第13話 『肌色ハプニング』
ある日の早朝。
〈日本都市〉は、山脈と海に囲まれた、唯一人が暮らせる街であり、連なる山は、若い魔導師たちの鍛錬の場として使われることも多かった。
そしてこの季節、この時間帯はまだ肌寒さが残っていて、朝靄がかかっていた。
「ふはぁ……」
そんな中で、将真はジョギングに勤しんでいた。
別にどうということはなく、ただの体力づくりである。
まだ魔導師として未熟である将真は、魔導戦で勝てない。魔導師としては、実は体の基礎も足りていなかったのだ。
だから、まずは基礎からということで始めたのである。
元々、体力作りは将真にとって習慣だったのだが、ここ最近は色々あり過ぎて疎かになっていた。その忙しさもいい加減落ち着いてきたので、そろそろ再開せねば、というところだ。
そして、軽い運動をするたびに、将真は思う。
(うん。何をするにもまずはやっぱりジョギングだな)
将真は朝に強いわけではないが、弱いわけでもなく、少し頑張れば早起きくらいはできる。
『早起きは三文の徳』とか言うつもりはないが__この朝靄の中を走るというのは、清々しい気分だ。空気が澄んでいるからだろうが。
そんなこんなで、将真は30分くらい走り続けて、近くに立てかけてあった木刀を取り、素振りを始める。
そして、同じように山に鍛錬に来ている者の姿があった。
リンが、山の中を一気に駆け上っていく。
全力疾走である。
そしてその際に、手に持った棒を樹の幹に打ち付けていく。とはいえただの棒ではない。先が尖っている、槍を模した棒だ。
やがて木々の間を駆け抜けて頂上に到着するも、リンは足を止めることなく、その樹の下で回れ右をして、今度は全速力で山を駆け下りていく。
そして、下山しきったところで、セットしていたストップウォッチを止める。
そこに表示されたタイムは、23分52秒。
「はぁ、はぁ……。うーん、やっぱり最近、伸び悩んでる気がするなぁ……」
リンは呼吸を整えながら、不服そうにポツリと呟いた。
この、全力疾走で山を駆け登り駆け下りる、という自己鍛錬は、中等部2年生の頃から続けている。朝と夜の、毎日2回だ。
まだ未熟だった当初は、30分を切るなんて夢のまた夢みたいな記録だった。
だが、神技を使えるようになって__正確には、〈神話憑依〉が使えるようになって以来、ぐっと記録が伸び、アッサリと30分切ったのだが……。
とはいえ、〈神話憑依〉を習得したのはここ数ヶ月の間の話なのだが。
焦りは禁物。コツコツと続けていけば、必ず強くなれる。
事実、伸び悩んではいるものの、僅かに速くはなってきているのだ。
「うんっ……、朝の分は終わりっと」
棒を手放すと、それはすぐに虚空に溶けた。この棒は、基礎的な魔法で、〈武器生成魔法〉で作り出したものだったのだ。
「やっぱり汗だくだなぁ。早く帰ってシャワー浴びよう」
リンは、まだ朝靄のかかる山の麓を、走りながら帰路に着いた。
素振り100回を休憩を入れて3セット。
ランニングと合わせて朝晩やるという、奇しくもリンと似たような将真の習慣なわけだが、魔導に慣れつつあるのか、少しばかり楽になっていた。
(……これは、もう少しハードにしたほうがいいかもしれないな)
そんな事を思いながら、将真は寮に戻る。
まだ肌寒いとはいえ、汗はかく。このあと学校に行かねばならないのに、汗を流さないわけにも行かない。
将真は汗を流すために、脱衣所の扉に手をかけて、躊躇なく開け放つ。
「…………」
「へっ……?」
その瞬間、蒸し暑い熱気が吹き抜けてきて、将真は呆然と目を開く。
目の前に広がった光景を理解するのに、一体何秒かかっただろうか。
まず、そこにいたのは、リンだった。
しかも、一糸纏わぬ全裸で。
おそらく風呂に入っていたか、シャワーでも浴びてたのだろうが、まだ拭ききれていないらしく、濡れた髪がうなじに張り付いて、少し艶かしい。
普段幼気な雰囲気があるリンだが、髪を下ろしているからか、少し大人っぽく見えた。
(これがアニメとか漫画とかだったら、謎の光とか湯気とかエトセトラで大事な部分は隠れてるんだろうけど……、現実には、そんな事ないよなぁ)
当然、全部丸見えである。
