11 冥王の諒恕
ありがとう 礼奈…《本当》にありがとう………
「…あっ、…も、う……」
…う〜ん、すっかり声も出なくなっちゃった。
もう、窓の外がとっても明るくなってる。ついさっきまでは、窓辺に飾った碧紗の花も見えてなかったのに…西に開いた窓の向こうで、今は綺麗に澄み切った青い空が広がってる。朝日に照らされた雲なんて、全然見えてないのよ。
…礼奈、こんなに晴れてるんだもん。きっと、大丈夫よね…
そうなの。今日は、礼奈の受験日。礼奈ってね、こんな風に晴れてる日の方が調子が良いのよ。こんな日なら、もう合格したも同然だわ。
…あたし、安心して溜め息を吐いてた。その途端にね、ふっと脳裏に夢が甦ってきたの。
そう、『夢』…あたしね、ついさっきまで懐かしい『夢』を見てたのよ。…ううん、あれ、昔あった『現実』かも知れない……
あたしが三つくらいの時かな。午前中はね、大好きな中島のお姉ちゃんも学校に行ってたから、あたし、一人でいつも、そこに見えてる公園で遊んでたの。
その時も、いつもみたいに砂場に入って服を汚しながら、あたし、泥だらけの手で山を作ってた。その時に…ね。急に男の人の声がしたのよ……あたし、随分と頑張ってみたんだけど…その人の、声の調子が思い出せないの。……でも、でもね? …温かさだけは覚えてる…とっても優しい黄金色の音の波……
「アーニャさん、僕の事を覚えておられますか?」
そんな事を言ってくるんだもん。あたし、何の事か分かんなくて、きょとんと見上げてた。そう、…見上げてたはずなのに…どうしても、その顔がはっきり思い出せないのよ。シルエット全体が、揺らめく光に包まれてて…
「アーニャってだぁれ?」
真っ黒になった手を止めて、あたし、小首を傾げてじっと見つめてた。でも、でもね? 全然、恐くはなかったのよ。それどころか、とっても安心出来る…柔らかな光に覆われて……
「貴女の事ですよ…」
「あたし? あたし、美星だもん! アーニャじゃないよ」
「…そうですか……」
その人、とっても悲しそうな声でね……あたし、『夢』の中で泣きそうになってた。この人が、こんなに悲しくなったらいけないの…あたし、この人にはいつも喜んでいて欲しい……小さくても、あたし、本気でそう思ってた。
だからね、あたし、にっこり笑って約束したのよ……
「でも、でもね。あたし、もうお兄ちゃんの事、覚えたよ」
「美星さん…」
「本当なんだから。…う〜ん、と…じゃぁね、あたしが死ぬ時、お兄ちゃん、来てくれてもいいよ。あたし、その時になっても、絶対覚えてるからね!」
あたし…『死』が何かも知らずに約束してた…
「はい…分かりました」
その人、静かに微笑んで…こう言ったと思うのよ。
「もしも、その時になっても、美星さんが僕の事を覚えていて下さったら…その時には、僕の《全て》を美星さんに託しましょう…」
「うん! 約束だからねぇ」
「はい…」
そこでね、場面全体が金色の波に洗われてくの…それ以上は、何も思い出せなくて……
でも…でも、ね? きっと…
……そう、きっとこの人は………
「美星さん…お約束を覚えておられますか…」
丸顔の小人が…ヴェストルが、窓の外から覗き込んでる……
……そう、やっぱり…
「…あれは……ヴェストルだったのよね…」
目の前で、ふっと若者の姿になって…ヴェストル、重く頷いてる。
あたしね…嬉しかったのよ……《本当》に、嬉しかったの……
「ヴェストル…今日が、『約束の日』なのね…あたし、覚えてたわ」
「……はい」
そう…『約束』……それを果たすのは…
……あたしが『死ぬ』日………
…でも、でもね? あたし、もう恐くなんてなかったの。
ただ…
「ねぇ、ヴェストル…」
ヴェストル、傍の椅子に腰掛けて……そうなの…その椅子は……
