第五夜 「白夜ノ夜」
もう僕はあの夜を訪れない。
今も、あの夜は誰かの迷いを受け入れているのだろう。
もうあの死んだ街を歩くことがないのは、少しだけさびしくて。
誰かが僕のように無人の夜を歩いて思い悩んでいることを感じたくて、僕は時々夜の街を歩く。
たとえば買物客でざわめくコンビニ、たとえば急患にどよめく病院。たとえば下手くそな歌声が聞こえる居酒屋。
誰かの気配を感じる夜を、たった一人で。
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生きるということは、絶え間ない自問自答に晒されること。
この無人の夜を歩くようになって、僕が学んだもっとも大きな事の一つだ。
何かを選択すれば本当にそれでよかったかと疑心暗鬼に苛まれ、結果が出ればほかの選択肢の結果に思いをはせる。
人間なんて、そんなものだ。
そんなものに、特別な価値なんかある訳がない。
創造主不在で生まれ、悪役不在で乱れ、英雄不在で救われるこの世界に誰かが特別なんて事はありえない。
居るとすれば、それは第三者がつけた空疎な称号だ。
それでも、ヒトは自分というキャラクターに客観的な自信と確信を持とうとする。
自分は特別で、ひとりひとりに生きる意味があると思いたがる。
こう考えては見ないのだろうか。全員が特別なのなら、真に特別な人間なんていはしない。
個別に生きる意味があるのは大変結構だが、それが本当にこの世界で自分一人しか持たない理由なのか。そう考えてみたことはあるのだろうか。
そんなもの、幻想だ。
生きること、生きていることそれ自体に何の価値もありはしない。
この星の表面に何十億とひしめいている畜群のような存在に、個別的な価値なんか存在できる余地はない。
砂漠が数えきれないほどの砂でできていて、ビンに詰めたくらいでは何一つ変わらないように。
ビンに詰めた砂が個性あふれる砂ではなく、その砂漠の砂以外の何ものでも無いように。
――だが、そこに価値はあるのだ。
その砂からビンを作ってでも、その砂漠の砂を全てビンに詰めてみるがいい。砂漠は消えてなくなるから。
失ったところでなんら損失ではないはずのものであっても、全体の構成物である事実は変わらないのだ。損失を歓迎する理由なんかない。
この価値は、全体に均等に行き渡る価値でしかないが、僕らの命にはゆるぎない価値がある。
限りなく無価値に近い、薄霧のような価値が。
生きていていい価値じゃなくて、世界を支えられる価値が。
僕がいなくなっても誰かにかわるだろう。その程度の存在価値。
それ以上でも以下でもない。それが僕らだ。
無人の夜という世界を一人で抱え込んで、フライデイの居ないロビンソン・クルーソーを演じた僕は、心からそう信じられる。
ゴミクズのような価値でも、互いにそれを認め合えればそれは生きる価値になり得る。
世界を背負っても、隣立つ無数のフライデイ達を感じる限り、僕達はアトラスの孤独と苦痛からは無縁だ。
みんなで世界を背負い支えているからこそ、それは価値になる。
誰かの気配を感じながら生きること。それだけが命の証明だ。
――これが僕の解答だ。もう僕は迷ってはいない。
気がつけば、挑みかかるよう空へと叫びを放っていた。
その直後、視界が白っぽく光りはじめた。
光はみるみる僕の感覚を押し流して行く。
誰かが孤独だと泣いていた。
誰かが目覚めてもつらいだけだと語りかけてきた。
誰かがこの夜の真実をささやいた。
誰かが異形の存在に引きずられていた。
誰かが真っ黒いマネキンに話しかけていた
誰かが青白い影に吸い込まれるように消えた
誰かが僕の腕を掴んで引き戻そうとした。
誰かが僕の手に何かを握らせた。
誰かが僕に手を振った。
誰かがありがとう、さようならと言った。僕だった。
誰かが誰かが誰かが――――
夜が、明けた。
呆然とする僕の目の前で、携帯電話のアラームが控えめに鳴り始める。
慌てて停止させながら、隣のベビーベッドで寝ている妹の様子をうかがう。
良かった。起こしていない。
何かを託された手の平を、じっと見つめる。
何もなかった。
否。そこには、答えがあった。全てがあった。
ゆっくりと息をする。誰かの気配。
痛みすら感じるほどに平板で正常で同一的な日常。
生きていく。生きていこう。




