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第2話:オリエンテーリング

 1年生の最初の行事はオリエンテーリング。地図をたよりに、高校の敷地内、向かいの公園、町中に設置されたポイントを班ごとに回っていく。半日一緒に歩きまわるから、親睦を深めるという意味ではいい機会かもしれない。ついでにいうと、掃除当番も同じ班だから、普通は、同じ班なら仲良くなる。というか、仲良くなろうと努力するのが大人。まれに、子供が多くて、班が空中分解することもあるらしい。あたしは大人だ。いくら高校生活が灰色だとわかっていても、それを他人に押し付けるつもりはない。他人を不快にさせない程度に振る舞うのが大人というもの。

 オリエンテーリングは、毎年、数学部と料理部が世話役となり、時々ワンダーフォーゲル部や他の部も参加する。この時期、1年生はまだ部活に入らないから、これらの部にとっては、1年生を勧誘する絶好の機会だ。その目論見がうまくいっているのが料理部。オリエンテーリング後にカレーライスをふるまってくれる。なんでも、料理部のカレーライスは絶品と言われていて、文化祭では、これを目当てに来る人が多いらしい。このオリエンテーリングで、料理部は新人を仕入れるというおいしいことになる。逆に自滅気味なのが数学部、毎年、凝ったルール、それもマゾなルールを設定するので、たいていの生徒に嫌われる。もっとも、マゾな数学おたくを集めるにはいいふるいになっているという見方もある。今年のルールには数列当てゲームが入っている。数列を推理できれば、全部のチェックポイントを回る必要がない。逆に推理が外れれば、余分にチェックポイントを回らなければならない。なんとも、おたくなルールだ。


 あたしの班のメンバーは4名。あたし以外の3名は、友人の青木芽衣、関西弁を喋る守山雅夫、あたしに対しては目付の鋭い小野寺巧だ。が、彼は、なぜか今日は、きょろきょろと落ち着かない目付だ。芽衣が口を開く。

「青木芽衣です。よろしく。できれば、名前の芽衣で呼んでね」

とキュートな笑顔を男子にふりまく。

「守山雅夫です。よろしゅう頼みます」

と黒縁メガネの真ん中のブリッジを押し上げる。知性的なそのしぐさと軽薄な口調のコントラストが笑える。おっといけない、あたしも挨拶しないと。

「山崎由梨子です。今日は、頑張りましょう!」

いつものカラ元気を不用意に出してしまったのが、小野寺君の気に障ったらしい。

「ほどほどにしてほしいのですが」

「……」

座がしらける。空気が読めないのはどっちだ。座をしらけさせた小野寺か、それとも、うわべだけの気合いをいれようとしたあたしか?

「そうね、特に競争するわけでもないし、のんびり行きましょう」

と芽衣は彼に合わせながら、雰囲気を和ませた。

 和んだ雰囲気をひっかきまわしたのが、例のお騒がせ男、もとい、天敵の正村だ。あろうことか、班ごとに競争をしようなどと言いだした。しかも、絶妙な餌を設定した。ビリの班は、一度だけ1位の班の掃除当番を肩代わりするという餌だ。これなら何てことはない。だから皆、競争に参加する。しかし、競争しているのだという意識は皆に埋めこまれる。大いに努力して1位を狙うなんて、いまどき流行らない。でも、ほんの少し努力して、1位をかすめ取れれば、悪くない…… 皆、知らず知らずに巻き込まれていった。

正村は班員に気合を入れていた。新谷真美もアイツと同じ班だから、何かが起きるかもしれない。

 

 最初の5地点は学校内の名所案内を兼ねている。愛想のいいお姉さんが腕をふるう食堂、科学部自慢の屋上の天体ドーム、樹齢百年以上の楠の大木、高射砲が屋上に設置されていたと言う廃屋、男女の密会に適した焼却炉の裏、この5地点が緑が丘高校の5大名所らしい。いくらなんでも最後の地点は冗談だと思う。あたしが気に入ったのは楠。結構、幹が太いから、校舎から見えない幹の反対側、街を見下ろせる側は、それこそ密会にいいかもしれない。

 そこから先は、校外のポイント。班ごとの数列当てゲームが始まる。あたし達は、雑談をしながら、早歩きで1番目、2番目、3番目のポイントを消化する。1番目のポイントにあった数字は「2」、2番目は「2」、3番目は「3」だった。順番に並べると「2, 2, 3」。ここで、守山君が頭を使いだした。