「礼奈、悲しむだろうね…」
ヴェストル、あたしの髪をそっと撫でてくれる…
でも、でもね? 礼奈の受験を、あたし、絶対に邪魔なんてしたくなかったから……連絡はしなかったのよ。
「ヴェストル……」
「はい」
あたしね、すっかり動くようになった舌で…子供みたいに恥ずかしがってた。
「…今日、一日中居てくれる?」
「はい…」
「……うん」
あたし、すっかり安心して目を閉じてたのよ………
「ヴェストル…」
「何ですか? 美星さん」
…今ね、ちょっと不安になってる…ううん、本当はずっと前から気付いてる事なんだけど……
でも、でも…ね? これだけは…恐くて……まだ、尋ねられないのよ…
「ううん……何でもない…」
「美星さんらしくないですね…」
ヴェストル、驚いた顔してるんだもん。あたし、仕方無く遠回しに話し始めてた。
「あのね、あたし…《命》を大切にしてないのかな…」
「どうしてですか?」
「《命》を大切にして、出来る限り『死』を先に延ばすのなら……あたし、入院して…機械や薬を一杯使ってでも、生きようとするべきなんじゃない…?」
そうすれば…そんな風に、機械に繋がれた姿でも……
……ヴェストルとは逢えるのよ…
「ですが…美星さんは、そんな事をしたくないんでしょう?」
「…うん」
そうなの…
生き延びても……何かが引っ掛かるのよ……例え、そうする事でヴェストルと…もう少し……そう…もう少し長く、逢える事になっても…ね。
「それはどうしてですか?」
そっと抱き寄せながら、優しく尋ねてくれる…あたし、どきどきしちゃって……
…でも、でもね…声だけは、真剣に答えようとしてたの。
「あたしね…どんなに疲れても、どんなに窶れても……いつも、『あたし』でいようとしてた……『あたしらしく』生きていたかったの…」
「…はい」
「でも、でもね…入院して、あたし、声も出せなくなって……それでもまだ、機械で生き続けてたら…ね。…『あたし』っていう《様相》が消えてしまうような気がして………
あたし、自分の意志もはっきり伝えられなくなって…そんな状態に苦しみながらね、それでも生きていたいとは思わないのよ……
そんな状態になったら…きっと、そこに生きてるのは『あたし』じゃないの…もう、生き延ばされてるのは『あたし』の《命》じゃないのよ。社会や家族、世論や政治みたいな見えない手が『あたし』に代わって《命》を残してる……でも、でもね? 苦しみ悶えて死んでいくのは…『あたし』っていう《個》なのよ……そんな、見えない『力』なんかじゃない…
あたし……だからね…『あたし』でいられる間に『死』を迎えたいのよ」
「美星さん…」
あたしね、ヴェストルの腕の中で…目を閉じて静かに話し続けてた。
「礼奈の事は心配だけど…でも、でもね……
…もう、あたし、遺すものなんて何も無いのよ。…出来る事は、全部してみたんだもん……後は、こうしてゆっくり逝くだけ……
こうなる事は解ってたんだけど……」
あたし……ヴェストルを見上げて…思い切り、抱き着いてた。
「もう……お別れね……」
あたし…あたし……
…そう、それがとっても恐かったの……もう、ヴェストルとも逢えなくなるのよ………
とっても辛いのよ…
ヴェストル…………
「美星さん…」
強く抱き締めてくれる…ヴェストル、微かに震えてるあたしに、そっと囁いてくれたの。
「僕も、十二年前にお約束しました…美星さんに《全て》を託します、と……
僕は、美星さんをずっと見てきました。僕は、いつの時代においても『美星さん』を愛し続けていたんです…第三期第一紀の『美星さん』を…第三期第二紀の『美星さん』を……そして、《今》の『美星さん』を……
美星さん、…『美星さん』は、いつでも僕の事を愛してくれました……ですが……僕は《永遠》なのですが……
