現在4
発表が終わると早々にその日の部活は終了となった。配役が決まったばかりのタイミングではうまく気持ちが纏まらず練習にならないだろうという顧問の判断だった。これから数日間夏休みの本格的な稽古が始まるまで、心の整理とリフレッシュを兼ねて部活はしばらく休みとなっている。
「ユウキくん、無事主演に決まっておめでとう」
部活動が終わるとすぐに絵美が話しかけてきた。
「ありがとう」
「地区大会がんばってね。ユウキくんは全国大会の練習と並行で大変だと思うけど」
「そうかもしれない。けど、たとえ稽古が大変でも絵美と一緒なら絶対に乗り越えられる。がんばろう」
ユウキは優しい笑みを浮かべて絵美の頭を撫でる。
「えへへ〜。わたしこれ好き〜」
顔を緩ませてユウキの腕に自身を絡ませる。
すると、
「おほん。仲がよろしいのは大変結構なことだがさすがに時と場所は選んで欲しいところだな、うん」
麗はなんとも形容し難い表情でユウキ達に指摘した。
「これくらいは良いでしょう? ぼくのお姫様がそれをお求めなんだからそれに応えるのは道理というものでしょう」
「そんな今どき舞台上にも出てこないような恥ずかしい台詞でも違和感を覚えないのは君くらいのものだよまったく」
諦め気味にはあとため息を吐いた。
「まあそれがぼくの役割ですからね」
そう言って王子様らしい気品で肩をすくめた。
「あっ、あの! 進藤先輩、ちょっとよろしいでしょうか」
ユウキを呼ぶ声が聞こえた。それにつられて振り向くが誰もいない。はっと気がついて視線を少し傾けると彼女の姿があった。
「おりえちゃん」
「あっ、はい、おりえです」
憧れの王子様に声をかけられて驚いたのか、おりえの声は少しうわずっていた。その様子は彼女の見かけと合わさって小動物を思わせた。
「主演女優就任おめでとう。これからぼくの恋人としてよろしくね」
「ありがとうございます。はいっ、こちらこそよろしくお願いします! おりえもそのためのご挨拶にと伺いましたので。ええ、恋人としてこれからお付き合いよろしくお願いしますです。って、えっ? こ、恋人ぉ!?」
おりえは突然顔が沸騰したように真っ赤になりおろおろし出した。
「おりえちゃん? ど、どうしたの? うっ、絵美もどうしたの? 痛いよ」
ユウキがおりえの様子に戸惑っていると、絵美が突然ユウキの脇腹をどすどすと突き始めた。
「ユウキくん。そういうの、よくない」
「あっはっはっは。さすがはユウキ君だ! 期待を裏切らない。やはり君は面白いね」
絵美は不満あり気な顔つきでユウキを睨み、手を動かし続けていた。その一方、麗はこの状況を第三者の立場で心から楽しんで豪快に笑っている。
横には絵美、斜め後方には麗、そして目の前には相変わらず取り乱しているおりえ。その中心にいるユウキは抜け出すことが不可能であった。
さてどうしたものかな、とユウキが考えあぐねていると、
「なんだか賑やかだね、どうかしたの?」
救世主がやってきた。
「小宮山先輩! どうしたと問われるとなかなか答えるのが難しいところですね。むしろぼくが知りたいくらいですよ」
苦笑いで小宮山に応答する。
「相変わらず人気だね進藤は」
「小宮山先輩ほどではありませんよ。それより助けていただけませんかね」
やや困った顔でユウキは助けを小宮山に求めた。
「ごめん、僕は忙しいんでね」
小宮山は「いやーまいったまいった」と言ってその場から退散しようとする。
「せ、先輩〜、見捨てないで」
捨てられた子猫にも引けを取らない表情で去りゆく小宮山に懇願した。
京介と浩司ならば王子様のそれを「気持ち悪い」と一蹴できるが、どうやらユウキのそういった演技をまだ見慣れていない小宮山には効果があったようだ。
「はは、冗談だよ。仕方がない、他でもない進藤の頼みだ」
半ば茶化したように言うと、彼はおりえと麗の間を通ってユウキの隣に立った。
「渡邉、あまりおもしろがらない。なんで状況を引っ掻き回すのさ」
「えー、だってぇー、楽しいんだもーん。それに笑いたい時に笑うのが私の信条なのさ! だったら笑うしかないでしょう!」
あまりに胡散臭いぶりっ子な振る舞いをしたかと思えば途端にドヤ顔になった。
「百歩譲って進藤をからかうのは良しとしよう」
「良しとしないでくださいよ先輩……」
抗議するユウキ、だが小宮山は気にも止めずに続けた。
