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星斗幻想紀  作者: 風光
12/12

12 羅ごうの化生

 鉢植にされた碧紗の向こうで、寒空の下、金星が一際眩しく輝いている。


 …なんて静かなのだろう……なんて…冷たいのだろう……


 礼奈は部屋の中へと忍び込む青闇に包まれ、沈黙を身に纏った儘、ベッドの上の美星を見詰めていた。

 …どれだけ見ても、安らかに眠っているとしか思えない。窶れているとは言え、白皙な頬には美しく崇高な微笑みが刻み込まれており、軽く閉じられただけのその瞼は今にも開きそうに見える…

 だが……もう…この愛らしい唇からは、声が紡がれる事など無いのだ。

 礼奈は、ただ黙って…宵闇の中に座り続けていた。

 途切れる事の無い思い出が、胸中に黄金色の光を伴って甦ってくる。なんて、輝かしい夢だろう……《永遠》は彼女の心に宿り、今も息衝いているのだ……


 静寂を『時間』の中に織り込みながら、彼女は座り慣れた椅子から動こうとはしなかった…




 どれ程の時間が過ぎたのだろう。不意に、階下でざわめきが起きる。窓の外では、既に清らかな宝石達が天蓋に鏤められていると言うのに、一体誰が、この悲しみの家までやって来たのか……

 おばさんの、慌てた声がする…

 ……医者…?

 礼奈はそっと立ち上がると、部屋の明かりを点けて扉を開けようとした。

 だが、取っ手に触れるよりも先に、大きな足音が近付いてきたかと思うと、乱暴に扉が押し開かれる。白衣を身に着けた三人の男達は、今はまだ感情を映す事が出来ずにいる礼奈を目の前にして、一瞬その歩みを止めてしまっていた。

「君は、誰だね?」

 先頭に立つ男が、気を取り直して尋ねてくる。礼奈はその声に冷たい翳りを感じ取り、僅かに美しい眉を顰めながらも、深く頭を下げていた。この医者こそが、美星を最期まで助けようとしてくれていたのだ。

「彼女の友達で、景守と言います。…あの、お医者様ですか?」

「そうだ。彼女の死を知ったので、急いで駆けつけて来たのだ。悪いが、君はもう帰ってくれないか。今から、彼女を病院まで運ぶのだから」

「病院へ?」

 思いもしなかった言葉に、礼奈は唖然とした顔で彼らを見ていた。一体、美星をどうするつもりなのだろう…

 少なくとも、礼奈は美星から何も聞いてはいなかった。それはつまり、美星自身も知らなかった事になる。

「そうだ。彼女の肺や内臓に、どの程度の毒素が蓄積したままなのか、解剖して確かめるのだ」

「そんな…!」

 強く握り締めた両手を胸元に押し付け、礼奈は微かに身を震わせた。

 そんな彼女の思いなど気にも留めず、男は冷たい口調で続けている。

「既に、ご両親の了解は得ている。君には、最早関係の無い事だ」

 硬直した儘動けずにいる礼奈を後目に、他の二人が静かに横たわる美星へと近付こうとしている。だが、すぐに我に変えると、礼奈はベッドまで引き下がり、そんな男達の前に立ち塞がっていた。

「…ちょっと、待ってください! 毒素、って…? 病気の原因が分かったんですか?」

 必死になって叫ぶ礼奈に向かって、薄い唇に冷笑を浮かべながら、先程の男はゆっくりと近付いていた。

「分かるも何も…選ばれた彼女に、私が毒素を注入していたのだからね。勿論、実験の為に、完成したはずの毒消しも試してみたのだが、残念ながら彼女には効かなかったようだ。今から、その原因も調べてみなくてはならないのだよ」

「…毒素を…注入……?」

 それまで優しさと戸惑いに満ちていた瞳が、不意に鋭く細められる。穏やかだった言葉の連なりからも抑揚が失せ、礼奈の頬は憤怒の為に赤く上気していた。

「その通り。市販されている薬物で簡単に製造出来る、恐ろしい毒素だ。三年前にその事が知れた時には、流石に医学界に激震が走ったよ。すぐに緊急のプロジェクトが組まれ、極秘裏に実験を進める事になった。勿論、国も、政官共に関わってくれた。