「もしかしたら、わかったかもしれへん」

「もうわかったの?」

「あくまでも可能性の一つやけれど…… 『2』が2つ続いたから、次は『3』が3つ続いて、その次は『4』が4つや。どうやろうか?」

「なんか、あんまり説得力がないわねぇ」

あたしは素直な感想をもらした。反対に、芽衣は何かひらめいたみたい。

「もし、守山君の説が正しければ、これから行く4番目のポイントも、その次の5番目のポイントも『3』になるわ。とすると、4番目のポイントはスキップして、5番目のポイントに先に行ってみない? そこが『3』だったら、守山説はもっともらしいわ」

「それは、悪うないな。そやけど、わしの説が間違うてたら、4番目のポイントに行かなあかんようになって、かえって遠回りになるで。それでもええか?」

ふと、小野寺君を振り返ると、それまで雑談に無関心だったのが、真剣な表情で聞き耳を立てている。

「ねぇ、小野寺君はどっちがいいと思う?」

「えっ? どっちと言われても…… よくわからない」

「よくわからないって? ……ちゃんと芽衣の話を聞いてた?」

「悪い、別なことを考えていた」

「はあ?」

あたしは一瞬、怒りを感じたが、違和感の方が勝った。今考えると、その違和感の元、つまりヒントを列挙することができる。ヒントがありながら、それ以上、頭を使わなかったのだから、我ながら情けない。

 芽衣の提案で4番目はスキップし、5番目のチェックポイントに行った。そこには「0」があった。

「4番目をxとすると『2, 2, 3, x, 0』かぁー わしの予想は外れやな」

「やっぱり、4番目のポイントに行かないとだめねぇ」

芽衣がため息をついた。

「あーやっぱし、わしは無能や」

守山君は、道路標識のポールに頭をガンガンぶつけ始めた。

「ちょっと、何やってんの!」

「見ての通り、反省しているんや。わしゃ修行が足りんわ」

そう言って、さらに二度頭をぶつけた。

「??」

芽衣とあたしは顔を見合わせた。『もしかして、守山君ってマゾ?』と目線で話した。一方、小野寺君は? と振り返ると、真剣な表情を緩め、かすかに微笑んだ。わかったのだろうか? が、彼は何も言わない。

 4番目のポイントに向かいながら、あたしは彼の左に並んで、前の二人に聞こえないように小声で話しかけた。

「ねぇ、小野寺君は答えがわかったんじゃないの? どうして、皆に言わないの?」

「……」

彼は何も言わない。顔を覗き込むと、怪訝な顔をして、こちらを見返した。まるで、うるさいハエでも見るような目付だ。あたしを無視する気? カチンとくる。それならそれでもいいわ。こっちも無視するから。

 4番目のポイントは「6」だった。わかった数字を並べると「2, 2, 3, 6, 0」。

「うーん、何やろう? 『6』までは数字が増えていって、その次は0にまで減る…… 足していくのでも、かけていくのでもあらへん…… やっぱ、わからんわ」

「どこかで見たような気がするけれど……」

芽衣の言うとおり、確かに、どこかで見たような気がする。少なくとも日付ではない。時刻だとして、22時36分0x秒というのも考えにくい。意味のある時刻には見えない。第一、チェックポイントはまだ3つ残っているから、桁数が合わない。一方、小野寺君は一人ほくそ笑んでいる。これは、やっぱりわかったのね。が、彼は、あたしに視線を合わせると、急に無表情になり、黙り込んだ。どうあっても、答えを言わないらしい。はらわたが煮えくりかえりそうになるのを我慢する。

あたしは短気だ。時々どうしようもなく怒りが爆発することがある。正村があたしをピリ子と呼ぶのもそれが一因。もう、あたしは大人だ。だから、怒りを抑えることができる。

 悶々としながら、最終ポイントに到着した。数列は「2, 2, 3, 6, 0, 6, 7, 9」。あっ、そうか、あれだ。芽衣もわかったらしい。

「5の平方根、つまり、富士山麓オウム鳴くだったのね」

「えっ? なんやそれ?」

「語呂合わせよ。5の平方根は2.2360679と続くの。それを語呂合わせで表現すると、22は富士、36はそのまま山麓、0はオー、06でオウム、79はそのまま鳴く。どう?」

