第1話 父、インフルエンサーになる
「凛。父さん、インフルエンサーになろうと思う」
日曜日の朝。
味噌汁を飲んでいた凛は、箸でつまんだ豆腐をお椀の中へ落とした。
父の水野直人は、食卓の向かい側で真剣な顔をしていた。
冗談を言っているようには見えない。
そもそも父は、冗談を言わない。
会社では中堅メーカーの係長。毎朝七時二十分に家を出て、夜七時前後に帰宅する。休日は洗濯をし、スーパーで特売品を買い、壊れかけた家電を説明書を読みながら直す。
そんな父が、インフルエンサー。
日本でいちばん似合わない組み合わせだと、凛は思った。
「インフルエンサーって、意味わかってる?」
「多くの人に、影響を与える人だと聞いた」
「誰に?」
「会社の人に」
「何を発信するの?」
直人は黙った。
何も考えていないらしい。
「料理? ファッション? ゲーム? 何か得意なことある?」
「特にはない」
「じゃあ無理じゃない?」
凛が冷たく言うと、直人は一瞬だけ困った顔をした。
それでも、
「やってみないと、わからないだろう」
と答えた。
その日の午後。
リビングのテーブルに、スマートフォン用の小さな三脚が置かれていた。
直人の隣には、若い女性が立っている。
「娘さん、初めまして。佐倉結衣です。お父さんの部下です」
明るく頭を下げた結衣は、スマートフォンを操作しながら説明した。
「私、趣味でSNSをやっていまして。フォロワーが一万人くらいいるんです」
「一万人?」
凛は思わず聞き返した。
「係長から、インフルエンサーになりたいって相談されまして」
会社でほとんど雑談もしない父が、若い女性部下にインフルエンサーになりたいと相談した。
凛には、その事実の方が衝撃だった。
「それで、何をするんですか」
「まずはショート動画ですね。係長には、流行中のダンスを踊ってもらいます」
「ダンス?」
直人の顔が固まった。
「聞いていない」
「今、説明しました」
結衣は容赦なく音楽を流した。
軽快な曲に合わせ、彼女がお手本を見せる。
直人はぎこちなく手を上げた。
右手と右足が同時に出る。
回転するところでカーペットに足を取られ、ソファに倒れ込んだ。
凛は思わず吹き出しそうになった。
だが、笑うより先に恥ずかしさが込み上げた。
五十歳近い父が、真顔で若者のダンスを踊っている。
「お父さん、やめた方がいいよ」
「まだ一回目だ」
「そういう問題じゃない」
「凛ちゃん、意外とこういう不器用さがウケるかもしれないよ」
「ウケなくていいです」
凛は自分の部屋へ戻り、扉を閉めた。
机の横には、一本の古びたアコースティックギターが立てかけてある。
亡くなった母、美咲が使っていたものだ。
凛は母のギターを抱え、仮面をつけた。
机にスマートフォンを置き、録画ボタンを押す。
凛もまた、父に隠れてSNSへ歌を投稿していた。
顔を見られるのが怖かった。
学校の誰かに気づかれるのも怖い。
だから白い仮面で顔の上半分を隠し、名前も本名とは関係のない「RINNE」にしていた。
凛が歌い終える頃、リビングから結衣の声が聞こえた。
「係長、笑ってください」
「笑っている」
「全然、笑っていません」
何度も同じ曲が流れた。
やがて静かになった。
夜になり、凛が水を飲みにリビングへ行くと、父が一人でスマートフォンを見ていた。
「投稿したの?」
「ああ」
「再生された?」
「十三回」
「そのうち何回、自分で見たの?」
「五回だ」
凛はため息をついた。
「恥ずかしいから、学校の人に見つからないでね」
「気をつける」
父は素直に答えた。
いつもと同じ、静かで優しい父だった。
それなのに、なぜ突然こんなことを始めたのか。
凛には理解できなかった。
翌朝。
直人は洗面所で口元を押さえた。
手のひらには、小さな赤い染みが付いていた。
直人は誰にも見られていないことを確認すると、ティッシュを丸めてゴミ箱の奥へ押し込んだ。
食卓では、凛が母のギターを指で弾いていた。
その姿を、直人はしばらく見つめた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
家を出た直人は、玄関の外で一度だけ壁に手をついた。
腹の奥をえぐるような痛みが、昨日よりも強くなっていた。
それでも直人は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
昨夜の動画は、再生回数が二十七回になっている。
その数字を見て、直人は小さくつぶやいた。
「時間がないんだ」
その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。