 彼女の、月に二度の検査で、様々な事が分かってきた。どれだけの量を摂取すれば、どのような変化が体内で生じるのか、明確に現れたのだ。彼女一人の御蔭で、将来起こり得るこの毒素を用いた戦争や犯罪では、何千人という者が命を救われる事になるだろう」

「…どうして……どうして、平気なの……」

 黒い瞳の中で、青光が次第に増してくる。押し出すような低い声に従い、翠色の清澄な光の波が礼奈の全身を静かに洗い始めていた。

 だが、正義の《影》に酔い痴れている男達に、その不可思議な現象は見えていない…

「何故、平気で悪いのだ? 私に言わせれば、そもそも秘密にする必要など無いのだ。原料となる薬物は簡単に手に入る。多くの企業で実際に使用されている、ごく基本的な薬品なのだからな。規制などすれば、多大なダメージを日本経済に与える事になる。なら、どうすればいいのか。簡単な事だ。こうすれば防げるという事を、きちんと公表すればいい。その防御策が十分であれば、規制など不要だ。

 だからこそ、この一つの命を使って、調べたのだよ。彼女など、多くの必要な者達に比べれば、全く価値の無い人間だったからな。多くの者の為になれたのだ。誰かの役に立って死ぬ事が出来れば、それは本望ではないか」

「…ヒトツ…? ヒツヨウナモノ…?」

 刹那、礼奈に纏わる翠の炎が、大きく波打ち薄闇を焦がす。流石に男達もこの不可解な光景に気が付き、思わず退くと茫然と見詰めていた。

「…《生命》は、決して『数』では計れないのに…必要で無いものなんて、一つも無いのに……」

 礼奈は、自らの内に暗く不快な靄を見出していた。今迄に見た事も感じた事も無い、仄かに瞬く妖しい揺らめき……今、彼女は生まれて初めて、人に対して『殺意』を抱いていたのだ……

「…ミホは…ミホは信じていたのよ……お医者様は、頑張って病気を治そうとしてくれてる、って…必死で、病気の原因を探してくれてる、って………

 それなのに……薬と信じて…毒を注入されていたなんて……!」

 憤激に震える体から、凄まじい光のうねりが感情の波に伴い迸る。強く握り締められたその両の拳からは、今や鮮やかな赤い雫が床の上へと間断無く滴り落ちていた。

 男は、そんな礼奈の反応にたじろぎながらも、尚も冷めた声で話し掛けている。

「落ち着きなさい。無駄に死んだ訳ではないのだから」

「ミホを弄んでおきながら……どうして、そんな事が言えるの…! ミホは…ミホは、何も知らなかったのよ…? 自分が、実験の対象にされているなんて…病気なんかではなくて……殺されているんだ、って………」

 ……普段の礼奈を知る者なら、今の彼女を見て驚く事だろう。優しさと温もりに満ち、静けさと穏やかさに溢れる彼女が、今や形相も凄まじく、まるで鬼魅であるかのように振舞っていた……

「知らなくて当然だ。よく考えてみるがいい。何か別の薬でも飲まれたら、実験にならないではないか」

「……! …その為に、ミホは…ミホはあんなにも苦しんでいたのよ…!

 …許せない……わたし、絶対に許せない……

 ミホ、いつも誰か他の人の役に立ちたい、って……でも、こんな形で…何も知らずに、殺されて……ミホの…ミホの意志なんて、何処にも無いじゃない…!」

「そんなものは無い。多くの者の為には、少数の犠牲の意志など関係無い」

「多くの為なら…ミホが殺されても構わないの…?」

「よく考えるがいい。彼女一人がいなくなっても、これからもずっと、多くの者には全く関係が無いのだ。多くの者にとって、彼女は必要な者とはなり得ない」

「……! …でも…でも『わたし』にとっては、必要な人だったのよ……!」

 …彼女の死は何だったのか……あの苦しみは、一体何の為に…………

「起こるかどうかも分からない妄想で…力ずくでミホを巻き込むなんて……

 …絶対に、許せない……!」

 悲痛な絶叫が部屋の中に響き渡るや否や、礼奈を包む炎から透き通った翠の槍が無数に飛び出していく。心に満ちる悲愴な殺意に従い、美しい光の軌跡は、真っ直ぐに男達を貫こうと……

