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はきだめ異界譚・1

2025年2月5日。

この日、前触れなく世界中に「門」と呼ばれる異界の口が出現した。

どこにいくつ出現したのか。

いつ開き、そしていつ閉じたのか。

混乱の中で、それを正確に知り得る者はほとんどいなかった。


そして時は流れ。

世界は「門」から得た叡智と呪いによって、その在り方を歪めていた。



少しずつ、少しずつ。

『ロシア中央政府の発表によると、かねてより存在が示唆されていた

第一次南極探査計画が本格的に始動したとの事です。世界的気候変動の

原因が南極にあるという説は今なお根強く、またその原因には大規模な

エネルギー資源が関与しているとも言われています。エネルギー利権に

関するコメントは特にないものの、計画が正式に始動したという事実は

ある種の裏付けになると思われ…』


時代遅れのラジオ放送が、殺風景な部屋の中でやたらに響いている。

部屋の主らしき青年は、その放送に耳を傾けるでもない様子だった。

乾いたBGMとして聞き流しつつ、粗末な机に向かい黙々と食事する。

カロリー系ブロックと牛乳、そして新鮮なバナナ。素っ気ない献立だ。

味気ないラジオの放送に、それらは妙にマッチしていた。


『では、本日の地域別魔瘴気情報をお届けします。初めに東京都内』


ピッ!


