第16話:銃声
山頂に近い枯れた草地にそれは建っていた。古ぼけた建物で、レンガ造りの一階部分は八角形になっている。建物の入口には、入っていいとも、いけないとも書いていない。くすんだ真鍮の取っ手を回して木の扉を開けると、照明もなく、薄暗い空間が広がっている。湿った臭い、カビのような臭いがかすかにする。目的のものは二階にあるはず。杖に力を入れながら狭い階段を苦労して二階へ上った。時々、彼がジーンズのお尻をおし上げてくれるのがありがたい。
小さな窓から差し込む夕方の太陽光線が円形の床のほんの一部分を照らし、その散乱光で、天井がドーム状になっているのが辛うじてわかる。その円形の床の丁度中央には、巨大な機械が鎮座していた。いや立っていたと言った方がいいわ。一本の太い円柱が、まるで地に根を生やした大木のように、2階の床を突き破って背の高さ程まで伸びている。その上にかつては真っ白だったと思われる巨大な円筒、そして、その横には、黒光りする鉄塊。円筒とバランスをとるためのウェイトだ。汗を拭いて一段落したあたしは、杖をコツコツ言わせながら、黄ばんだ説明プレートに近づいた。
「暗くて読めないわ」
「う~ん、読めないこともないんじゃないかな」
そう言って、小野寺巧は目を近づけ、読み上げた。
「1921年、ドイツ、カール社製口径20センチ屈折式望遠鏡。対物レンズには、当時最新の3枚玉色消しレンズを用い、鏡筒を重錘式赤道儀架台に載せ、主として彗星監視を行った。この天文台は、化学肥料生産で一財産を築いた竹田龍次郎が彗星衝突に危機感を抱いて故郷に開設したとされている。個人所有の天文台としては当時破格の性能であり、約十年間運用された。その後、竹田家の没落に伴い、所有者は移り、平成になって、科学館併設の歴史展示物として保存することとした」
「彗星監視?」
あたしの疑問に巧が答える。
「多分、1910年ごろのハレー彗星がきっかけになったのじゃないかなあ。当時、ハレー彗星の尾に地球が入ると、空気がなくなるとか、毒ガスがまん延するとか言ったデマが流れたらしい」
「そんなことを考えていたの? 彗星の尾なんてスカスカだから、地球の大気をそよとも揺らがせられないじゃない?」
「ま、どこまで信じられたのかはわからないけれど、そんなデマがあったのは確かだ。それに、同じころにシベリアに彗星が落ちて半径30キロにわたって森林が炎上したという話もあるから、彗星の衝突に危機感を抱いたのは本当かも知れない」
「彗星の衝突? そんなことあるの?」
「ああ、ないことはない。ほら、この間、佐原先生が言っていた流星群。あれは、彗星の尾のなれの果て。重さが1グラムにもならないぐらいの物質が大気に突入して光るのが流星」
「でも、彗星の本体が衝突したら?」
「彗星の本体とは核のことですね。それが地球に衝突したら、さっき話したシベリアのようにそれなりの被害が出るでしょう。でも、もっと重くて危ないのは、小惑星です。恐竜が滅んだのも小惑星の衝突が原因だという説もあるし、これは侮れません」
「だとすると、あたし達はどうすればいいの?」
「監視するのです。小惑星を監視して、軌道を計算して、地球に衝突する可能性があるかどうか見極めます。幸い、これから百年ぐらいは、地球規模の災害をもたらすような小惑星はありません。もっと小さいまだ発見されていない小惑星が衝突して都市規模の災害をもたらすことはないわけではなりませんが」
「それじゃ~ 安心できないじゃない」
「何事も100%安心ということはあり得ません。例えば、由梨子が交通事故にあう確率はゼロではありません」
「何もしないで、放っておけばいいの?」
「そういうわけでもありません。小惑星や彗星については、プロの天文学者も、アマチュアの天文ファンも、常に探索しています。そうして発見した小惑星を、ある程度観察できれば、軌道が推測できて、未来の軌道、地球に衝突するかどうかを計算できます」
「ふ~ん。てことは、この天文台を作った竹田ってお金持ちは、その先駆け、パイオニアだったって言うこと。かれの道楽は無駄にはならなかったってこと?」
「道楽? お金持ちの道楽と言われればそうかもしれない。地球に衝突するような惑星は見つかっていないので、この天文台は無駄といえば無駄でしょう。だけど、竹田龍次郎の男気を感じませんか」
「男気?」
「当時、第一次世界大戦があり、日本は欧米に肩を並べつつあった。日本のために、そして、世界の中の日本として、何かしなくちゃいけない。そう思っていたのじゃないでしょうか?」
