1 『底辺ゆえの幸せ』
――窓のない地下牢。染み付いた鉄の臭いと、湿った土の感覚。――
何度殴られたか、もう覚えてない。
自由も、人権も、すべて牢の外に置いてきてしまった。
殴られる。痛い。自分の肌から流れる生暖かい血の感覚。
もう生きることさえどうでも良くなってしまうほどの不自由。
牢屋内に鎖の音が響く。また新しい奴隷が入ってきたのだろう。
この世界では奴隷に慈悲なんてない。奴隷となった瞬間から、物のように扱われ、殴られ、いたぶられる。
それも最初となると別格だ。奴隷になったばかりの頃は、自分の身分が低いことを教えつけられる。
言葉ではない、もちろん「体」でだ。思い出しただけで反吐が出る。
足音がこっちへ近づいてくる。食事だ。
食器とその上に盛られた料理が雑に床に叩きつけられる。その反動で中身が半分ほど床に落ちた。
泥のようなスープ、石のように硬い米。
噛む度に食べ物からなっている音とは到底思えない音が鳴り響く。
とても人が食べる食事とは思えない。
でも食べるのだ。
食べなければ死んでしまうのだ。
一日に一回だけの飯、食べたくなくても食べなければ翌日には牢屋の中で死体のように倒れ込み、酷い飢餓に襲われることだろう。
そんなことを考えながら、俺は情けなくそんな飯を貪った。
不味い、不味い、不味い、不味い、不味い。
カビたパンを食っていた方が100倍マシだろう。
スプーンで一回すくっただけでも飯の三分の一くらいがなくなった。
まだたった三十秒しか食べていないのにもう食器の底が丸見えだ。
そんな時、俺の腹の音がまるで聞こえてしまったかと思うほどのジャストタイミングで隣の牢屋から飯が出てきた。
「え?」
俺は驚きを隠せず、思わず声を上げてしまった。
隣の牢屋から出てきた飯、周りに飯をくれる人はいない。この状況から鑑みるに、横の奴隷が俺に飯をくれようとしているらしい。
...いやいやいや、飯は唯一の命綱、そんなことしていたら本当に死んでしまうぞ。
これは受け取るべきではない。同じ奴隷としてこんなものは受け取れない。
俺は咄嗟に横の牢を覗き込んだ。
泣いていた。
自分と同じくらいの少女が牢の端にうずくまり、泣いていた。
もう生気を失っている目だった。
生きるのなんてどうでもいい、死んだっていいからこの地獄から一刻も早く逃げ出したい。そんな感情が目から浮き出ている。
「だいじょうぶ?」
――――――
返事はない。ただ泣いている。
「ごはんは食べないと、しんじゃうよ?」
――――――
泣く声が一層強まった。
死んじゃう。がもしかすると禁句だったかもしれない。
そうだよな、死んじゃうなんて言われたら、現状を突き付けられている感覚になる。俺だって多分そうなる。
謝ろう。
「ごめん、あのさ、ごはん食べたくないなら、いっしょに食べない?」
同情を狙う作戦だ。異性から一緒に食べるなんて言われたら気持ちが悪いだろうか。
それでも仕方がなかったのだ。それくらいしかかける言葉がなかったのだから。
「うん...」
そういうと少女は、震えながらこちらへ足を運んだ。
ひとまず嫌われていなくて安心した。
話す言葉が見つからずに困っていたが、先に口が開いたのは俺ではなく少女の方だった。
「君は、誰なの...?」
誰、と言われると難しい。俺は昔から牢屋で過ごしてきた身だから、名前すらない。とりあえず、歳でも言っておこうか。
「おれは...10才。」
コミュニケーション下手なことが一瞬にして分かるそんな俺の発言に少女は涙を拭き、少し笑顔を見せた。
「私も10歳!」
二人一緒に笑った。
こんな些細なことでも楽しさを感じることができた。
無意識にスプーンを手に取り、飯を口に運んだ。
俺たちは飯を食べながら会話を楽しんだ。
人と会話しながら食べる飯はこれほどまでに美味しかったのか。
いつも不味いと感じていた飯が、味なんて気にせずに食べることができた。
少女もちゃんと飯を食べてくれた。
会話をしているうちに少女のこともある程度知ることができた。
名前はフィオナというらしい。なんともかわいらしい名前だ。
年齢は俺と同じの10歳。
そして一番驚いたのは、フィオナがさっき牢屋に入ってきたばかりということだ。
つまりフィオナは牢屋に入れられたことがショックで泣いていたらしい。
それから月日が過ぎ、一か月が経った。
今でも毎日、ご飯を食べるときや暇なときはフィオナと話している。
今日はどんな話をしようか。そんなことが頭に浮かぶほどに俺の心には余裕ができた。
これまでの人生の中で一番の幸せといっても過言ではない。
だが...時は唐突に訪れた。
――「やめて!」――
フィオナの牢から叫び声が聞こえた。
どうやらフィオナが奴隷として買われ、外に出されるらしい。
「とっとと立てやぁ!」
俺の牢にまで血が飛び散ってきた。
俺は見たくもない現状を見ざるを得なかった。
フィオナは床に倒れ込み、血を吐き、必死に抵抗している。
今にも死にそうなほど出血している。
奴隷が血を流しながら連れていかれるのはよくあることだが、今回は話が違う。
毎日のように話してきたあのフィオナだ。食事を楽しいと教えてくれたあのフィオナだ。
かといっても相手は大人。抵抗するだけ損だ。下手に俺まで抵抗すると殺されてしまうかもしれない。
助けるか助けないか迷っていた俺の目には一つの目が映った。
フィオナの目だ。青くきらきらと輝いている。まるで宝石のようだ。
何故前みたいに生気を失ったような目をしていない。
普通ならそんな状況になったら誰でも諦めるだろ。
そうだ、俺が助けると思っているからだ。俺が助けてくれると信じているからこんなにも希望に満ちた目をしているのだ。
「ちっ!気持ちわりぃ。おら!早く立て!」
フィオナの首に刃物が当てられた。あと少しでも時間がたてばフィオナが殺される。
足が動いた。友情というものがこれほどに心を動かすとは知らなかった。
――「やめろぉぉぉぉぉーーー!!!」――
牢屋中に俺の声が響いた。
牢屋にいた全員が俺を見ている。
「そのこをはなせ!そんなきたない手でフィオナにさわるな!」
さっきまでフィオナの首に当てられていた刃物が、方向を変えて俺の方へと伸びてきた。
「なんか言ったかガキ。」
ゴクリ。
「ああいったさ、そんなきたない手でフィオナをさわるな。」
男は奇妙な笑みを顔に浮かべ、余裕のある表情で俺に一言放った。
「そんなに死に急いでるなら殺してやる。」
俺は今、ナイフを当てられ、首からドバドバと血が流れている。
動脈を通って循環するはずの血が今、体外へと出て行っている。
奴隷人生で殴られた方がマシだと思ったのは初めてだ。そのくらい激痛だ。
まるで灼熱の棒を首に当てられているかのような激痛に意識が飛びそうになる。
俺は痛みのあまり相手の胸に手を押し付ける。
今、手に一瞬だけ何かが走った気がした。
「...っ!」
一気に手応えがなくなった。
まるでさっき俺の前にいた人がいなくなったみたいに。
―――え?―――
血だ、俺のじゃない。俺が触っていた奴の血だ。
頭が吹き飛び、首から上がなくなっている。
フィオナが驚いた顔をして見ている。
俺は、何をした...?