男子としてはおいしいシチュエーションなのかもしれないが、初めて見る、それも同年代の少女の裸に、将真の頭は理解が追いつかず真っ白になっていた。
『…………』
お互い揃って状況が理解できておらず、しばらくの間呆然と硬直して、気まずい沈黙が場を支配する。
だが、やがてリンが状況を理解してわなわなと震始めると、顔をこれ以上ないくらい真っ赤に染める。今にも爆発しそうだ。
その表情を見て、ようやく将真は、今の状況が如何にまずいか。それを遅まきながら理解した。
「ぇ、な、どぅし……」
「し、時雨……、落ち着いてくれ。これは……、そう、事故。事故なんだ!」
「__ひぃやあぁぁぁぁぁっ!」
「ご、ふっ!?」
直後、恐ろしい速度でリンの拳が将真の顔面めがけて飛んできた。
それを躱す術は、多分魔導に精通していたところでなかっただろう。
その拳は綺麗に将真の顔面に突き刺さり、将真はそのまま数メートル吹っ飛ばされて、壁に後頭部をぶつけて目を回す羽目となった。
「……」
あんな事があっても学校を休むわけには行かず、将真は悶々と悩んでいた。
既に昼休みなのだが、まだリンに殴られだ部分は赤い。
休み時間に入ってから何度か謝ろうとリンに声をかけたのだが、話を聞いてもらえそうもなく、プイッと顔を背けるだけだった。
無理もない事とはいえ、このままではダメだということも理解していた。
ダメなのは主に将真自身なのだが。
どうしたものかと頭を悩ませていると、不意に後ろから声をかけられる。
「なぁ、お前のその顔どしたの?」
「ん?」
声の方を振り向くと、いや、声室で分かってはいたのだが、少年だった。
少年、とは言うものの、将真も身長が高く、ガタイが良い。別にムキムキのゴリマッチョという訳では無いが。
「いや、ちょっと止むに止まれぬ事情があって……、そういやお前、誰?」
「おぉ、俺は荒井響弥だ。よろしくな、片桐将真くん」
「おう、よろしく。……それで、なんで俺の名前知ってんの?」
「いや、序列2位と決闘騒ぎ起こしたんだから、嫌でも有名になるだろ」
「そういうもんか……。ああ、あと俺のことは将真でいいぜ」
「じゃあ俺も響弥で」
とりあえず、挨拶替わりに互いの拳をコツンとぶつける。
そして、互いの自己紹介が終わると、響弥が再び追求を始めた。
「んで、その顔は?」
「それはさっき言ったろ」
「いやぁ、やっぱ気になるんだよなぁ」
「ちょっと人には言えない理由があるんだよ」
不可抗力で(将真としてはだが)女の子の裸を見てしまい、怒りを買って殴られました。
……言えるわけがなかった。
「ふうん……。まあいいや、じゃあ聞かずに置いとくさ。そうそう、いい時間だし、飯行かね?」
「うーん……」
それは、まだ〈裏世界〉に来て日が浅く、友人が少ない将真にとって、魅力的な提案だった。
特に、一番気の知れたリンの怒りを買ってしまった今は。
こうして友好的な態度を取ってくれる同性は、〈裏世界〉に来てからは初めてなのだ。
姉の柚葉に、リンに杏果に莉緒。改めて考えてみると女子ばかりである。
初めて接点を持った同性と言えば虎生だが、彼とはあまりうまくやれそうな気がしないのである。
その点、響弥は気さくな性格のようだし、仲良くなれそうである。
そして、友人と一緒に昼食というのも悪くない。
だが、将真にはその前にやって置かなければならないことがある。
例え何度素っ気ない態度を取られても。
「そう言ってくれるのはありがたいけど、またの機会にさせてもらうよ」
「そうか。なんか用事か?」
「そんなとこかな」
「わかった。んじゃまたな、将真」
響弥は席を立つと、ヒラヒラと手を振ってそのまま教室を出て行った。
おそらく食堂か購買にでも行ったのだろう。
(……さて)
将真もまた、席を立った。
そして、意を決して、リンの席の前まで近づき声を掛ける。
「なあ、時雨」
「っ……」
むすっとした顔で、顔を背けられてしまった。
自分が悪いので、何も文句は言えないのだが。
「ちょっと話があるんだけど、ここじゃ何だし、場所移そうぜ」
「……」
不機嫌そうなのに変わりはないが、了解してくれたようだ。リンは席を立ち上がって教室を出ていく。
