長靴をはいた猫、スマホを持った姫
「……は? 何を言って……」
華妃の声には、怒りよりも純粋な困惑が混じっていた。
無理もない。
一秒前まで「処刑寸前の罪人」だった女が、突然四つん這いになり、「自分は犬です、猫です」と言い出したのだ。狂ったか、あるいはあまりの恐怖に幼児退行したかと思ったに違いない。
だが、その「一瞬の思考停止」こそが、私が狙っていた隙だった。
私は懐からスマホを取り出し、ササッと――まさに素早い猫の動きで――華妃の元へ擦り寄った。
本来ならば、高貴な方の御前で立ち上がることなく距離を詰めるなど、不敬の極みだ。衛兵が刀を抜いてもおかしくない。
だが、私は今「人間」のルールでは動いていない。「愛玩動物」という別カテゴリの存在なのだ。猫が飼い主の膝に乗っても、不敬罪にはならない。パーソナルスペースなどという概念は、猫には存在しないのだ。
「華妃様、今日はお疲れのご様子……」
私はスマホの画面越しに彼女を見つめ、大袈裟に息を呑んだ。
「眉間に少しシワが……ああっ! いけません、その美しいお顔に影が! このままでは、後世に残るべき美貌が台無しに!」
「なっ、なんですって!?」
「老い」や「衰え」を指摘されること。それが華妃の最大の地雷だ。彼女は反射的に眉をひそめ、不快感を露わにした。
だが、すかさず私はフォローを入れる。ここからが「姉仕込み」の技術だ。
「ですがご安心を! 私めが、そのお疲れさえも『アンニュイな美しさ』へと昇華させてみせましょう。……はい、こっち向いて〜、にゃん♡」
「にゃ、にゃん……?」
華妃が呆気にとられ、力が抜けた瞬間。
その無防備な表情を、私は激写した。
カシャッ。
すぐさま画像編集アプリを起動する。
私の指は、ピアニストのように高速で画面上を舞った。
肌のトーンをワントーン上げ、くすみを飛ばす。
疲れによる目の下のクマを消すのではなく、あえて薄く残しつつ、瞳のハイライトを強調することで、「気怠げな色気」を演出する。
さらに、背景に淡い光の粒子を飛ばし、全体をソフトフォーカスで包み込む。
所要時間、わずか五秒。
「ご覧ください! 『国を憂う貂蝉のような、憂いを帯びた華妃様』です!」
私はスマホを華妃の目の前に突き出した。
彼女は疑わしそうに画面を覗き込み――そして、その目が輝いた。
「……まあ!」
画面の中には、単に「若返った」だけではない、物語のヒロインのような深みのある美女が映っていた。
疲労感が、悲劇的な美しさに変換されている。
「疲れているのに、こんなに美しいなんて……。やはり私は別格なのね……。どんな時でも絵になってしまうなんて、罪な女だわ……」
彼女の自己肯定感が、成層圏まで急上昇していくのがわかる。
すかさず、私はトドメのヨイショを投入する。
「ええ、ええ! その通りでございます! 華妃様は素材が違いますから! 宝石は泥の中でも輝くのです!」
私は畳み掛けるように言葉を紡ぐ。
「周りの無能な女官や絵師たちは、その表面的な疲れしか見えません。見る目がないのです。ですが、この『真実の鏡』と、私という犬だけは、貴女様の心の輝きを知っております!」
「……そうね。お前だけが、私の本当の理解者なのかもしれないわね」
華妃の表情が緩んだ。
彼女はもう、私を「無作法な下女」としては見ていない。「自分を肯定してくれる便利な存在」として認識を書き換えたのだ。
華妃の機嫌が垂直に上がったところで、私は「母攻略モード」に切り替えた。
堅苦しい正座を崩し、華妃の足元に、まるで本物の猫のように丸まって座り込む。
そして、彼女の豪奢な裳裾の下にある脚に、そっと手を伸ばした。
「華妃様、今日はずっと立ちっぱなしでお疲れでしょう。ここが凝ってますね〜。ゴロゴロ……」
私は肉球のような手つきで、彼女のふくらはぎを優しく揉み始めた。