…美星さんの『身体』はそうではありません……ですから、美星さんは必ず『死』を迎えられたんです…
新たな『生』を得る時、《魂》は全て洗われてしまいます。その時…以前の想いも又、忘れてしまうんです……
……辛いものでした…」
「ヴェストル…」
ヴェストル…ヴェストル……
あたし、泣きそうな顔で、力一杯抱き着いてた。とっても苦しくて…とっても悲しいの…
……辛いよ…
「…『美星さん』の『想い』は《永遠》でも……それは、所々で途切れてしまいます……美星さん、僕には耐えられなかったんですよ…ですから、何度も、何度も…『美星さん』を愛さないようにと………
ですが…勿論、無駄な事でした……
…そこで、決めたんです。僕も、《全て》を美星さんと同じく、『死』に託そうと……」
「ヴェストル!」
あたし、思いがけない言葉に、びっくりしてた。
「…西天の支持者である事を止め、『僕』も『死』を味わうつもりです。『美星さん』が『人間』である事を選べば…『僕』も『人間』となって同じ歳月を共に歩む事が出来ます……美星さん、若しも美星さんの僕に対する想いが《真》であれば…僕達は同じ存在として、同じ『時間』を辿れるんですよ…」
「…ヴェストル……!」
きっと…きっと《真》だもん…絶対、そうなんだから!
「ありがとう……でも…」
でもね…ヴェストルの司ってきた《全て》……ヴェストルの影響を受けてきた沢山の存在……
……《本当》に…いい、の…?
「美星さん…それは、別の《様相》が引き継いでくれるでしょう…
僕は、もう《全て》を捨てます……若しも、美星さんが受け取ってくれるのでしたら…」
「あたし……ありがとう…」
あたし、思い切り、何度も何度も抱き締めてた。もっともっと…この気持ち、伝えられたら……
…ううん。ヴェストルなら…きっと、分かってくれてるよね…
「ありがとう…ヴェストル、きっと捨てるものなんて無いのよ……もっと、大きな重荷を背負うんだもん…あたし、何も出来ないけど……でも、でもね…出来る限りで助けてあげたいの…」
「美星さん…有り難う御座います。僕は後悔なんてしません……最後に、『美星さん』さえ残ってくれるのでしたら…」
「ヴェストル……」
嬉しかった…《本当》に嬉しかった……
…ヴェストル……
「あたしね…こんなにヴェストルの事が『好き』になれて…こんなにヴェストルに『好き』になってもらえて……《本当》に良かったと思うの…
……ありがとう、ヴェストル…」
きっと…きっと、ね。…こう想える事が……
…《本当》なのよ……
……ね…?
そっと、キスしてくれる…
ずっと…ずっと、このまま……手を握ってて…
「美星さん…」
優しい声…あたしね、体中から力が抜けてく気がするの……
……とっても静かなのよ…
深い…深い静寂が温かく包み込んでくれる………
「…ヴェストル……」
目が…もう開いてられないよ……
「…又…『好き』になってね………」
「勿論です…美星さん……」
「…ありがとう………」
あたし…そっと、微笑んでた…………
……もう…ベッドが感じられないけど…
でも、でもね……指先だけは…とっても柔らかくて……
………温かいの…
…あたし……
……大きく…息を吸い込んで……………
…? …とっても眩しい…黄金色………
ううん……銀色が…………
…………ヴェストル……
「……!」
突如、矢を受けたような鋭利な痛みが、胸元を貫く…
不意に襲ってきた苦痛に対し、礼奈は思わず身を固めてしまった。呼吸が止まる程に、冷たい手が胸の奥を締め付ける。とてもではないが、これ以上試験を解き続ける事など出来そうにない。
(…ミホ?)
いつも、一番身近に感じられる彼女の気配が……消えている!
