高等な生物と信じ、この地球上では頂点の存在だと思っているようですが…人間など、進化の過程の途上で生れた存在の一つでしかありません。最終目的ではないんですよ…他の生物と何が違うと言うんでしょうか」
ヴェストルの静かな声がする…ヴェストル……
…あたしも『人間』なのよ…
指先にきゅっと力を込めたら…ヴェストル、そっと耳元で囁いてくれた。
「僕にとっては、人間も神もありません。僕は『美星さん』と言う《個》が『好き』なんですよ…」
ヴェストル…
…あたし、泣きながら……精一杯の力でしがみついてた…
「そうじゃ…儂等は野獣じゃ…
…嬢ちゃん…あの村に入った時……儂等は、もう、弾も残り少なかったのに…それでも、村の食料を奪おうとしとったんじゃ…
……酷いもんじゃった…儂は、それが男であれ女であれ…構わずに銃を乱射しとった……霞んだ目で、無駄弾を…いや、生き残らせる為の弾を撃たんように…骨ばかりになった体で、必死になって反動を抑えながら…人を殺しとったんじゃ……自分一人の為に、何十人もの村人を血で赤く染めたんじゃよ…
嬢ちゃんや…その時にな……儂は、一人の少女を撃ったんじゃ……
…弾は、右足を引き千切っただけで……嬢ちゃん、その時、儂は無駄な弾を撃ってしまったと…そう思って舌打ちしたんじゃよ…
その子は…な……茫然としたまま…不意に消えた右足を見つめとった……太股から下が乱暴に裂かれとって…どんどん、赤い血が噴き出しとるんじゃよ…
……それを…その子は、泣き叫びもせず、黙って見とるんじゃ……
見えるんじゃ…漆黒の闇の中に、あの子がずっと動かず座っとるのが…溢れ出す真っ赤な血が闇を押し退けて……その時…その時にな…」
急に大きく震え出したお爺さんの声に、あたし、驚いて振り返ってた。
「…顔を上げるんじゃよ……どうして、自分がこんな目に遭うたのか分からない…そんな目で…そんな目で見てくるんじゃよ…!
そうじゃ! 黒い澄んだ瞳が、じっと見つめとるんじゃよ! 涙も無しに、光る目で!」
お爺さん、絶叫しながら立ち上がってる。あたし、びっくりして…その瞬間、お爺さん…思い切り腕を振り上げて、堤防のコンクリートに打ち付けてるじゃない!
「止めて!」
腕が折れちゃうくらい……異様な雰囲気で、何度も何度も…!
…その時ね、礼奈がお爺さんの前にさっと手を差し伸べたの。お爺さん、驚いた顔で…黙って礼奈を見つめてた。
「…落ち着かれましたか?」
お爺さん、急に力を失って…又、腰を下ろして頭を抱え込んでた……
「…嬢ちゃん……恐ろしいんじゃ…忘れられんのじゃよ。…それくらい、清純な瞳じゃった……あの子はな、仲間の死体が話し掛けてきたような…『夢』なんかじゃない……『現実』に、儂をそんな目で見てきたんじゃよ……
儂には…それ以上、銃を撃つ事が出来んかった……ただ恐くて…大声で叫びながら走り続けたんじゃ…
これが……国の為に…国の繁栄の為にと思うて、儂が志願した事の『現実』だったんじゃ…
国家に依って戦場に向かい…儂等、下っ端の兵隊達は、逆らえん流れの中で虐殺を行った…儂等も被害者なんじゃと……儂には、とても言えん……
…逆らえん潮流の中でも……麻痺した心でも、確かに人を殺しとったのは、紛れも無い『事実』なんじゃからな…」
……あたし…あたしね。…何も言えなかったのよ……何も…
ただ…ただ、震えてた……恐くて…苦しくて…
「…お爺さん。確かに、今のお爺さんの《生》は、その殺された少女や他の人達の上にあります……ですが、その時の行為は…『過去』の中のお爺さんが行った事なんですよ…」
礼奈、静かに瞳を閉じて話してる…
「時は戻ってくれません。経過や原因が何であれ…お爺さんはその過去に依って、多くの方々の《死》の上に《生》を営む事になったのです……その行為を悔やまれるのでしたら、お爺さん…これからも、一日一日を大事に暮らして下さい…お爺さんには、多くに支えられた…その生きていた証を守らなければならない義務があります。お爺さんが過去を恐れ、『今』に適応出来ずに自殺を図れば……お爺さん。その少女の生命は、全くの無駄になってしまいます…」
…多分ね、お爺さん。そんな礼奈の言葉、半分も聞いてなかったと思うの。でも、でもね…そっと腕に触れてる細い指先からは、きっと…もっと沢山の想いが伝わったと思う。
…だから、お爺さん……すっかり落ち着いて帰っていったのよ。
暫くしてね…ヴェストル、冷たく抑揚の無い声で礼奈に話し掛けたの。
「彼がした事は、見えない力に翻弄されたとは言え、正義ではありません。礼奈さんは、よくあのような事が言えますね。彼が自殺をしたとしても、それは《業》の結果としては当然だと思いますが」
そんな…!