「なるほど、そういやそんな覚え方聞いたような気がするわ…… つまりルート5ちゅうのが答えか? うーん、やっぱ、わしにはわからんわ。あ~情けない」

そう言って、守山君は、ブロック塀に頭をぶつけた。これは、かなり痛そう。あたしもなんだか彼のまねをしたくなった。こんな簡単な答えに気がつかないなんて、あたしはバカだ。数学が得意なはずが、これは恥ずかしい。早くに気付いた小野寺君はそんなあたしたちを内心、あざ笑っていたに違いない。

 あたしは、彼のジャージの袖をつかんで、芽衣たちに声の届かない所へ彼を引っ張っていった。

「わかっていたんでしょ?」

「ええ、わかっていました」

「どうして言わないの? さっきも聞いたけど、あたしを無視する気?」

だんだんと心の底にマグマが溜まってくる。

「無視? ああ、君たちには関わりたくないだ」

「どうして? 同じ班でしょう?」

「ほっといてくれ。僕のことは構わないでほしい。だから、僕もお前を無視する」

「小野寺!」

パシッ! 気がついた時は手が出ていた。小野寺君は赤くなった頬に手をあてる。もう一発お見舞いしてやりたいのを辛うじてこらえた。

「2人とも何やってんの!」

芽衣がやってきた。何事かという顔をしている。あたしは横を向いた。

 学校へ戻る道中はピリピリしていた。少なくともあたしは、ピリピリしていた。小野寺君は、相変わらず黙っている。事情を知らない芽衣と守山君は、あたしに遠慮して黙っている。これで、この班は空中分解ね。灰色の高校生活はやっぱり灰色だった。でも、事情を知らないと言う意味では、あたしも同じ。まったく、小野寺という人間がわからない。不可解だ。


 あたし達の班はビリから2番目。憂鬱な気分のままカレーライスを食べはじめたら、ビリの班が到着した。正村たちだった。真美がいないと思ったら、正村に背負われていた。

「どうしたの、真美?」

と聞くと、正村の背中から降りながら、彼女は答えた。

「途中でへばっちゃったの…… それで、翔におんぶしてもらったの」

照れ笑いを浮かべている。見るからにか弱そうだから、へばったのは本当だろう。真美は正村に惚れていたからラッキーね。あれ、今、正村を名前で呼んだ?

「どうやら俺達がビリだな。まあ、バスト78cmを堪能できたから、ビリも悪くない」

「78cm? どうして正村が真美のバストを知っているの?」

「おんぶしたお礼に教えてくれって頼んだんだよ」

正村は平然と答えた。

「あきれた」

ずうずうしいのは、昔からだけど……

「まあ、ピリ子の80cmにはかなわないだろうけれど、なかなかの感触だったぜ」

ますます、あきれた。が、気になって訂正した。

「あたしは、83cmよ。間違えないで」

「お、それはいいことを教えてもらいました」

「しまった! 引っかけたわね。正村、許さん!」

また暴発しそうになる。

「おいおい、怒るなよ。ピリ子って言われるぜ」

「クーっ、悔しい!」

「あはは、ホント、今日はいい日だ。これでカレーライスもおいしく食べられるな」

正村は、さわやかな笑顔をのこして、カレーライスを取りに行った。歯噛みしているあたしと、満足そうな真美を置いて。


 さすがに絶品のカレーと言われることはある。食べているうちに、ピリピリした神経がいやされていく。料理部に入って、おいしいもの作るって、幸せかもしれない。それに、将来のことを考えれば料理部は悪くないどころかベストチョイスだ。うちの親はパン屋をやっている。お姉ちゃんは大学に行ったけれど、あたしは、高校を卒業したら、うちの店を手伝って、ゆくゆくはパン屋を継ごうと思う。もちろん、親にはそんなことは言っていない。だけど、一生懸命勉強して、いい大学に行って、会社に入ったはいいけれど、お茶くみをしたり、上司や同僚の男にペコペコしたりするなんて夢がないと思う。だから、あたしは勉強をがんばるつもりはない。かといって、友達と遊びまわるのも面倒だし、そんなガラじゃない。つまり、あたしはやる気ゼロの高校生だ。