「さすがに一年生を巻き込むのはいかがなものだろう。特に舟は君たちのノリにまだ慣れていないようだし。君は仮にも部長だろうが」
「うむ、確かにそれは一理あるな。舟、すまなかった」
麗がおりえの方を向いて謝る。少しだけ眉の下がった彼女の顔は儚げに見え、彼女の正体を知っているユウキが見ても胸が高鳴ってしまうほどだった。
「あっ、いえいえ問題ありませんっ! どうかお構いなく!」
ずっと一人おろおろしていたおりえであったが、麗に突然話しかけられたことで我に帰ったようだ。それでも依然あたふたしていたが。
「舟さんは何か進藤に言おうとしていたんだよね?」
見かねた小宮山が助け船を出す。
「はいっ、そうなんです! 今回の地区大会のための演目で私のペアということでご挨拶に伺ったんです!」
「そうだったね。それにしても一年生で主演に大抜擢なんてすごいね」
「いや、私なんかたまたま運が良かっただけですよ! それに何で私が選ばれたのかよくわからないし……それに一年生で主演に選ばれたのは進藤先輩も同じじゃないですか!」
「えっ、知ってたの!?」
「はいもちろんです! 去年の地区大会に見にいきましたから」
「そういえば舟は中等部でも演劇部だったな」
同じく慶立中等部出身の麗が思い出して言った。
「ご存知なんですか!?」
「ああ。私は文芸部だったが、高等部に進学した折には演劇部に入ろうと前々から決めてあってな。だからその頃から演劇部の発表は見させてもらっていたよ。もっとも、君とは学年が一つしか被っていないからそう多く君の姿を見つけることはできなかったけどね。それでも私の記憶に残るくらい君の演技は印象的だった。特に学園祭でのドロシーには実に息を飲んだよ。本当に良かった」
先ほどおりえたちの様子を眺めて笑っていた人と同じとは言えないほど真摯な感想であった。普段と真剣な姿のギャップもまた麗の魅力であった。
これだから麗にはかなわないな、と彼女のことをまだあまり知らないおりえを除いた面々は思った。
「それにしてもおりえちゃんって中等部から演劇部だったんだね。それなら一年生からの抜擢も納得だよ」
「いえ、そんな。足を引っ張らないようにがんばりますね!」
「これからよろしくね」
そう言っておりえに手を差し出した。
それをそっと握り返すおりえ。
「よろしくお願いします。えへへ」
彼女は面映ゆそうにユウキの手のぬくもりに身を委ねていた。
「あー、なんかもう妬けちゃうなー」
部活からの帰路、絵美はユウキを恨めしげに見上げながら言った。
今は夏。もう五時を過ぎようというのに日はまだ高いところにあった。
「別に妬くようなことなんてないと思うけど」
「心配なの! だっておりえちゃん演技も上手だし、一所懸命で可愛いし……それにあの子きっとユウキくんのことが……」
絵美は不平を漏らした。けれどその声は尻すぼみに小さくなっていって最後の方には何と言っているのかユウキには聞き取れなくなっていた。
「大丈夫だよ。だって」
「だって?」
彼女は不安げな顔でユウキの顔を覗きこんだ。
ユウキは絵美の顔をまっすぐ見返す。
そうすれば『王子様』はいつだって彼女がどんなことを期待しているのかわかる。
「ぼくには絵美しか見えないから」
「っ!」
途端、絵美の顔はまるで夕焼けに染められたかのようなオレンジ色になった。
「ほら、笑って、君には笑顔が一番だから」
ユウキは絵美の前髪を払ってその顔がもっとよく見えるようにした。
彼女の顔は赤らんでいるだけではなかった。
ユウキのまっすぐな想いに触れた絵美は感情が昂ぶったせいかその綺麗な瞳に大粒の涙を湛えている。涙は光を浴びてきらめいていた。それはまるで透き通った海に宝石を散りばめたようであった。
「……ユウキくん、好き……」
「うん、ぼくもだよ……」
絵美が背中に手を回して抱きついてくる。ユウキもその動きに応えて彼女を優しく抱き寄せる。軽くウェーブのかかった髪がふわりと揺れる。その動きに乗って漂うシャンプーの香りにくらっとする。
放課後。せせらぎの聴こえる土手。草の音、水の輝き、夏の色。
そして絵美の匂い。
いつの間にか世界は茜色に満ちていた。
やがてユウキと絵美の影が重なった。世界との境界は夕焼けによって曖昧されてしまったようだった。まるで二人の思考のように。