ヘルギ40歳、夏。~研究発表会〜
「放っといて良かったのに」
あれは、怪我でも病気でもなんでもなくて、ただ、独りでに感情が昂ぶっているだけ。笑いたければ笑って、泣きたければ好きに泣けばいいのに、それもしないでずうっと年下の女の子に、ぼくの娘に心配をかけるなんて、相変わらず勝手な人間だ。
こんなことなら、前もって処分しておけば良かった。実害はないし面倒だからと後回しにした過去が悔やまれる。
「いいの」
「だって」
「母さんだったら、きっと、辛そうな人を見て放っとくなんて出来ないし、しないでしょう?」
「…うん」
ああ、もう、本当に。この善良さは、優しさは、彼女が母親からそっくりそのまま受け継いだものだ。底なし沼みたいに深く、息のできないくらい濃密な愛を注いでくれた、ぼくの女神から受け継いだものだ。
「それにね、特別なお茶も本当だもん」
真珠みたいに粒ぞろいの白い歯を見せてにぃっと笑って。肩掛け鞄から取り出したのは、ぼくたち2人で考案した屑薬草を漉き込んだ紙で作った袋。虫が寄ってこないから食品を包むのに良いね!と上機嫌になって、たくさんたくさん、呆れられるくらい作ったっけ。
「これね、余ったアレを、お茶にしてみたの」
紙袋から一つ取り出した小さな麻袋からは、薄っすらと紅色が透けている。
「お嬢様、そちらは?」
「おじい様にいただいた書物にあった軟白栽培を、色々な植物で試してみたんです。そうしたら…」
「白い作物を得るはずが、紅くなっちゃってね」
そう。「黄色系はともかく、なんで赤とかピンクとか紫になるのー?!」と本人が驚いたくらいに、白以外の色も収穫されてしまった、その一つだ。白色系の野菜や薬草が柔らかくて癖の少ないのに比べて、濃い色付きのものは酸っぱかったり渋みがあったりとおよそ皆に不評で、毒ではないけれど食用ではないと判断された。それをわざわざお茶に加工したのは、ぼくの娘らしい。だって。
「なるほど、若奥様のお色ですか」
そう。スヴァさんと、マディと、ぼくの持つそれぞれの色が、光が届かない真っ暗闇の世界でも誕生した。これを奇跡と呼ばず、何を奇跡と呼ぶだろう。だからこそ、そのまま捨て置くのを嫌ったんだ、きっと。
「わかおくさま」
「一音ずつじっくり噛み締めないの」
若奥様。響きがいい。
奥様ということは、ぼくとスヴァさんはちゃんと結婚した夫婦ということ。心から結ばれているということ。その結晶もこの世界に生まれていて、すぐ目の前に居て。やっぱり、ぼくは幸せだ。
「袖、危ないよ」
「あ。ありがと」
メイド志望の自分よりも背の大きな妹の服を借りたせいで、裾は引きずるくらい長くて肩の位置も合ってなければ、袖もぶかぶか。それを後ろから支えてやれば、ぼくが選んだ薔薇の香りがする。
それにしても、この格好はとても楽ちんだ。貴賓室からお湯を貰い受けに来るまでの道中、そこそこの数の人間とすれ違ったけれど、誰も此方を見向きもしない。使用人や身分を持たない助手の類だと端から思っていれば、注視することも無いのだ。
「薔薇のように鮮やかで美しい、赤色で御座いますね」
湯の入ったティーポットに麻袋をぽとりと落せば、みるみるうちに赤い色が広がっていく。スヴァさんの色が、拡がっていく。
「独特な酸味があるので、お砂糖やはちみつを加えた方が飲みやすいと思いますが、先ずはそのままで試飲してみてください」
「おお、これは初めての味覚ですが、よいもので御座いますね。この、後味の爽快感は暑さを忘れさせてくれるようで、心地良く思います」
「これ、他の薬草とブレンドしたの?」
「うん。飲み終わった後に口に残る軽い渋みが気になったから、さっぱりさせようと思って。夏だし」
お陰でお腹がたぷたぷになっちゃった、と、何でもないことのように笑うけれど。薬草に対する研究心がなければ、処方される相手のことを考えて居なければ、出来ることじゃあないんだよ?
「お嬢様は、ご生家で麦の栽培も為されて居られるのですか?」
お湯を貰った食堂室の片隅で真っ赤なお茶を飲みながら、ガレンは唐突にそんなことを言い出した。目をつけていた新種の麦の研究が、予想以上に期待外れだったせいだ。
「はい。小麦の他に、連作障害を予防するための輪作作物ですが、大麦も少々。今は、もち性の……、ええと、粘りのある大麦を選抜しているところです」
「粘りのある、大麦ですか」
「腹持ちが良くて食べ応えがありますし、スープをよく吸うので色んな料理に使えるかな、と。そうそう、お茶にもします。たっぷり沸かして薬罐ごと沢水で冷やすと、夏場なんて特にゴクゴク飲めちゃいますよ」
「おやおや、然様で御座いますか。順調で?」
「失敗もたくさんしてます。でも、失敗の原因が解れば次に生かせますから。可能性の高い因子から除去していって、時間が掛かろうと確実に潰していけば、興味深い結果が得られることもあるんです」
「そうした積み重ねが、日照や温度管理の手引書となったので御座いますね。カザンディビ坊ちゃまからお借り致しました。いずれ原本も拝見したく」
「あちらは清書したものなのでキレイですが、元の記録はメモ書きばかりで、読むのは大変ですよ?失敗の原因として考えられる要因とか、改善点とかで、隙間なくびっしり」
「これはこれは。お嬢様は、正しく坊ちゃまのお子で御座いますなあ」
「うん。みんなに言われる」
そうだ。ぼくは尊敬される研究者でないといけない。そうすれば、ずうっと父親で居られる。ずっとずっと側に居られる。
「ごめんね。ちょっと用事が出来たから、ここに居て」
誤ちを正すのが、ちゃんとした研究者だ。間違った過去は修正しないといけない。
貴賓室。今の王家の長が居る。孫娘のお願いを素直にきいて、脈をとっている父親もいる。
「昔、きみに伝えた東国の物語。あれに登場する鳥は、現在の研究から、ニワトリに近い姿をしていると判った」
「…………………………は?」
「あの時に描いた鳥は、徳の高い支配者の登場を祝ぐ瑞鳥だったよ」
「そ、それだけ?」
難病に冒された死期間近な人間みたいな表情から一転、従兄は間の抜けた顔になったけれど。ちゃんと王都の図書館にわざわざ出掛けて、娘と2人できっちり調べたんだから間違いない。ついでにその鳥たちの登場する物語もきちんと調べた。
「間違いは訂正しないと、娘の信頼を損なうからね。それじゃあ」