…まさか……
「どうかしましたか?」
体が、抑えようもなく微かに震えてくる。恐怖と不安に襲われる礼奈へと、試験官の一人は心配そうに声を掛けていた。
だが…今の彼女には、それに応える余裕など無かった。
今すぐ…そう、今すぐにでも、彼女の所に向かわなくては……
(駄目よ、礼奈! 最後まで頑張って!)
(…ミホ!)
強く閉じられた瞼の裏に、柔らかな彼女の笑顔が浮かび上がってくる。
(礼奈、あたしになんて気を取られたら駄目よ。来るべきものが来ただけなんだもん…悲しくなんてないわ。
…でも、でもね? 若しもあたしのせいで、礼奈が合格しなかったら…あたし、一つ悲しみを背負って逝く事になるのよ。だから、ね? 頑張って! 絶対に、合格して!)
(………)
「大丈夫ですか?」
清らかな滴が、滑らかな頬に幾つもの筋を描いては伝い落ちていく。礼奈の周りには既に何人もの試験官達が集まり、何度も声を掛けているのだが…彼女は全く反応しようとはしなかった。礼奈の意識は、今や自分の心の中の映像にだけ、《全て》を傾けていたのだ。
(礼奈…ごめんね。こんな形でお別れするなんて…あたし、思ってもみなかった……でも、でもね…あたし、精一杯自分の意志で生きてきたし…微笑みながら死ねたのよ…それを、誇りにしたいの。…礼奈にも、誇りに思ってもらいたいのよ……
それからね…ヴェストルは……あたしと同じ…『死』を得るんだって……
……あたしの為に…ね。
礼奈……いつもいつも、《本当》にありがとう…又、新しい《様相》を身に着けたら……絶対に、逢おうね…三人で…星夜の町で…ね……)
(ミホ……)
閉じられた瞳からは、とめどなく美妙な煌きが溢れ出してくる。だが…礼奈は、自分が涙を流している事にすら気が付いていなかった……
(だから…ね? もう、泣かないで。あたしだって、笑えたんだから!
礼奈……
……ごめんね…)
闇に浮かぶ美星は、少ししゃくりあげながらも微笑んでいる。優しく落ち着いたその悲しみは……そう、礼奈自身の為なのだ…
(ううん…わたしの方こそ……ごめんなさい……)
精一杯の力で、礼奈は白皙なその頬に笑みを浮かべようとしている…
……だが、彼女とて『人間』なのだ…《真実》のみに支配されている訳では無い。悲しみを感じても、それは当然の事ではないか……
(…でも……ミホ…? …若しも、次の《様相》で…《永遠》を得たなら……
ヴェストルさんと、その《永遠》を生きていけるの…?)
普段はその強さで感情を抑えている礼奈も、今度だけは自分を欺く事が難しかった。相手が美星だからこそ……《本当》に不安だったのだ…
永遠の《生》は永遠の《死》……彼女は、そう信じていたのだから……
そんな礼奈の問い掛けに、だが美星は考える間も置かず、すぐに力強く頷いていた。
(どんな《様相》になっても……きっと幸福になれるわ)
(ミホ……じゃぁ…わたしは、もう……何も、言わないわ…)
今は…今だけは、泣かないでおこう………
自らの頬に伝う清澄な流れこそが、今の美星の心に悲しみと痛みを充たしていくのだから……礼奈は、絶対に彼女を苦しめたくはなかった。その想いは、彼女に大きな強さを与えてくれる…
(ありがとう、礼奈……じゃぁ…もう、行くね……)
