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父がバズった日、私は父を嫌いになった ――亡き妻と娘の夢をつないだ、無口な係長の最後の挑戦  作者: asnt2026


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第1話 父、インフルエンサーになる

「凛。父さん、インフルエンサーになろうと思う」


日曜日の朝。


味噌汁を飲んでいた凛は、箸でつまんだ豆腐をお椀の中へ落とした。


父の水野直人は、食卓の向かい側で真剣な顔をしていた。


冗談を言っているようには見えない。


そもそも父は、冗談を言わない。


会社では中堅メーカーの係長。毎朝七時二十分に家を出て、夜七時前後に帰宅する。休日は洗濯をし、スーパーで特売品を買い、壊れかけた家電を説明書を読みながら直す。


そんな父が、インフルエンサー。


日本でいちばん似合わない組み合わせだと、凛は思った。


「インフルエンサーって、意味わかってる?」


「多くの人に、影響を与える人だと聞いた」


「誰に?」


「会社の人に」


「何を発信するの?」


直人は黙った。


何も考えていないらしい。


「料理? ファッション? ゲーム? 何か得意なことある?」


「特にはない」


「じゃあ無理じゃない?」


凛が冷たく言うと、直人は一瞬だけ困った顔をした。


それでも、


「やってみないと、わからないだろう」


と答えた。


その日の午後。


リビングのテーブルに、スマートフォン用の小さな三脚が置かれていた。


直人の隣には、若い女性が立っている。


「娘さん、初めまして。佐倉結衣です。お父さんの部下です」


明るく頭を下げた結衣は、スマートフォンを操作しながら説明した。


「私、趣味でSNSをやっていまして。フォロワーが一万人くらいいるんです」


「一万人?」


凛は思わず聞き返した。


「係長から、インフルエンサーになりたいって相談されまして」


会社でほとんど雑談もしない父が、若い女性部下にインフルエンサーになりたいと相談した。


凛には、その事実の方が衝撃だった。


「それで、何をするんですか」


「まずはショート動画ですね。係長には、流行中のダンスを踊ってもらいます」


「ダンス?」


直人の顔が固まった。


「聞いていない」


「今、説明しました」


結衣は容赦なく音楽を流した。


軽快な曲に合わせ、彼女がお手本を見せる。


直人はぎこちなく手を上げた。


右手と右足が同時に出る。


回転するところでカーペットに足を取られ、ソファに倒れ込んだ。


凛は思わず吹き出しそうになった。


だが、笑うより先に恥ずかしさが込み上げた。


五十歳近い父が、真顔で若者のダンスを踊っている。


「お父さん、やめた方がいいよ」


「まだ一回目だ」


「そういう問題じゃない」


「凛ちゃん、意外とこういう不器用さがウケるかもしれないよ」


「ウケなくていいです」


凛は自分の部屋へ戻り、扉を閉めた。


机の横には、一本の古びたアコースティックギターが立てかけてある。


亡くなった母、美咲が使っていたものだ。


凛は母のギターを抱え、仮面をつけた。


机にスマートフォンを置き、録画ボタンを押す。


凛もまた、父に隠れてSNSへ歌を投稿していた。


顔を見られるのが怖かった。


学校の誰かに気づかれるのも怖い。


だから白い仮面で顔の上半分を隠し、名前も本名とは関係のない「RINNE」にしていた。


凛が歌い終える頃、リビングから結衣の声が聞こえた。


「係長、笑ってください」


「笑っている」


「全然、笑っていません」


何度も同じ曲が流れた。


やがて静かになった。


夜になり、凛が水を飲みにリビングへ行くと、父が一人でスマートフォンを見ていた。


「投稿したの?」


「ああ」


「再生された?」


「十三回」


「そのうち何回、自分で見たの?」


「五回だ」


凛はため息をついた。


「恥ずかしいから、学校の人に見つからないでね」


「気をつける」


父は素直に答えた。


いつもと同じ、静かで優しい父だった。


それなのに、なぜ突然こんなことを始めたのか。


凛には理解できなかった。


翌朝。


直人は洗面所で口元を押さえた。


手のひらには、小さな赤い染みが付いていた。


直人は誰にも見られていないことを確認すると、ティッシュを丸めてゴミ箱の奥へ押し込んだ。


食卓では、凛が母のギターを指で弾いていた。


その姿を、直人はしばらく見つめた。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


家を出た直人は、玄関の外で一度だけ壁に手をついた。


腹の奥をえぐるような痛みが、昨日よりも強くなっていた。


それでも直人は、ポケットからスマートフォンを取り出した。


昨夜の動画は、再生回数が二十七回になっている。


その数字を見て、直人は小さくつぶやいた。


「時間がないんだ」


その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。

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