(…礼奈)

 不意に、『時間』の《声》が胸に過ぎる。大きな温もりに満ち溢れた…だが、厳しくて深い黄金色の『力』……

 次の瞬間、全ての槍の穂先は弾け、翠の光は消えていた……

(志水さん…)

 胸の呟きと共に、彼女の心を支配していた殺意や憎悪が黄金色の輝きへと飲み込まれていく。

 …そこには、今や例えようも無い、深い悲しみだけが…青く、静かに横たわっていた……

 ちらちらと瞬く翠を背に負いながら、震える唇で僅かに息を吸い込む…

 …やがて、礼奈はうろたえている男達を見据えると、静かに声を押し出していた。

「…わたし…今でも、本当は殺してしまいたいのかも知れない……どんな言葉で飾っても…わたしには、絶対に赦せないから……

 でも……そんな事をすれば……きっと、ミホは悲しむもの…

 きっと…どんな理由であっても…人殺しにはなって欲しくない……きっと、そう思っているもの……

 …わたし…これ以上……ミホに悲しんでもらいたくない………」

 優しい頬に、清楚な煌きが宿る。微かに震える声で、礼奈は瞳を閉じると語り続けていた。

「…ミホが…どうして……どうして、殺されなくてはならなかったのか……わたしには…分からない……

 …でも、ミホは精一杯、自分の儘で生きていたわ……

 その『死』には…他のどんな意志も、入り込む事なんて出来ないのよ……」

 美星の死…その絶対的な《真実》の前には、「弄ばれ、殺された」という《事実》など無にも等しい。

 美星は、その経過や原因はどうであれ、《真》を知り、《唯一の本質》への『回帰』を行ったのだ……

 …礼奈の独白が続く。

「…自らの目的と利己的な思考の為に…《影》にも気付かず…他の『個』なんて顧みない……

 そんな酷いあなた達を…でも…わたし、このままにしておきたくもない……

 ミホの様に苦しむのは…もう、一人で充分だもの……

 …だから……」

 不意に顔を上げると、毅然とした態度で礼奈は告げた。

「わたしは、あなた達を妖夢界に送ります。物質界に居ながら、夢魔と成った人には…そこ以外に、行くべき所はありません…」

 愛らしい唇の間から、緩やかな音色に乗って言の葉が滑り出す。

 …次には、三人の姿は美星の部屋から消え去っていた。

「…ミホ……」

 張り詰めていた気が一気に緩み、礼奈はその場で膝を折り、頽れてしまう………

 ……やがて……声も無く……彼女は心の儘に哭き出していた…




「ミホ…わたしね、高校に合格したの……」

 礼奈は暮れていく西天(マール)を見詰め、そっと小さく呟いていた。

 地上は遥かな下に霞んでいる。だが、どれだけ高く昇ろうとも、美星やヴェストルの居る世界には届かないのだ…未だ、彼女自身には、ヴェストルの世界へと向かうことは許されていなかった。

 茜色が残る間から、既に金星の輝きは大地に沈み込もうとしている。もうすぐ、この美しい宝石は(グニル)の空へと移って行くのだろう。

「…ありがとう……」

 柔らかな囁きが、銀色に煌く寒風に抱かれ、流れていく。

 無論、応えなど望んでいない。今や、美星は更なる上位へと移行しているのだ。その『加階』の際に、記憶は洗われ…最早、礼奈一人にその視線を向ける事も無いだろう…

 胸の奥が、深い悲しみに締め付けられる。

 だが、礼奈には分かっていたのだ。この胸の奥に宿る黄金の存在も又、《今》を生きる『美星』そのものだという事を……

 白銀の乙女達に慰められながら、礼奈は軽く両腕を広げていた。細く、透き通るように白い腕が、天の残照を受けて輝き出している。明るい栗色の髪は淡い金色に煌き、風の愛撫に依ってその上には無数の宝石が鏤められていた。

 青の入る黒い瞳が、高い天空を仰ぎ見る。その視野の中へと、クリーム色をしたカペラの眩しい光輝が飛び込んできた。そのまま目を東へ下げていくと、赤い黄金に輝くポルックスと白いカストルが仲良く並んで見えている。双子座とはよく言ったものだ。愛らしいこの星達の如く、美星とヴェストルも《永遠》に西の空を駆け巡る事になるのだろう。