あたしは、そっと、古びた鏡筒に触ってみた。接眼レンズはないし、ガイド用の副望遠鏡も、粗動用のハンドルも外され、わずかに微動用つまみが残されているだけ。でも、残ったこの機械はもう百年近くも前からここにたたずんでいるのだ。幾億もの夜を過ごしたのだ。
巧にはあたしの感じていることを知ってほしい。
「あたしには見えるの。十年と言う青年期の貴重な時間を、この望遠鏡と供にすごした青年が。晴れた日は毎晩ここにこもって接眼レンズを覗き込んだ。恋人に咎められたこともあっただろう。町の誇りとなった富豪に仕えるのだと思えばこそ、厳しい冬も苦にならなかった。その富豪に男気があったと言うのであれば、その青年にも男気があったと思うわ。だけど、十年たって、主は没落し、彼はこの天文台を去らなければならなかった。
その日も今日みたいに、窓から夕陽が差し込み、ほんのりとこの機械を照らしていた。悔しかったと思うわ。そうして、いつかまた、この天文台を復活させたい、そう思って接眼レンズを取り外して持ち帰った。今となっては、誰もその青年の名前を知らない。伝えられるのは富豪の名前だけだわ」
静かに耳を傾けていた彼は、こう言った。
「この町の煉瓦職人、望遠鏡を運んだ運転手、ドイツ人技師、レンズを作ったガラス職人、沢山の無名の人がいた。無駄だったかもしれない。でも、少なくとも、この天文台が完成した時、皆、笑顔だったと思うよ。こんな田舎町に天文台ができたんだ。町中、大騒ぎだったんじゃないかな。天文台が閉鎖されても、その青年は忘れなかった。沢山の人がいたこと、沢山の笑顔があったこと、そして、十年間、この望遠鏡と供に歩んだこと。決して後悔はしていなかったと思う。むしろ、誇りに思っていたのじゃないかな」
あたしは、リュックから持ってきた荷物を取り出して、巧に見せながら答えた。
「そうかもしれない。だからあたしは確かめたいの。これは、ひいおおじいさんの形見。何に使ったものか、おじいさんにも、母さんにもわからなかった。でも、自然科学部に入って、高校の望遠鏡を触ってわかったの」
レンズは白く濁っていて、わずかに光を通すだけで、今は、もう、接眼レンズの用をなさない。恐る恐るそれを望遠鏡の先の円筒にはめてみる。ピッタリだった。
巧はニコリと微笑んで、あたしの肩を抱き寄せた。
「青年は幸せな人生を送ったんじゃないかな」
「どうして?」
「結婚して、子が生まれ、孫が生まれ、そしてこんな可愛いひ孫がいるんだから」
そう言って、巧はあたしの額に口づけた。
外は、既に暗くなり始めていた。もうすぐ冬至だから、日が暮れるのは早い。西の空に輝く宵の明星。それと張り合うように輝く木星。見る見るうちに日が沈み、オリオンの三つ星、眼光のするどい子犬、天に埋め込まれた宝石箱といった脇役達も姿を現した。
あたしは、ちょっとしたいたずらを思いついた。
「巧、面白いものを見せてあげるわ」
あたしは、手の平を上に向けて前方に差し出した。歩きながら右手にプラス、左手にマイナスを溜め空気に拡散させる。それが浮力によりゆったりと立ち上っていく。頭上二メートル辺りで、引き合った電荷は中和され青白い光となる。歩くにつれて、その光は帯となり天の川となる。
「どう?」
あたしは、少し鼻を高くして振り返った。そうしたら、巧はニヤリ笑って、その人工の天の川を指差した。と、川がゆっくり蛇行しはじめ、最後には渦を巻いて消えていった。あれ? これは、どこかで見たことがある。そうだ、文化祭で真美にいたずらした時と同じ。
「水晶占いと同じだわ。まさか、あの時、巧は見ていたの? 巧が風を操ったの?」
「さあ、そんなことはありましたっけ?」
と巧は笑いをこらえながらとぼけた。
その晩のシーイングは冬にしてはかなり良かった。シーイングとは望遠鏡で見た時の星像の安定度、揺らぎの少なさのことである。これは、大気の揺らぎによるもので、倍率を高くすると、像が揺れるのがわかる。従って、くっきりとした木星の模様を見ようとするとこの揺れが問題になる。
シーイングが良いことと空が澄んでいることとは別物である。普通、冬は空が澄んでいるけれど、これは風が強く、雲や霞が吹き飛ばされているからで、シーイングは良くない。星がチカチカと瞬くのは、シーイングが悪いため。反対に空気がどんよりしている時は、大気が静止している時であり、シーイングは良い。
大抵は天文班の二年生が望遠鏡を操作するが、この日は違った。竹田先輩があたしを指名したのだ。
「久しぶりの山崎さんにやってもらいましょうか?」
「ええっ! や、やらせてください」