「…強い流れの中では、正義もその姿を変える事があります…わたしは、あの人に死んでもらいたくなかったんです」
静かな礼奈の言葉に、ヴェストル、突き刺さるような声で言ったのよ…
「…自らの安寧の為の…偽善ですか」
そんな…そんな……!
「…そうかも知れません。わたしも又、『人間』ですから…」
あたし、もう我慢出来なくて…泣きながら叫んでた。
「酷いよ、ヴェストル! 礼奈、絶対に自分の為だけに何かをしたりしないんだから! どうして、どうしていけないの? 礼奈の言った通りじゃない!」
「美星さん…」
優しく抱き寄せてくれる…あたし……
「あたし…時々、ヴェストルの事が分かんない……でも、でもね……分かりたいのよ…」
「…美星さん。彼が自らの為だけに多くの命を奪った事は、僕から見れば《悪業》です。礼奈さんは、それを打ち消そうとしていましたが…そのような試みを望む事も又、欲望であり《業》なんですよ。
美星さん…《本当》に大切な事は、彼の過去や行為から何かを取り出して、生じた《業》を打ち消す事ではなく…《悪業》を生じさせない事なんです」
でも…
「でもね…? 礼奈…『善い事』をしようとして、あんな事を言ってるんじゃないのよ……ただ、黙ってられなくて…」
「…神々にも同じような事はあります。彼等も又、更なる上位へと移る存在なのですから…
ですが、美星さん。僕には、恐らく美星さんよりも広く、深い所までを観る事が出来ます。ですから、自ずから《業》への関わり方も異なりますし…生み出す《縁》も又、違うものを志すんですよ」
そんな事、分かってる…でも、でもね、あたしは……
『神』と『人間』の違いじゃなくて……『ヴェストル』を知りたいのよ…
「ごめんなさい、ミホ…折角、誘ってもらったのに…わたしのせいで……」
礼奈のひどく沈んだ言葉に、あたし、慌てて顔を上げてた。
「ううん! 礼奈は悪くないわ。…ごめんね…今度は、もっときちんと誘うからね」
「ありがとう…」
「…戻りましょうか」
ヴェストル、そう言って優しく指を取ってくれる。どんなに嫌いになる事を言っても…あたし、やっぱり……
…ヴェストルの事が『好き』なのよ。
礼奈とも別れて、部屋に戻った時…ヴェストルね、ベッドの上のあたしにそっと尋ねてきたの。
「美星さん…僕も、もっと美星さんの事を分かりたいと思っています……ですから、これからも…僕がこの部屋に来ても構わないでしょうか…」
あたし、そんなヴェストルの言葉にとっても驚いてた。
「勿論じゃない! そんな事、言わないでよ」
「ですが…若しも僕の事を知って『嫌い』になられた時には……そう言って下さい。ただ…それでも覚えていてくれませんか。僕が、今と同じく…美星さんを『好き』なまま、遠くから見守り続けている事を…」
「ちょっと待ってよ! どうして? どうしてそんな事を言うの!」
あたし…また泣きじゃくってた…
「あたし、こんなに『好き』なのに…もっと好きになりたいから、ヴェストルの事、分かりたいんじゃない! 嫌いになんてならないわよ!」
「美星さん…」
「もう、絶対にそんな事言わないで! 今度そんな事言ったら、あたし、ヴェストルを嫌いになるから! …だから、お願い。もう言わないでよ?」
「…はい」
ヴェストルがそんなに気にしてたなんて、あたし、知らなくて…
「…ごめんなさい。あたしがいけなかったのよね……あたし、いつも怒ってばかりで…でも、でもね? …あたし、ヴェストルの事が《本当》に『好き』だから…だから……」
「美星さん…」
ヴェストル…そっと抱いて、止めさせてくれたのよ……
素敵な姿が窓から消えてく…
ヴェストル…あたし、絶対、ヴェストルを嫌いになんてならないんだから!
…そうよ。どんなにヴェストルの嫌な所が分かっても、絶対に…ね。
6 木曜の齟齬 おわり
異なる姿に 生を享け
輝き違えた 碧葉群
その一枚が 黄金に染まる…




