フュルギエ50歳、夏。〜傾国の悪女〜
礼拝の最後に掛ける「神々のご加護がありますように」。
懺悔室と呼ばれる小部屋で告げる「あなたの罪は赦された」。
どちらの言葉も発することが出来なくなったと司祭達から相談があった。まさかと思い試してみれば、他の言葉は問題なく発声できるのに、その2つの言葉を発しようにも喉がキュウと締まって息しか出ない。
「何故だ、何があったというのか」
「解りません。…神々の怒りを買ったとしか」
至急の遣いを出して教皇に面会し報告すれば、神々を敬うことを知らない俗人中の俗人でも発することが出来ない。
中央教会で色々と試した結果、加護や恵み、赦しに関わる語は軒並み発語できないと解り、それも調べた範囲では王都周辺すべて、下手をすれば王国内のすべての教会で同じ現象に見舞われていると予測された。そう伝えれば教皇は絶句し、暫く屋敷に留め置かれることとなった。
「怒り…、か」
蝋燭の小さな灯りにも煌めく金銀宝石の数々。豪奢な部屋に居心地の悪さを覚えつつ、思い出すのは弟一家のこと。
あの村でも冷たい雨が降っているのか、皆は息災でいるか。そして何より、王都に蔓延する噂話が彼らの元にまで届いていない事を願う。
―“傾国の悪女”。
何の気なしに口から発せられた「怒り」という言葉だが、あながち見当違いでも無いと思われた。
今年は例年にないほど長く烈しい雨が続いており、田畑が冠水した地域もあると聞く。王都でも水害を案じて神に祈りを捧げる信者も多く、皆、不安に慄いている。だが祈りを捧げるその口で、神に愛されし1人の少女の尊厳を傷つける流言飛語を散布してもいる。もしも、それが原因だとしたなら――。
「?!!…鏡?」
薄い闇の中、不意に視線を感じて振り返れば据え置きの大きな鏡台があった。年相応に老けて、段々と実の父親に似て来たと思ったけれど、何処となしに弟にも似ている、ように思う。異父兄弟で、彼は母親似、自身は母親の実の弟である父親似なのだから少しは似たところも、昔からあったのだろうか。
そういえば誰が言い出したか、弟もあの男の胤という噂が遠い昔に流れたが、弟は顔以外すべてスュトラッチ家の血筋だ。よしんばその才を王家に取り込もうとしたのだろうが失敗して命拾いしたのは向こうの方だろう。弟の癇癪は原因をすべて処分するまで終わらないのだから。
「あとは良い事だけがありますように」
小さな神の使徒が口癖のように言うその言葉はすんなり喉を通り抜け。忘れたい過去に引き摺られる心にぽっと明るく灯って軽くしてくれた。
*****
「という訳で、しばらく懺悔室の使用は中止にします。理由は…設備の不調、とでも伝えてください。嘘ではありませんので」
教皇の命により各地から夜駆けで集められた司祭も交えて話し合われたところ、やはり王都以外でも同じ状況だと判明。さりとて具体的な解決策が出よう筈もなく。懺悔室を一旦閉鎖し、礼拝でも「加護」などを他の語に代えることしか、俗人には思いつく対処法はなかった。
「懺悔室の閉鎖、かしこまりました」
「礼拝の終わりの言葉はいかが致しましょう?神のお――、んん。諸々を給わることが出来ない信徒の心を慰める善き言葉がありましょうか」
教皇の屋敷から戻り中央教会の司祭らに決定事項を告げると、予想外に反発や困惑が少なかった。すんなり受け入れられたのが不思議で、けれども安堵し、心の隙間からするりと漏れた言葉ひとつ。
―あとは良いことだけがありますように。
「ああ、コメルシー様の」
「なるほど。それなら直接的には神に祈っておりませんからね」
「しかし、我々のようにむさ苦しい男が言って良いものか」
「そこはまあ、、、追々考えよう」
驚いたことに、その言葉は中央教会に通う熱心な信徒ならば皆が知っているという。彼女がここに通っていた時、馬車を待つ間に簡単な怪我の治療をしたり信徒の悩み相談を受けていたのは、責任者として許可を出したのだから、知っている。けれど具体的な内容までは聞いたことが無かった。
生老病死すべての苦しみに寄り添い受け入れ、その最後に添える一言が、それだったなんて。
「そうそう。ご不在中にコメルシー様より薬草茶が届いたのです。大司教様には別の包みが御座いましたので、我々、先に頂戴しておりました。心の穏やかになるお茶ですから、これを振る舞うのも良いかもしれません」
部屋に戻ると、小さな麻袋に包んであって薬罐にぽとりと落とすだけで淹れられる手軽なお茶と、手紙の入った包みがあった。大司教ではなくフュルギエ個人に宛てられた、家族からの初めての手紙は、相手を想う温かな心のあらわれ。
『長雨が続き肌寒い毎日ですが、お風邪など召さずお元気でしょうか。』
『心ばかりですが、どうぞお召し上がりください。
爽やかな気持ちでお過ごしいただけますことを、お祈り申し上げます。』
『何卒お身体おいといくださいませ。』