暗闇を背に映像は広がり、揺らめく影を退けていく……その光に包まれながら、礼奈は胸中に多くの声にならない《言の葉》を受け取っていた。
そして…美星も又、礼奈の《全て》を受け止めて………
……やがて、黄金色の波間へと…そっと、静かに沈み込んでいった……
「おい、この子を医務室に…」
美星の意識が霧散した直後、周囲の慌ただしい声が飛び込んでくる。
礼奈はゆっくりと顔を上げると、そんな言葉に小さく…だが毅然と頭を振って答えていた。
「いえ…大丈夫です。……約束をしたんです……わたしは、それを守らなくてはいけません…」
何事か分からず、顔を見合わせている試験官達に囲まれながら、礼奈は震える指先で鉛筆を走らせ始めた。
その優しい頬に、淡い真珠の煌きは最早見られない……だが…彼女の温かな胸は硬く張り詰め、心はその思いの儘に、いつまでもいつまでも…哭き続けていた……
漸く、受験科目が全て終わる。解答用紙が集められるや否や、礼奈は人の来ない廊下の影へと走り込み…刹那、彼女の姿はその場から掻き消すように見えなくなっていた。
僅かに青の混じる黒い双眸には、すぐに美星の部屋の様子が飛び込んでくる。普段と何一つ変わっていないベッドの上……だが、そこに横たわる彼女は……
……今や、優しく微笑むだけで…少しも動こうとはしないのだ…………
「……ミホ……」
(…ごめんなさい……涙は…ごめんなさい……)
どうしても…『死』の《本当》を知りながらも……美しい白露は、礼奈の瞳から留まる事無く溢れ出すのだ。
「礼奈さん…」
ベッドの脇で、静かな微笑を浮かべながら…ヴェストルがそっと手を伸ばしてくる。礼奈はその仕草に思わず駆け寄ると、彼の腕にしがみついていた。
ヴェストルにも、多くの犠牲が伴うのだ……どれ程の決意だった事だろう…どれ程の苦しみだった事だろう…
「…お願いします。喜んではくれませんか……もう、僕と美星さんは『一つ』なんですから…」
そう囁く西天の支持者を、黄金色の光が緩やかに嘗め始めている…
……やがて…
…礼奈の華奢な腕に抱かれていたヴェストルの肉体は、吹いていない風にゆっくりと攫われてしまった……
その瞬間、彼女は声を上げて泣き出していた…………
「…礼奈」
深い悲しみが、部屋の存在全てに満ち広がる中…不意に、温かな男の声が零れ落ちてくる。その静謐な重みある呟きには、憐憫の情が色濃く籠められている。
礼奈はその声に『時間』の力を感じ、濡れた優しい瞳をゆっくりと上げた。
「……見ているんだ」
目の前に立つ黒髪の若者は、黄金色を秘める漆黒の双眸で礼奈を見詰めたかと思うと、そっと、彼女の指先を取っていた。
「あっ…」
体中の、あらゆる『力』が融けていく……
次に気付いた時には、礼奈は『郷夢の森』を彷徨っていた。
灰色に支配された森の中で、細い足がぼんやりと立ち尽くす。その時、風が何処からか沸き起こり、待っていた礼奈の耳元へと、先程の若者の声を伝えてきた。
「天の星辰を司る神、ヴェリメよ。西天の存在は『死』によって『加階』する…共に、再び西天を与えるべきではないか?」
深く静かな言葉に、郷夢の森を包んで更に余りある程の広さを伴う《声》が、灰色の天蓋から降り注いだ。
「…自ら《義務》を破棄したものに、再び《義務》を付与してどうなろう…」
(…あれは……!)
