一姫二太郎、三なすび
私には、二人の「師匠」がいた。
絶体絶命の窮地。
目の前には、私と蘭馨を「井戸」という名の死刑台へ送り込もうとしている華妃の、氷点下の眼差しがある。
背後には、無機質な衛兵たちの足音が迫る。
蘭馨はすでに心が抜けたように崩れ落ちている。
万策尽きたかと思われたその瞬間、私の脳裏に走馬灯のように蘇ったのは、現代日本での、忌まわしくも懐かしい「日々」だった。
私はそこで、二人の偉大なる師匠から、過酷な英才教育を受けていたのだ。
一人目は、姉だ。
私の五つ上の姉は、世間一般で見れば「上の下」くらいの美女だった。
クラスにいれば可愛いと言われるが、モデルにはなれない。合コンに行けば一番人気にはなるが、本命のハイスペック男子には挨拶程度で終わる。そんな、一番プライドが拗れやすい絶妙な立ち位置の容姿を持っていた。
だが、その性格は「上の下」どころではない。魔王級のドSで、瞬間湯沸かし器のようなヒステリックの持ち主だった。
特に、自身の容姿と写真写りに関しては、狂気じみた執着を見せていた。
「花子! 写真撮って! 今すぐ!」
休日のカフェ、旅行先の旅館、あるいはただの道端。
姉の号令は絶対だった。私はカメラマンとして徴集され、何百枚もの写真を撮らされた。
そして、そこに敷かれていたのは、「盛れてない写真を撮ったら罰金」という、労働基準法も人権も無視した恐怖政治だった。
「は? 何これ。足短く見えるんだけど。罰金五百円」
「ちょっと、逆光で顔が暗いじゃない。私の輝きを消す気? 罰金千円」
「あーあ、半目になってる。アンタって本当に使えない。罰金二千円」
言葉だけではない。罰金は給料(お小遣い)から天引きされ、さらにオプションとして、愛の鞭ならぬ「理不尽なビンタ」が飛んでくるのだ。
パァン! という乾いた音がリビングに響くたび、私の頬は赤く腫れ、心は荒んでいった。
明日を生きるために、私は考えた。
姉のご機嫌を損ねないための「太鼓持ちスキル」と、姉を美の化身としてへつらいにへつらいぬかせた「洗脳的賞賛スキル」。
そして何より、どんな悪条件でも被写体の魅力を120%引き出す「奇跡のアングル」を見つけ出し、アプリで違和感なく加工する技術を、極限まで高めたのだ。
「お姉ちゃん! 今の角度、最高! 橋本環奈も裸足で逃げ出すレベルだよ!」
「うわっ、この光の入り方、五億年に一度の美貌! 天才的に可愛い!」
私の涙ぐましい努力と欺瞞の結果、姉は「私は世界一の美女。周りの男が見る目がないだけ」という、ダイヤモンドよりも硬い強固な自尊心を手に入れた。
その自信を武器に、高望みしすぎて誰も寄せ付けず、、彼女は三十五歳独身(彼氏いない歴=年齢)街道を、ブレーキの壊れたダンプカーのごとく爆走中だ。
ちなみに未だに男にビンタはしたことはあれど、手を握ったこともないらしい。ある意味、箱入り娘の純潔を守り抜いていると言えなくもない。
私はその過程で、学んだのだ。
「気難しく、自己愛が肥大化した年上女性の機嫌を取る」という、この後宮という伏魔殿で最も生存率を高めるスキルを。
華妃のナルシズムなど、姉の狂気に比べれば可愛いものだ。
そして二人目は、母だ。
母は、姉とは違うタイプの地獄だった。
姉が直接的な暴力装置だとするなら、母は精神を蝕む毒ガスのような存在だった。
私には姉と、三つ下の弟がいる。
三人きょうだいの真ん中。中間管理職のような立場の私に対し、母はしばしば、家事を私にお願いする。わたしが夕食の片付けをしていると、あるいは洗濯物を畳んでいると、深いため息混じりにこう言ってくるのだ。
「ああ……花子が生まれてこなければ、完璧な『一姫二太郎』だったのにねぇ」
一姫二太郎。
最初に女の子、次に男の子が生まれるのが、育てやすく理想的であるという古い言い伝え。
三人目の弟が生まれた時、周囲は「跡取りができてよかった」と喜んだ。姉は「最初の子」として可愛がられた。
では、二番目の女である私は?
「花子は……余計だったわねぇ」
悪気はないのかもしれない。冗談のつもりだったのかもしれない。
だが、幼い私はその言葉を聞くたびに、胸の奥を鋭利なナイフでえぐられるような痛みを感じていた。
私は、生まれてきてはいけなかったの?
この家の「理想の家族計画」を崩した、邪魔なノイズなの?