 なんだか、配膳している辺りが騒がしい。料理部の部員と3人の男子生徒がもめている。ジャージを着ている1年生と違って、3人は制服を着ているから上級生だ。

「いいじゃねぇ―か、俺らにも食わせろよ……」

「だから、まだ戻ってきていない1年生がいるんです! 足りなくなったら困るんです……」

料理部の女子生徒が泣きそうになりながらも防戦している。芽衣が小声で話しかけてきた。

「アイツらがこの高校にいることをすっかり忘れていたわ。やっかいねぇ」

「アイツらって」

「一中のころから、下級生をいじめていた3人組の不良」

「何とかならないかしら」

「3人のうちの2人はまだましだけど、1人だけどうしようもないワルがいる。一中では、目をつけられて、酷い目にあった子がいた。下手に手を出せないわ……」

何とかしたいけど、黙っているしかないのかしら。と、歩き出した正村が視界の端に映る。拳を握って、口を真一文字に閉じている。ああいう時は、正村が本気で怒っている時だ。

「やばい」

「え?」

「正村が怒っている。アイツは怒ると強いけれど、さすがに3人相手じゃ無理…… なんとかしないと」

あたしは、正村を追いかけた。別に何とかできる当てがあるわけじゃなかったけれど、正村を放っておくこともできなかった。

その時、あたし達より先に上級生たちに話しかけた子がいた。確か…… 同じクラスの木川碧きがわみどりだ。クラスで1番、いや、もしかしたら1年生で一番の美女だ。まるで映画女優のよう。大きな目、上品な唇、形のいい鼻、さらさらの髪に長い肢体と女性らしい凹凸。完璧な美女といっていい。彼女は3人組のリーダーらしい男子に話しかけた。

「先輩、あたしお腹いっぱいなの。残りを食べてくれないかしら?」

そう言って、可愛らしさ120%の笑みを浮かべ、半分ほど食べたカレーライスの皿を差し出した。

「は?」

一瞬、間があく。無理もない。あたしだって、彼女の言ったことを理解するのに2秒かかったから、上級生だって同じだろう。しかし、うまいことを考えたわね。一応、カレーライスを食べられる。おまけに、あれだけの美女の申し出、その美女の食べ残しなら、鼻の下の伸びない男子はいないだろう。リーダーらしい上級生はにやりとした。

「面白いことを言う女だ。いいだろう、俺が残りを食べてやる。ついでにお前も食べてやろうか?」

「とりあえず、食べて」

 上級生はうまいうまいと言いながら食べ始めた。正村とあたしはそっと彼女の両脇に立って上級生を睨んだ。上級生が完食したのを見届けた彼女は、とたんに、身の毛もよだつような笑みを浮かべた。まさに女優だ。

「先輩、おいしかったですか?」

「もちろん」

「ですよね。なんてったって、あたしの鼻くそ入りだから」

「??」

あたしは耳を疑った。彼女、『鼻くそ』って言わなかった? 女優には、鼻くそはないんじゃなかったけ?

「冗談だろ?」

「冗談じゃないわよ。こうやって鼻くそをほじったのよ」

そう言って、どこからか取り出した綿棒を鼻の穴に突っ込んで見せた。

「??」

あたしは目を疑った。女優には、鼻の穴はないんじゃなかったけ? 上級生は腹の辺りをさすった。

「本当か?」

彼女はダメ押しをする。

「あら、まだ、満足できない? それじゃ、これを舐めてもいいわよ」

そう言って、綿棒を突き出した。青ざめた上級生は

「もうやめてくれ」

と言った。そして、捨て台詞を吐いて去っていく。

「お前、絶対、処女じゃねえな!」

「当然よ!」

あれ? 女優って処女じゃなかったけ?

 その場で最初に凍結保存から解凍されたのは正村だった。

「お、俺、木川さんを尊敬します」

「あら、正村君ね。ありがとう…… それに、ボディーガードを務めてくれたのね。感謝するわ」

そう言って、彼女は背伸びをすると、正村の頬にキスをした。正村は、再び凍結された。

「山崎さんもありがとう」

と言って、あたしの頬にもキスをした。それから3分間程、あたしの記憶がない。


 木川碧はこの事件以来、『鼻くそ姫』と陰で呼ばれることになった。怖れと敬意を持ってね。とにかく、彼女に勝てる生徒は緑が丘高校にはいなかった。


 午後は、ロングHRホームルーム。学級委員をはじめ、各種委員を決めていく。学級委員は、当然のごとく木川碧が選ばれた。あたしは、一抹の不安を感じたが、あの事件の後では、他の人は考えられなかった。正村は、自ら進んで文化祭実行委員になった。イベントが好きなアイツらしい。