「そうこなくちゃ。じゃ、アナログで視野に入れてみましょうか? 木星は明るいからどうってことないわよ」
天文班自家製の自動天体導入機は、目的の天体の天球上の座標を入力すると、モーターが望遠鏡を勝手に動かしてその天体を視野の真ん中に入れてくれる。大変、重宝するのだけれど、いかんせん自家製である。動作が遅いのが問題。それに対して、目で見ながら合わせていくのがアナログ。
まず、大雑把に目で星を見ながら合わせる。次にファインダーと呼ばれる倍率の低い小さな望遠鏡で合わせる。ファインダーの視野には十字線が入っていて、その十字の交点に木星が来るようにする。次に、主望遠鏡に倍率の低い接眼レンズをつけてみる。ガリレオ衛星と呼ばれる木星の子分が見える。宝石ショーの始まりだわ。星の日周運動を追尾する機能も使わないといけない。さらに二つの接眼レンズを使って、倍率を上げていく。高倍率では、シーイング、つまり大気の揺らぎによる像の激しいゆれが問題になる。
揺れながらも木星の模様が見える。大赤斑、暗班、白班と言った楕円形の模様、それらを挟む東西に延びた何本もの茶褐色帯は、木星が雲の惑星であることを示している。
「どう? よく見える?」
と竹田先輩が待ちきれないと言うように尋ねた。彼女は今夜、自作の画像処理プログラムを試す予定なのだ。
「まずまずでしょうか? シーイングもそれほど悪くないわ」
そう言って、接眼レンズから目を離して、竹田先輩に代わった。その後、巧も接眼レンズを覗き込んだ。
「それじゃ、カメラに変えましょう」
そう言って、彼女は接眼レズを外して、ビデオカメラを設置した。ここからが彼女の仕事。パソコンにつないで、位置、ピントを調整し、フレームレート、フレーム数等を設定していく。そして、撮影したデータを処理する。画像を一枚一枚補正しながら重ねていくのだ。そうすることで、画像の揺らぎの効果をなくすとともにノイズをならして綺麗にしていく。デジタルカメラの手ぶれ防止機能の高級版と思えばいい。
いつのまにかやってきた佐原先生も加わって、皆でパソコンの画面を覗き込む。暗いドームの中でそこだけが明るい。徐々に画像が鮮明になっていく。大赤斑とその周りの複雑な渦、カルマン渦のように蛇行する模様も鮮明に見えてきて、ほおーという静かな感嘆が誰からともなく漏れる。木星の模様の中でも大赤斑はひときわ目立つ模様だ。丁度、赤褐色の台風を思い浮かべてもらえればいい。ただ、大きさが桁違いに大きい。何と地球3個分の大きさだ。寿命も桁違いで、ここ二百年程は存在し続けているらしい。もし、地球が大赤斑に飲み込まれたら、きっと洗濯機の中の洗濯物のようにぶん回されるに違いない。あたしには、時速五百キロの風の轟音が聞こえるような気がした。
ふと、隣を見ると、巧が竹田先輩を尊敬の眼差しで見つめていた。暗いドームのなか、彼女の綺麗な横顔がパソコンの画面の明りで照らし出されている。その表情の真剣さと静かな笑みは、拡大していたあたしの意識を収縮させ、あたしは現実に引き戻された。
駅ビルはクリスマスを控え、華やかに飾りつけられていた。でも、お客は意外に少ない。まだ午前中だからかもしれない。今日は、巧との二回目のデート。二人で映画を見るつもりだけれど、まだ、少し早いということで、駅ビルでウィンドウショッピング。
男の子って、何に興味があるのだろう。巧は何が好きなのだろう。普段はどんな本を読んで、どんな音楽を聞くのだろうか。クリスマスのプレゼントは何がいいのかなあ。そんな漠然とした興味があったのだ。ところが、あたしの目を捉えたものがあったの。
貴金属店の入り口そばのショーケースの中にそれはあった。赤紫色のゼリーのようなペンダントトップ。ピンクトルマリンという石らしい。
「電気石ですね」
と巧が言う。
「電気石? ピンクトルマリンって電気石というの?」
「トルマリンは電気石の一つで、熱すると電気を帯びるそうです。色はそれこそ色々あって、緑もあれば、青や黄色もあったと思います」
「ふ~ん。巧って、何でも知っているのね」
「そんなことはないですけれど、宝石も含めて鉱物は結構面白いですよ。この町の科学館にも鉱物・宝石コーナーがあって、何度行っても飽きませんよ」
そうか、巧は科学館にしょっちゅう行っているんだ。
巧は、ため息をついた。
「それにしても、高いですね。僕の小遣いでは、ちょっと手が出ないです。申し訳ありません」
たしかに、高校生の小遣いで買うのは結構厳しい…… えっ! もしかして、あたしにプレゼントしようと思ったの? もしかして、あたしが、買ってほしいっておねだりしていると思ったの?