お局様の肩もみで鍛えた指圧テクニックと、母に甘える時のスキンシップの融合だ。
「ちょ、ちょっと、何をして……無礼な……」
華妃が一瞬身を硬くする。
本来、主人の体に許可なく触れるなど死罪ものだ。
だが、私は手を止めない。心地よいリズムで、凝り固まった筋肉をほぐしていく。
「……っ……でも、悪くないわね……。そこ、もう少し強く……」
華妃の力が抜けた。
人間という生き物は、完璧なマナーで接してくる部下よりも、仕事で疲れ果てた時、足元で無心に甘えてくる可愛いペットにこそ、心を許すものだ。
理屈ではない。温もりと、無防備な信頼感。それが、孤独な権力者の心の隙間に滑り込む。
「……ふぅ。お前、本当に変なやつね」
華妃はため息交じりに言ったが、その声にはもう殺気はなかった。
「腐ってももと西国の皇族のくせに、プライドはないの? こんな風に人に媚びて」
「私はすべてを捨てででも、華妃様のお人柄に惚れ込んでいるのでございます」
私は即答した。
「それに、華妃様に可愛がっていただけるなら、私は犬でも猫でも構いません。にゃ〜ん」
私は頭を擦り付けた。
華妃は苦笑し、そして――私の頭に手を置いた。
「……なんだか、落ち着くわ」
彼女は無意識に、私の髪を撫で始めた。
長い爪が頭皮を心地よく刺激する。
勝った。
今度こそ、完全に勝った。
完璧な女官を目指すからボロが出るのだ。
最初から「甘え上手なペット」枠に収まれば、多少の無作法も「動物だから仕方ない」「躾がなってないけど可愛いから許す」という特例措置で処理される!
この勢いで、私は最大の懸念事項である「睡眠環境」の改善をねじ込むことにした。
冷たい板の間で、エビのように丸まって寝る生活など真っ平ごめんだ。
「華妃様……私、夜もずっと華妃様のそばにいたいです」
私は華妃の膝に顎を乗せ、上目遣いで見つめた。
必殺の「雨の日に拾われた捨て猫の目」だ。
「この『鏡』で、華妃様の寝顔も世界一美しく撮ってみせますから……。天使のような寝顔を、記録させてください。それに、夜中に寂しくなったら、いつでも私が喉を鳴らして差し上げます」
「……寝顔、ねぇ」
華妃は少し考え込み、そしてふっと笑った。
「いいわ。お前、今夜から私の部屋にいなさい」
「えっ! よろしいのですか? あの寒くて狭い雑魚の……いえ、女官部屋ではなく?」
「あんな狭いところで、私の専属絵師が風邪でも引いたら困るもの。それに……」
華妃は私の頭を撫でながら、独り言のように呟いた。
「猫なら、寝相が悪くても気にならないしね。私の足元で寝ていればいいわ。温かいし、湯たんぽ代わりになって、私の冷え性も解消できそうだもの」
「にゃ〜ん!(ありがとうございます! 人間湯たんぽ、喜んで務めさせていただきます!)」
私は歓喜の鳴き声を上げた。
華妃様の寝室。そこには最高級のペルシャ絨毯が敷かれ、冬でも暖かい火鉢があり、そして何より、誰にも邪魔されない安眠が約束されている。
足元だろうが何だろうが、あの冷宮の廃墟や、竹棒で叩かれる女官部屋に比べれば天国だ。
こうして私は、一週間の地獄の特訓を「キャラ変」という荒技で無効化し、見事、後宮で最も安全で快適な寝床――華妃様の寝室のふかふかラグの上――を勝ち取ったのである。
部屋の隅で、蘭馨が口をぽかんと開けていた。
「姫様が……本当に猫になられた……。誇り高き皇族の血が……」と呆然と呟いていたが、聞こえないふりをした。
プライド? そんなものは過去に置いてきた。
私は生きる。ふかふかの布団の上で!
それに、この距離感なら、華妃の秘密や弱みも探り放題だ。
飼い猫は、家の全てを知っているのだから。
「さあ、おいでにゃんこ……じゃなかった、杏花」
「はい、ご主人様! にゃん!」
私は軽やかに立ち上がり、華妃の後をついていった。
私の後宮サバイバルは、新たなステージへと突入したのだ。
「華妃の愛猫」として。