放送内容が切り替わるタイミングで食事を終えた青年は、少し乱暴に

ラジオの電源を切る。電源ランプの赤い光がゆっくりと消えていくのを

見守る彼の右目が、同じような赤い光をかすかに放っている。やがて、

彼はごろりとその場で横になった。逆さに仰ぎ見る時計は、現在時刻が

午前7時半である事をやはり逆さに告げる。


やがて彼は身を起こした。

食べ終わった包みと皮とパックを、まとめてダストシュートに放り込み

ゆっくりと立ち上がる。天井が低くかなり窮屈な空間で、吊ってあった

紺と黒のツートンカラーのツナギに着替え、ウエストポーチに道具類を

カラビナで吊っていく。無機質な金属音だけが狭い部屋に響いていた。


手際よく支度を整えたらしい彼は、狭い階段を降りてドアを開ける。

湿度の高い空気が、べったりと服や肌に張り付くような朝だった。


玄関脇に置かれたクーラーボックスと思しきものを肩から提げ、青年は

ゆっくりと歩み出てドアを閉める。鍵はかけなかった。そもそもドアに

鍵穴もセンサー式キーもなかった。かける意味など、何もないから。


他には誰もいない。

会社へ向かうサラリーマンの姿も、学校へ向かう子供の姿もない。

ゴミを出しに来る主婦の姿も、犬の散歩をするお年寄りの姿もない。

防犯などという言葉は、既に意味を失って久しい。


そう。



この池袋は、抜け殻の街だ。


================================


真っ黒なガムを噛みながら、青年は迷いなく歩く。いつもと同じ道を。

やがて彼が足を止めたのは、かつて中央公園と呼ばれた場所だった。

人々の憩いの場として賑わっていた…という事実を、彼はそもそもほぼ

知らない。知識として知っていたとしても、想像できるはずもない。


彼にとっての池袋は、ただの職場でしかない。

同僚も上司も誰もいない。己のみが住み込みで働く職場。それはもう、

移住した時から決まっている事だ。今さら感慨も怒りも湧かない。

自分はこの街で生き、そして死ぬ。見届ける者など、きっといない。

それが自分だ。

ここへ来ると、そんな事ばかり頭に浮かぶ。

自分でも後ろ向きだと思うものの、今さら変えようとは思わなかった。


生も死も、自分には縁が薄い。

とことん縁が薄い自分の目の前に、その片割れが毎日のように並ぶ。

もう今さら、どうとも思わない己を淡々と受け止めている。己の心が、

ゆっくり死につつあるという事実も受け入れている。


「…今日は少ないな」


ポツリと呟いた青年は、腰に提げた道具を確認して再び歩を進める。

目の前にあるのが、自分の仕事だ。先輩風を吹かせる相手はいないが、

少なくとももはやベテランである。この数なら、1時間もかからない。


全部で12体。


申し訳程度のブルーシートの上に、同じ向きで遺体が並べられている。

男、女、男、男…


「この子、どっちだ?」


5人目の子は、このままでは判別ができない。それほどまでに幼い。

しかし青年は、ためらう事なくその乳児の服をゆっくりと脱がせた。

そして。


「男の子だったか」


そう言って、ペンチのような道具を手に取る。その目は、眠るような

その乳児の遺体の眉間を見据える。そこには、小さな金色の結晶体が

生えていた。くまなく調べた結果、その結晶体は眉間にしかなかった。


「…悪いな」


小さく呟き、青年は乳児の遺体からその結晶体をペンチで引き抜いた。

根はそれほど深くなく、眉間の傷はごく浅い。血も全く流れなかった。

採取した結晶体をクーラーボックスに収め、青年は遺体の服を丁寧に

着せ直す。明らかにそれは、何度となく繰り返してきた熟練の動きだ。

最後のボタンを留め直した青年は、次の遺体の方へと近づいていく。

今度は彼よりも少し年上と思しき、金髪の女性だった。


誰であろうと、やる事は同じ。

衣服を脱がせて体をあらため、あの結晶体が生えていれば採取する。

傍目には猟奇的光景でありながら、青年の挙動はどこまでも「作業」と

形容すべき単調なものだった。


誰もいない中央公園。

そこに並ぶ遺体。

体のあちこちで輝く結晶体。

ひとり黙々とそれを採取する青年。


狂気じみた光景に眉をひそめる者。

非人道的な行為に悲鳴をあげる者。

行いの残酷さに顔をしかめる者。

そして、純粋に恐怖に駆られる者。


誰もいない。

労いも嫌悪もそこには存在しない。



青年はただ、仕事を全うするのみ。


================================


かつて、サンシャインシティという名で呼ばれた高層建築。

その正面入口を少し入った場所に、大きな金属製の機械があった。

知っている者ならばひと目で判る、使い込まれた焼却炉だった。


縦長のターレットのような乗り物に乗った青年が、そこにやって来る。

何度も来ているせいか、タイヤ跡がまるでガイド線のように床一面に

模様を描いていた。積荷は12個の細長い袋。大きさは大小さまざま。

さっきまで彼が何をしていたのかを思い返せば、その中身が何なのかは

容易に想像できる。


ずっしり重い遺体袋を、青年は肩に担いでひとつずつ炉のテーブルに

そっと並べていく。最後のひとつは最も小さかった。同じ方を向くよう

全て丁寧に整え直し、青年は機械の青いボタンを押す。それと同時に、

鈍重なテーブルは遺体袋を炉の奥へゆっくりと収めていった。


弔辞も読経もない。何も言わずに、青年は赤い大きなボタンを押す。

ほんの数秒ブザーが鳴り、炉に火がついた事が赤ランプで表示される。

じっと見つめている青年の右の瞳もまた、同じ赤の光をかすかに宿す。

やがて青年は、少し離れたベンチに座ってポケットから文庫本を出す。

カバーもなく表紙も擦り切れ、もう表題を読む事さえ出来ない古書。

炉が動いている間、彼はそこで本を読む。それが毎日の習慣だった。


変わらない彼の日常。

それは限りなく無機質で。



そして、死の残滓に満ちていた。


================================


1時間後。

炉が停止した事を確かめた青年は、立ち上がって廊下の奥へと向かう。

かつて文化会館と呼ばれていた棟の地下にある、大型書店を目指して。

誰もいない暗い廊下を迷わず歩く。そして階段を降り、目的地に到着。

誰の姿も見えないそこは、それでも確かに大規模書店だった。

広大なテナントを埋め尽くす本は、どれも古ぼけている。しかし健気に

棚を埋めている。青年はその中から数冊を抜き出し、着ているツナギの

ポケットに無造作に押し込んだ。

そこがどんな本のコーナーなのか、もはや判らない。向かい側の棚には

もうほとんど本がない。青年は特に中身を確かめる素振りもなかった。


書店を出た青年は、来た道を戻る。思い出したように懐から取り出した

小型携帯ラジオの電源を入れると、女性らしき声が読む時事ニュースが

流れ出してきた。


『…政府はロシアの発表に対して、基本的に追従する姿勢を取るものと

思われます。アメリカからの抗議が苛烈さを増す事はもはや確実と…』


聴いているのか聴いていないのか、青年は興味も示さずに歩いていく。

ラジオの音が反響する、誰もいないサンシャインシティの通路を。


そろそろ炉も冷める。



今日の仕事はこれで終わりだった。


================================


「……ん?」


公園の前で足を止めた青年の目が、古びたベンチを見据えて止まる。

見慣れない何かが、そこにあった。

いや

そこに「いた」。


挿絵(By みてみん)