「た、巧! べ、別にあたしは買ってほしい何て思っていないから」
「そう、思っているようにしか、聞こえませんが」
「あっ、あはは」
確かにそうね。
と、店の奥で鈍い音と鋭い音がした。『ゴン、ピシッ』。覗き込むと、店長らしい男性が金色の置物を落としたみたい。ショーケースの天板にひびも入っている。店長の顔は真っ青だ。多分のその原因は、こちらに背を向けて、店長と向き合っている人物にある。黒っぽいコートを着て帽子をかぶっている。ちらっと見えた顔は、サングラスとマスクに覆われていている。そして、男の右手に握られたピカピカ光るものが拳銃らしいとわかって、思わず声を出しそうになった。巧はあたしの口をふさいで、囁いた。
「静かに」
その男は、あたし達には気がついていないみたい。何やら店長に話している。店長はショーケースの鍵束を取り出した。
「由梨子、手を出して! 電気を溜めて!」
巧は、低く、ゆっくりとした声で言った。あたしは、何が何だかわからなかったけれど、有無を言わせぬ雰囲気にうなずいた。そうして、目をつぶって両手に意識を集中させた。ほんの十秒程だろうか、巧はよしと言った。その瞬間、2つのつむじ風が両手の平の上で渦巻いたかと思うと溜まった電気を運んで行った。その先には男の首。
首筋がバチっと青白く光り、男があっと声を上げて床にかがみこむ。
「いって―」
男が首筋を押さえて唸る。ちょと電荷が足りなかったみたい。巧が男の方へ走った。
「貴様、何しやがる!」
そう言って振り向いた男は銃口を巧に向けた。あと一歩という所まで近づいた巧はあっと小さく言って立ち止まった。サングラスの上からのぞく男の眉がピクピクと動き、その怒気は明らか。拳銃を持つ手の親指がゆっくり動きカチャリと音がする。安全装置か何かだ。ということは、今までは撃てない状態で、今は撃てる状態ということ? チャンスはなくなった。ピカピカの銃が狙うのは巧。
まるで、音のないスローモーションを見ているようだった。巧が右手を振りおろし始めるのと同時に、男の脳から神経パルスが伝わり始めた。あたしにはそれが知覚できる。神経パルスは男の脊髄を高速で伝わり、今度は右腕をやや遅いスピードで伝わる。人差し指に伝わったパルスは筋肉を収縮させ、引き金が引かれるだろう。そして、それは弾丸に火をつけ、爆発力で飛び出した弾丸は巧の胸をうちぬくだろう。あたしは、その黒い意思を伝える神経パルスが恐かった。そして憎かった。あたしの大事な人を奪おうとする神経パルスが憎かった。
「イヤーッ!」
視界が赤黒く暗転し、意識が薄れる中であたしは銃声を聞いた。
夢を見ていたのだと思う。弾丸は巧を貫き、男はサングラスを取ってニヤリと笑った。その両眼には白目も瞳もなく、ただ闇があった、そして、男の体全体がその2つの闇に吸い込まれ、最後にはその闇すらなくなった。巧の方はまるでガラスの板に描かれた人形のように平べったい破片となって床に散らばった。あたしは、急いでその破片を集め、元の形に直そうとした。丁度、ジグソーパズルを完成させるように。元の形を完成させれば、巧が生き返るとことが、わかっていたから。ところが、もう一人の女が破片を拾おうとした。髪が長く、ちょっときつめだけれど綺麗な女の子だ。目を合わせるとニヤリと笑った。どこかで、会ったことのある子だとはわかったが、どうしても思い出せない。彼女が巧の破片を集めれば、あたしがパズルを完成させることはできない。あたしは思わず叫んだ。
「ダメ―!」
夢から覚めても、まだ夢の中ということがある。あたしは、見覚えのない部屋にいた。ソファーに寝ていた。巧を狙った銃口と銃声が思い出された。巧はどこ? と顔を横に向けると、こちらを向いた巧がいた。が、まだ悪夢の中なのかもしれない。
髪の長い女が巧の顔を覆っていた。女は巧の肩を両手で引き寄せていた。数秒、いや十秒ほどかもしれない。何をしているかは見当がついた。ゆっくりと女は顔を離し、照明がてかてかと反射する巧の唇と閉じられた瞼が見えた。女は、先ほどの夢に出てきた綺麗な女の子だった。はっきり名前を思い出した。天文班2年の竹田先輩だ。