以前、大好きな『樹』から教わった事がある。あの《声》は、無口なヴェリメ神御自らの応えではないか…
高く、茫洋たる空にも似た静けさ溢れる声に、二十歳程にしか見えない若者は、全く動じる事無く続けている。
「それ程の想いだからこそ、再び二人に西天を与えるべきだろう。《全て》を見通す、鴉のラーズスヴィズは何を視ている?」
礼奈は、息を潜めて神の応えを待っていた。全てが、この二者の遣り取りから決まるのだ。
…そう…美星とヴェストルの《全て》が……
「……あっ!」
一つの色合いに支配されるこの森の中で…不意に、礼奈の前に二本の大木が立ち並んでいた。大樹は共に鮮やかな緑葉を繁らせ、遥かな天空を貫こうとしている。
『色彩』を持つその二本の『樹』は、今迄にも幾度も枝を絡め、太い幹を交わらせていた。それが、今、目の前で大きく動こうとしているのだ。柔らかく流れる黄金色に包まれ…二本の『樹』は、互いに寄り添って《一つ》になろうとしている……
礼奈は、その青が含まれる黒い瞳を見開いた儘、何も言わず茫然と見守っていた。知らず、胸の奥が熱くなってくる。その胸中の喜びに従い、彼女の双眸からは優しく温かな涙が幾筋も流れ出していく…
突如、二本であった『樹』の幹が、銀色の煌きを呈し始める。『時間』の停滞を示すその輝かしい光を内に秘めながら、黄金を纏う『樹』は郷夢の森の中で完全に《一つ》となり、灰色の煙る天頂目指して梢を伸ばしていく…………
「ミホ…」
礼奈には分かっていた。美星は《永遠》をヴェストルと共に生きる事になったのだ。ヴェストルが更なる上位への《移行》を終えると同時に、彼女も又、上位の『様相』に加階し、共に西天の支持者としてこの世を統べるべき《義務》を負う事になったのだ。
「…残念ながら、《義務》の放棄に伴う《業》は負わなくてはならない。恐らく、ヴェストルが望む姿ではないだろうが…これ以上の状態を創る事は、難しかったんだよ。何代もの間冥府を彷徨い、様々な世界に現れては《業》の為に苦しみを負う…俺は、『水』を志す存在として、それだけは止めたかったんだ」
そっと呟かれる言葉に、礼奈はゆっくりと振り返り……
…次には、彼女は灰色の世界から美星の部屋の中へと引き戻されていた。
目の前では、若者が少し複雑な表情で彼女を見守っている。その漆黒の瞳を見上げた瞬間、礼奈は『樹』の中の…『自分』の中のもう一つの存在を思い出していた……
…だが…何処か違う気がする。それが『何』なのかも分からないのだが…
礼奈は、この若者が自分の答えを待っている事に気付いていた。だが、どうして応える事など出来るだろう……
「…わたしには分かりません」
だから、そう呟くしかなかったのだ…
「あれしか方法が無かったのか…あれで、ミホが幸福になれるのか………
ですが…志水さん。ミホやヴェストルさんなら…自分達を取り巻く状況がどれだけ変わったとしても……きっと……」
礼奈に自分の名前を言い当てられても、志水は全く驚かなかった。彼女には、その『力』が…そして、それ以上の《運命》が待っているのだ…
「…有り難う。俺にも、限界はある…『時間』の監視者として、これ以上は無理だったんだよ…」
「はい…」
ゆっくりと微笑む礼奈に、彼も頷きながら笑みを返している。だが、すぐに真剣な表情に戻ると、志水は告げた。
「礼奈。君は、今から更なる苦しみを受ける事になる…残念ながら、俺にはそれを助ける事は出来ないんだ…」
「え?」
「…彼女の『死』を、もう一度、よく考えてみてくれないか…君なら、『力』の選択を誤ったりはしないだろう……」
滑らかな、自然な動きで、すっと抱き寄せられる。広くて優しい…礼奈は、既にこの世界に存在しない両親を思い出して瞳を閉じていた。
額に、微かに触れるものがある。礼奈はそこから黄金色の煌きが発し、温かな奔流となって全身に満ち溢れていくのを感じていた。
「耐えられそうになかったら…美星の言葉を思い出しなさい……」
優しい囁きが耳元を通り過ぎた時、礼奈は独りで部屋の中に立ち尽くしていた。
「…大丈夫です。…もう、泣いたりしません……」
ベッドの中の穏やかな顔を見ながら、礼奈は『時間』が残した『力』を感じ、静かに呟いていた……
11 冥王の諒恕 おわり
…若き緑は永久に舞う…………