 …礼奈は、美星が好きだった星々を、丹念に一つ一つ追っていた。

 南では、オリオンの三ツ星が天を貫き、それを挟んで赤く燃えるベテルギウスと白いリゲルが華やかに青闇を飾っている。その傍で鋭く瞳を射してくるのが、白く冷たいシリウスだ。再び東へと向かうと、青白いプロキオンが輝いており、地平近くではレグルスが大気に揺れながら礼奈を見上げている……

 それぞれの星達に、それぞれの思い出が宿っている。胸中に広がるその温かな波に想いを馳せながら、彼女は天頂へともう一度視線を戻した。


 …深く、息を吸い込む………


 やがて、その双眸を静かに閉じると…調った愛らしい唇からは、優しい言葉達がそっと溢れ出していた。



    朧に霞む 天穹の許

     灰色の大地に育まれ

    一つの大樹が (かいな)を伸ばす…


     静寂(しじま)漂う その樹幹には

       『時間(とき)』にも褪せぬ《銀》が流れ

     光に躍る その枝葉には

       《(まこと)》を示す《黄金(こがね)》が宿る…


   (かつ)て 二つにありしもの

    今は 共に唇歯と為る…


    さ緑の葉は 互いを重ね

     揺らめく軌跡を (ひかり)に描く

    楚々たる枝柯は 優美に絡み

     一途の旅路を 虚空に辿る…



 清澄な大気へと、柔らかな言葉が溶けていく。全ての存在がそれを受け取り、礼奈の想いにじっと耳を傾けていた。

(…?)

 不意に、自分の(うた)に和してきた《声》がある。微かで…捉えどころの無い遠い歌声……

(あれは…)

 珈娜枝や、琳瑩だろうか……いや、それだけではない。何処か懐かしく、心がさざめいてくる…優しくて温かな言葉達……

 礼奈は、いつしか黄金色の輝きに身を抱かれながら、知らず涙を流していた。

 …そう、あの《声》こそ………

 『樹』の中の…もう一つの存在……《源》であり、『自分自身』である存在……

 ……その存在の《声》なのだ………



    涼風駈ける 緑陰の下

     夕づつ愛せし『歴史(とき)』の『樹』を

    わたしは見上げ 胸に呼ぶ…


     異なる姿に 生を享け

      輝き違えた 碧葉群

    その一枚が 黄金に染まる…


     遥かな『過去(とき)』を その身に纏い

      久遠の『未来(とき)』へと 新たを過ごす

     月の煌き 秘めたる風は

      静かな波間に 夢路を巡る…



 今や、礼奈ははっきりと《声》の主を確信していた。『もう一つのわたし』は、この世界…この時代に『生きている』のだ……

 素直な気持ちで、彼女はその《真実》を受け止めていた。

 …いつか、出逢えるかも知れない……例え、それが『人間』ではないとしても………

 突然湧き上がってくる喜びに、全身が打ち震える。興奮に掠れた声で、礼奈は更に高らかと歌い上げていた。



     《真》を(いだ)き 春には歌い

      《(まこと)》に抱かれ 夏に戯る

     星斗を包み 秋を囁き

      夕に包まれ 冬に羽ばたく…


  愛しき存在(もの)は遠くとも

   常にわたしの中に舞う…


  『時間』の全てを身に受けながら………


   …若き緑は永久(とわ)に舞う…………



「…ありがとう……」

 礼奈は、自分の想いに触れてくれた《全て》の存在に、美しい、豊かな微笑みを投げ掛けていた。

 ……やがて、濡れた瞳からは薄明も消える…

 穏やかな星辰が散る西天に向かい、礼奈は静かな喜びと共に告げていた。

「…ミホ……もう、わたし…悲しんだりしないわ…

 ……これが、《本当》なんだもの……きっと、そうなの……」


 澄んだ翠の光が、闇の中へと掻き消されていく。


 …後には、白銀の乙女達だけが、天の宝珠を瞬かせていた……

                                                                        12 羅ごうの化生 おわり






                                                                        『星斗幻想紀』 おわり


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