「あっ、ごめん。感謝のキスのつもりが、ついつい調子に乗って舌をいれちゃった。今のは、見なかったことにしておいて」
悪びれもせずに竹田先輩は軽く言った。巧の方は一瞬あたしと目を合わせて直ぐに目を伏せた。慌てて部屋から出て行こうとした竹田先輩は、入口の所で振り返ってこう付け加えた。
「そうそう、お父さんが、巧にお礼をしたいと言っていたから、何か頼んでみたら? 金の女神像でもなんでも」
「どういうことなの!」
扉が閉まったのを見届けて、あたしは巧を睨んだ。が、巧は目をふせたまま。あたしの顔をまともに見れないらしい。
「ゆ、油断していました」
と巧は小声で答えた。
「油断? その割には、放心していたじゃない」
「そ、それはその~」
「何なの? 男なら、はっきりしなさい!」
「あ、あまりにも気持ちよかったもので……」
「き、気持ちよかっただって!」
頭に血が上った。きっと鼻の穴も膨らんでいたと思う。荒々しく杖で床を叩いて立ち上がった。
「汚らわしい。もう、あたしとは口を利かないで!」
そう言って、扉の外へでようとした。服の袖をつかまれた。
「待ってくれ。悪かった。本当に悪かったと思っている。だから、僕の説明も聞いてくれ」
「聞きたくない!」
「じゃ、一つだけ。一つだけ聞いてくれ!」
あたしは、振り返らずに黙っていた。
「あの時、僕は拳銃をはたき落そうとした。だけど、引き金を引く方が早かったはずだった。それを由梨子が遅らせてくれた。だから弾が発射された時には、銃口は明後日の方向を向いていて、僕は助かった…… だから、ありがとう。僕の命を救ってくれてありがとう」
「それだけ?」
「えっ!」
「わかったわ。今回はあたしが小野寺君を救った。あたしが転落した時には、小野寺君が救ってくれた。これで、おあいこ、本当の清算よ。さようなら!」
駅ビルの中だった。あたしが寝かされていたのは、駅ビルの従業員のための休憩室か何かだろう。貴金属店で巧に銃が向けられた時、あたしは、男が引き金を引くのを阻止しようとした。神経パルスも電気の一種だ。だから、電気を操れるあたしなら神経パルスを遮断できると思った。そのために力を使った。膨大な力を使ったために、あたしは立ちくらみのようなものを起こしたのだと思う。結果的に巧は助かった。それだけで、あたしは十分満足のはず。これ以上のことを望むべきではない。あたしは、うれし涙を流した。心が弾むはずのクリスマスソングを聞きながら。
巧からメールが来た。謝罪と説明のメールらしい。てかてかと光る唇と閉じられた瞼を思い起こして、読まずに消そうとしたが、できなかった。
竹田貴金属店のダイヤを狙った強盗だったらしい。その店は、竹田先輩のお父さんのお店。あの時、強盗に脅されていたのは、そのお父さん。巧が拳銃をはたき落して、もみ合いになって、最後は、お父さんが金の置物(女神像)で強盗を殴ってけりをつけた。その時、竹田先輩は、駅ビルの1階のスーパーで買い物をしていた。夕飯の買い出しかなにかだろう。騒ぎを聞きつけ、気を失っていたあたしを休憩室に連れてきた。先輩は、巧に感謝した。たった一人の家族を助けてくれたと言って感謝した。巧は、あたしが活躍したことは、言えなかったと謝罪した。あたしが電気を操れること、神経パルスを遅らせたことは、説明のできないことだったから、巧の謝罪には意味がなかった。
そして、それだけのメールだった。あたしが聞きたかったことではなかった。が、巧がそれ以上のことは言えないことは、よく考えればわかるはずだった。
運命のいたずらと言うのかもしれない。もし、意識を取り戻すのが、もう十秒早ければ、あるいは、もう十秒遅ければ、あんな光景を目にせずに済んだはず。だけど、それが運命だった。もし、もう少し言葉に気をつけていれば、『清算』なんて言わなかったはず。だけど、発せられた言葉はもう消せない。強盗が憎くないと言えば、ウソになる。だけど、それも含めて運命だと思う。
銃声がいつまでも頭の中でこだました。




