フュルギエ50歳、夏。〜貧民街〜
初めて足を踏み入れた貧民街は、黒く淀んだ水底に溜まった、塵芥のような地区だった。
*****
板を被せた小さな小屋や布張りのテントがみっしりと隙間なく建っていて、
大量のごみや垂れ流しの汚水の悪臭が充満し、
空にも地面にも虫の大群が覆うのを手で払い退け裸足で闊歩する。
「聞きしに勝る、、、ひどい、場所ですね」
若い助祭は鼻をつまみ眉を寄せて、それでも言葉を選びながら発言した。
「……本来ならば、こうした場所にこそいち早く訪れ、心を砕くべきでした」
この地区は、正確に言えば王都ではない。国の発行する地図に記されない「存在しない場所」である。
元は王都のごみ集積場であったのを移民や貧困層、若い芸術家など住む所に困った者たちが集い不法占拠したために隔離壁で塞いでしまった、歴史的にはそうした地区だ。ゆえに治安も最悪で、あらゆる暴力と犯罪の舞台となり、王都警固も立ち入らないほどに危険な場所である。
とはいえ多くの住人は溝浚いや荷物運びなどの日雇い仕事のほか、落ちているごみの中から金目の物を拾って売ったり、自身を売り物にしたり、人通りのある場所で物乞いをしたりして、犯罪以外で生計を立てている。それがこの止まない雨によって仕事を無くし収入が途絶えてしまい、更には職を求めて地方から宛てもなく王都に出てきた人々も流入する。
「大司教様…!」
私の言葉に助祭はきらきらとした尊敬の念を向けるが、無論そのように聞こえるようには言ったが、目的は彼等の救済などではないのだ。私の心にあるは慈愛などではなく、もっと冷酷で理性的で、合理的な判断だ。
「大司教様。この先に広場があるそうです。そこに準備をしてあると、伝言が」
馬車が止まって、驚いた。
風通しの良い広場には炊き出し用の雨避けがあり、方々には盛んに燃える篝火があり、それとは別に欠けた煉瓦や石を積み、割れた板と破れた布切れを繋ぎ合わせた屋根付きの食事場も造っている。何よりも――。
「悪臭が薄らいだように、思います」
「ええ。あの焚き火は、不浄を清める火、です」
街や人々に染みついた臭いによって感じ難いが、火に近づけば独特の強い、特異的な匂いがする。その香りに防虫効果のある薬草を薪と共に焼べたのだと解った。
薬学の知識と柔軟過ぎる発想がなければ到底思いつかない大胆な消毒方法に驚き戸惑い、そして、異父弟の顔が、浮かんだ。
「部隊長の命により、王国軍第三部隊はこれより安全確保と人命保護の任務に就く!」
威儀を正して我々を迎える男の、重く響く声が、空気を震わし聞く者の肌を粟立たせる。
弟の娘が温かな眼差しと口元に浮かべた優美な笑みに心洗われる天使ならば、彼は周囲を睨むような厳粛な面持ちで悪を打ち砕くべく剣を振るう天使の守護者。その威圧に思わず後退りするほどの恐怖を覚えたか、教会の者達は呼吸も忘れ立ち尽くしている。
「献身と奉仕に感謝を」
立礼で応えれば皆もそれに従い、続けて明るい軍人たちのからりとした賑々しさで段々と恐怖心も薄れていったようだった。
―本題は、ここからだ。
行儀良く並んで炊き出しを受け取る面々に笑顔を貼り付けお決まりの台詞を吐きながら、それとなく周囲を見渡す。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
拝むように彼らが受け取るのは、麦と芋と豆をどろどろになるまで煮込んだ粥。1日はおろか一食分としても到底足りるものではないそれを、ズズズと飲み干して器まですっかり舐める者もあれば、弱りきった体にはそれすら重いのか少しずつ口に運んで咀嚼する者もいる。
「ああ、神よ」
「ありがたい…!ありがたい」
「我々をお見捨てにはならなかった!」
食事の場ですら、空き家に潜り込む者はまだ良い方で、軒下に集まり、或いは軍人達が不用品で組んだ急拵えの屋根の下で、身を寄せ合い風雨を凌ぐ状況。何処から流れて来たものか貧民街は過密化が進み非常に不衛生であった。
―条件が整い過ぎている。このままでは…。
「このまま放置すれば、この一帯は災いの種になる」
第三部隊員で、ヘルゲートの家族でもあるダルドワーズ・コメルシーが小声で囁く言葉に、最悪の事態が頭を過った。