幼い私は傷ついた。
そして、それ以上に、愛されたかった。
母の視線が欲しい。姉や弟に向けられるような、温かい笑顔を私に向けてほしい。
その渇望が、幼い私をある「狂気」へと走らせた。
ある日の夕食後。
私はおもちゃ箱から、猫耳のカチューシャを引っ張り出した。
そして、家族団欒のリビングで、四つん遇いになった。
「にゃ〜ん! にゃ〜ん!」
私は人間の言葉を捨てた。
プライドも、羞恥心も捨てた。
ただの愛玩動物になりきって、母の足元にすり寄ったのだ。
「私、子猫よ! だからお母さん、うちは『いちひめにたろー』よ! にゃんにゃんはにんげんじゃないから、お母さんよかったね!」
今思えば、……だ。
小学生の娘が、自分の存在を消すために「自分は猫だ」と主張し、必死に母を笑わせようとしているのだから。
しかし、母の反応は違った。
彼女は私の頭を撫でながら、爆笑したのだ。
「あはははは! 何やってるのこの子は! バカねぇ、本当にバカな子!」
母は涙が出るほど笑い、そして私の頭を撫でた。
母は笑った。
蔑みを含んだ、けれど確かに「好意」のこもった笑顔で。
「そうね、花子は『にゃんこ』だものね! 猫だから仕方ないわねぇ!」
温かい手。久しぶりに向けられた笑顔。
私は安堵した。ああ、これでここにいていいんだ。捨てられないんだ。
たとえそれが、「人間としての尊厳」を捨てた結果だとしても。
それ以来、母は私を可愛がってくれるようになった。ただし、人間としてではなく、「面白いペット」として。
今でも実家では、私は「にゃんこ」と呼ばれている。
今になって思う。
昔は、怒鳴り散らして手を上げる姉のほうが怖いと思ってた。
でも、笑顔で子供の心をえぐる言葉を吐き、娘が尊厳を捨てて道化になる姿を見て爆笑できる母のほうが、絶対"毒"なやつだ!
だが。
皮肉なことに。
この二つのトラウマ……いや、歪みに歪んだ英才教育が、時空を超えて、今ここで火を噴こうとしている。
私は、冷たい大理石の床に這いつくばったまま、震える拳を握りしめた。
私には、高貴な生まれの姫君のような、優雅な所作は身につかなかった。
完璧な女官のような、機械的な正確さも習得できなかった。
けれど、私にはあるじゃないか。
姉の理不尽な暴力に耐え抜き、どんなに罵倒されても笑顔で「ヨイショ」し続ける、鋼のメンタルと太鼓持ちスキルが。
そして、母に愛されるためなら、人間としての尊厳すら投げ捨てて「猫」になりきれる、捨て身の演技力が。
(プライド? 何それ美味しいの?)
(尊厳? そんなものでお腹は膨れないわ)
私は、山田花子だ。
承認欲求の塊のような姉と、無自覚な毒親である母という、二人のモンスターを手懐けてきた猛獣使いだ。
目の前の華妃?
ふん、あんなの、ちょっとメイクが濃くて権力を持っただけのお姉ちゃんでしょ!
「……ふっ」
私の口元から、自然と笑みが漏れた。
蘭馨が、恐怖で引きつった顔で私を見ている。「姫様、ついに気が触れたか」という目だ。
違うわ、蘭馨。
私は今、覚醒したのよ。
「衛兵、やれ」
華妃が冷酷に指を振った。
衛兵たちが私の腕を掴もうとする。
その瞬間。
私はガバッと顔を上げた。
衛兵の手を振り払い、華妃の足元へと膝行する。
その動きは、優雅な宮女のそれではない。
獲物にすり寄る、あるいは主人に甘える小動物のそれだ。
私は上目遣いで、華妃を見上げた。
姉仕込みの「自分が一番可愛く見える角度(左斜め45度)」を完璧にキープして。
瞳には、涙を一杯に溜める。これは、母の前で「捨て猫」を演じた時に習得した、必殺のウルウル目だ。
「華妃様……!」
私の声は、震えていた。恐怖ではない。甘えを含んだ、媚びるような震えだ。
「お待ちください。……私は、悟りました」
「は? 何を……」
華妃が毒気を抜かれたように眉をひそめる。
私は一息にまくし立てた。
「私には、蘭馨のような完璧な女官の真似事はできません。歩けば音が出るし、お腹が空けば鳴るし、緊張すれば手も震えます。所詮は、しつけのなっていない駄犬でございます」
「知っているわ。だから処分すると……」
「ですが!!」
私は声を張り上げた。
かつて、リビングで四つん這いになったあの日のように。
羞恥心を、恐怖を、プライドを、すべて燃やしてエネルギーに変える。
「駄犬には駄犬の、野良猫には野良猫の、使い道がございます!」
私は華妃の豪奢なドレスの裾を、汚れた手で恐る恐る、けれど愛おしそうに掴んだ。
「完璧な人形のような女官は、華妃様の周りにいくらでもおりましょう。彼女たちは優秀ですが、決して華妃様の『心』までは癒やせません。彼女たちは仕事をこなすだけです」
華妃の目が、わずかに揺れた。
孤独な権力者の琴線に、私の言葉が触れたのだ。
「けれど、私は違います! 私は、華妃様が美しい服を着れば尻尾を振って喜びます! 華妃様が誰かに悪口を言われれば、その相手に噛み付いて吠え立てます! 華妃様がお寂しい夜は、足元で丸まって温めます!」
「な、何を言って……」
「私は、人間としての扱いなど望みません。給金も、地位も、名誉もいりません。ただ、華妃様のそばで、その美しさを称え、その威光をお借りしてキャンキャンと吠える権利だけをいただければ、それで幸せなのです!」
私は床に頭を擦り付けた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、ニッコリと――そう、かつて母に向けたあの「にゃんこ」の笑顔で、華妃を見つめた。
「華妃様! 私は無作法な野良犬かもしれません。ですが……華妃様だけの、特別な『愛玩動物』にはなれます!」