将真はそのあとをついて行くが、その事に何も言わないあたり、ようやく話を聞いてくれる気になってくれたのだろうか。
しばらく歩くと、人気のない場所まで来る。
ここなら、今日の朝の話をしても多分大丈夫だろう。
「リン」
「……なに?」
「ホントに悪かった! ごめん!」
「っ……」
将真は、全面的に自身の非を認め、素直に頭をさげる。
正直に言えば、少し言い訳をしたい気分ではあるのだ。
つい最近までは、一人部屋の寮生活。
そうでなくても〈表世界〉では、両親に放浪癖があることもあり、一人暮らしも同然だった。
それが、いきなり小隊三人は同じ部屋だと言われても、すぐには順応できなかったのだ。一人暮らしの方に慣れてしまっていたから。
この学園は校則で、小隊を組んだ後は、また別の専用の寮に移るらしい。そして小隊で一部屋を使うのだとか。
つまり、将真はリンと莉緒、つまり女子二人とルームメイトということになる。
別に男子と女子が一緒の部屋というのは、この学園では珍しい話ではないらしいが、一体誰があんな事故が起こることを想定できただろう。
あの後目を覚ました莉緒が、「それは災難だったっすねー」と呑気に言っていたが、冗談ではなく、本当に災難だった。
どうやら莉緒は、こうなる事も予想していたらしい。
それなら忠告の一つくらいあってもいいだろうと悪態をつきたくなったが。
とにかく、諸々言い訳したい気持ちは山々だ。
だが、ここまで不機嫌になるということは、やはり相当嫌だったということで、将真はどうあれ謝罪をする他ないのだ。
そして、ここは素直に謝るのが、将真にできる精一杯の誠意である。
やがて、リンが気まずそうに口を開く。
「……ボクの方こそ、いつまでも不貞腐れてて……。ごめん、迷惑かけちゃったよね」
「いや、時雨は悪くないと思う」
「でも、言い訳させて欲しいんだ」
「……いいわけ?」
何を悪いことをした訳でもないリンの方からそんなことを言われ、将真は首を傾げる。
すると、その反応をどう捉えたのか、リンが慌てて早口で捲し立てる。
「だ、だって……ほら、ボクの体って子供っぽいし。見られても恥ずかしくない自信なんてないし……。この歳にもなって、こんな子供っぽい体型っていうのはその……、ちょっと恥ずかしいから……」
なるほど、リンは自分の体型を気にしているようだった。
確かに、リンの容姿が少し子供っぽいというのは、自他ともに認める事なのだろう。
だが、それを差し引いてもリンは十分過ぎるくらい可憐な少女だ。
それに子供っぽいと言っても、精々が同年代の女子より少し、という程度だろう。成長期がまだ来てないだけだと考えれば、そう諦観するほどの事ではない。
それに、朝方見てしまったリンの体を考えると、何も問題はないように思えた。
勿論、そんな事口に出来るはずがないのだが。
「ホントにごめん。今度からはより一層気をつけるから、今回のことは大目に見て欲しい」
「……うん。今度からは気をつけてね? 絶対だよ?」
「お、おう」
「うん。だったらいいんだ」
リンが笑みを浮かべると、思わず将真は心臓が高鳴り、少し顔が赤くなる。
(くっそ、不意打ち……)
こんな風に、偶にだが、突然可憐な笑顔を浮かべるものだから、悔しいような照れくさいような。
将真は、頭をかきながら階段を降りようと足を踏み出す。
その瞬間、昼休み終了のチャイムがなった。
「……あ」
思ったより時間が経っていたようだ。
まだ将真は、昼食を終えていないというのに、高校生男子に昼飯抜きはかなり過酷だった。
思わず天井を仰ぐと、リンがクスクスと笑う。
「やっぱり迷惑かけちゃったね。今はこんなものしか持ってないけど、これでよければ片桐くんにあげるよ」
そう言ってリンが取り出したのは、キャラメルだった。
確かに、将真の空腹には気休め程度にしかならないだろうが、それでもリンの心遣いに胸がいっぱいになった。
朝方の件で邪険にされていたのだから、今はもうこれで十分である。
「ありがたくいただくよ」
「うん。あ、でもごめん。ボクも何も食べてないから、一粒ちょうだい」
「もちろん」
ちゃんと謝罪は受け取ってもらえたようで、仲直り……と言うのも何か違う気がするが、将真とリンは少し雑談を交えて楽しげに教室に戻った。