 放課後、あたしは、友達とは一緒に帰らずに、楠を目指した。なんとなく、1人で高校生活を考え直してみたかったのだ。灰色だと思っていたけれど、そうでもないかもしれないと思い始めていた。

丘には強い風が吹き、青空に浮かぶ高層雲は、空が高いことを感じさせてくれる。乾いた土を踏みしめ、直径2mはありそうな楠の幹を回り込むと、先客がいた。空を見上げるその顔は穏やかだった。きょろきょろするわけでもなく、かと言って、どこか一点を睨みつけているわけでもない。そう、呼吸をすること自体を楽しんでいるようだった。気が進まないながらも、その先客に声をかけた。

「小野寺君もここが気に入ったの」

「えっ?」

彼は、ひどくびっくりした。あたしが近付いたことがわからなかったみたい。

「もう一度言ってくれませんか?」

「ここが気に入ったのかって聞いたんだけれど、聞こえなかった?」

それとも無視した? でも、あたしが嫌いなら、わざわざもう一度聞きなおすようなことはしない。では聞こえなかったということだ。と、突然、あたしの中でばらばらだったパズルのピースが結びついていく。オリエンテーリングでのピースは幾つもあった。小野寺君は、真剣に聞いていたはずなのに聞いていなかったふりをした。人の話を聞くときに、その人を正面から見つめずに、そっぽを向いていた。そして、周りで人が話すと、どこから話しかけているのがわからず、きょろきょろしていた。そもそも、入学式当日に席替えをしたのが1番大きなピースだ。席替えで、小野寺君は教室の左端に移った。

 そう、彼は耳が聞こえない。左耳が聞こえないのだ。だから右耳で聞こえるように席替えをした。だから、彼の左から話しかけると聞きづらいのだろう。また、片方の耳だとステレオ効果がなくなる。つまり、どちらの方向から音が聞こえるかを判断するのが難しくなる。それできょろきょろしていたのだわ。

 あたしは、口を開きかけた彼を制止した。

「待って。まず、あたしに謝らせて」

「謝るって?」

「あなたのことを何も理解せずに、平手打ちした。だから、謝りたいの」

「もう、いいよ。そんなこと。謝ったからといって何が変わるわけでもない」

「変わらない? そうね、謝っても、あなたの左耳が聞こえるようになるわけじゃないわね」

そう言って、彼の目を見つめると、彼もあたしと見返した。そして、視線を外してため息をついた。

「ふー ばれましたか」

「隠すようなことじゃないわ」

「君には関係ないことだ」

「関係なくはないわ」

「どうして」

「どうしてって、同じ班じゃない」

「関係ない!」

「関係ある!」

「強情だな。勝手にしろ!」

「勝手にするわ…… 皆に言うわ」

「なに! 僕の耳の事は秘密だ」

「今、勝手にしろって言ったじゃない。それに、皆に言わないと、あたしみたいにあなたを誤解するわ」

「それで、結構。とにかく誰にも言うな」

「いやよ」

「僕の秘密だ。プライバシーの侵害だ」

「強情ね。いいわ、黙っている。その代り、あたしのことをぶって。そうすればあたしの気が済む。それで清算よ。あたしはあなたの耳のことは知らない。誤解したことも、ぶったこともなかったことにする」

「女子のくせにいい度胸だ…… 構えろ!」

小野寺君は、あたしを睨んで手を挙げた。あたしはコクンと頷いた。

「3、2」

彼が数える。

「1」

来る! 平手打ちに備えて目をつぶり、歯を食いしばった…… が、衝撃は来ない。何か温かいものが頬に触れる。目を開けると、不思議そうな目をして、右手であたしの頬を触っていた。

「君はおかしな人だ」

そう言って、彼は、手を離し、向こうを向いてしまった。黙って高い青空を見上げている。

 あたしも空を見上げる。そこには広大な空間が広がっていた。教室よりも、校舎よりも、町よりも広い自由な空間が広がっていた。そう、高校生活は灰色じゃない。灰色にしたければ灰色にすればいい。水色にしたければ、水色にすればいい。好きにすればいいのだ。あたし達は黙って空を見ていた。

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