小さな影だった。

遠目にも判る赤い髪。古ぼけた服。今の自分よりもずっと幼い少女。

それが両膝を揃え、ベンチに座ってこちらをじっと見ている。


しばし、青年は動かなかった。ただじっと、その少女を見返していた。

怖れたわけではない。不審に思ったというわけでもない。しかし彼は、

声をかけるという選択肢をその心に抱くに至らなかった。

それが少女なのは判る。見た感じ、生きているのも何となく判る。

しかし、それが形容し難い違和感となっているのもまた、事実である。


何だあれは。

どこから来たんだ。

いつからいるんだ。

なぜここにいるんだ。


疑問が後から後から湧き出す。だが彼には、その答えを見出せるだけの

見識がなかった。そもそも彼には、生きている人間との接触そのものが

この数年全くなかったのである。


理由はあまりに単純だった。

今のこの状況を端的に表現し得る、もうひとつの疑問が思考を満たす。


どうしてあの少女は

生きているんだ。


この池袋で。


================================


沈黙は、長くは続かなかった。


ごくごく自然に少女が立ち上がり、ゆっくりと青年に近づいてきた。

その様を目の当たりにした青年は、あらためて両の目を大きく見開く。

彼女は生きている。

遠目に見た時の曖昧判断ではなく、動く姿に容赦ない確信が芽生える。

今になって、青年は目の前の事実に気後れしていた。


あり得ない。


誰であるか以前に、この池袋で人がまともに生きられるはずがない。

身ひとつでここに環境に順応するというプロセスは、あまりに危険だ。

あり得ない事だと断言する根拠は、彼自身の孤独な生き方に帰結する。

今の今まで、この街で生きた人間に遭遇した事など一度もなかった。

やがて少女は、彼のすぐ目の前まで近づいて来た。


挿絵(By みてみん)


ここまで近づくと、幼さと小柄さが余計に際立つ。本当に「子供」だ。

自分を見上げるその両目は、いつも見ている遺体のガラス体とは違う。

紛れもなく、命と意思を宿す瞳だ。


挿絵(By みてみん)


そこまで考え至った青年が、不意にフッと微かな苦笑を浮かべた。

そんな彼を、少女はやや怪訝そうな表情を浮かべて変わらず見返す。


命と意思を宿す瞳、か。

何を偉そうに形容してるんだ俺は。

そんな事を考える俺の瞳には、命や意思はちゃんと宿っているのか。

誰とも関わらず、ここでただ黙々と不毛な作業をしているこの俺に。

俺の知識や見聞なんて、他の奴からすればゴミみたいなもんだろうが。

あれこれ考えたって時間の無駄だ。…いや、無駄にしてない時間が俺に

あるかどうかも怪しいが。


もういい。

滅多にない機会なら、せめて少しは人間らしく振舞ってみろ。



そう、少しは人間らしく。


================================


「一人か?」

「ん?…うん。見ての通り」


青年からの問いに、少女は軽く肩をすくめて答えた。


「どっから来たんだ?」

「…ハッキリとは分かんない」

「そうか」


短くそう答え、青年は少し無遠慮に少女を上から下まで観察してみた。


挿絵(By みてみん)


大人向けのジャケットを着ている。見た感じ、東京都の職員のものだ。

古ぼけたシャツの前面に、ほとんど消えかけているパンダのプリント。

赤い髪は地毛か。そして、明らかに大き過ぎる靴を履いている。


家出少女のなれの果て、と形容するのは簡単だ。そのくらいは青年にも

想像できる。しかしこの池袋では、その仮定は根本的に成り立たない。

別の区などから来たにせよ、生きてここまで辿り着けるわけがない。

「あの日」から歳月が経ってはいるものの、ここの状況は変わらない。


チグハグな見た目ながら、目の前の少女はとりあえず人間に見える。

だが少なくとも、自分と同じような体質を持っている事だけは確かだ。

でなければ、今のこの状況は絶対に成り立たない。


だったら

選択はひとつだけだ。


「行くあてはあるのか、お前?」

「ない」

「だったら、俺んちへ来いよ」

「……」


そこで少女は、少し目を見開いた。ほんの微かにその瞳が光っている。

異様な光景でありながらも、青年はむしろその現象に親近感を抱く。


やっぱりな。

少なくとも普通じゃないって事か。なら、あれこれ考えるのは後だ。


「飯ぐらい食わせてやるから」

「いいの!?」


予想以上に少女は食いついた。少し気圧されつつ、青年は小さく頷く。


「味とかは期待するなよ?」

「いいよいいよ食べられるなら!」


さっきまでの陰鬱さが嘘のように、少女は屈託のない笑みを浮かべる。

つられてぎこちなく笑いながらも、青年に迷いはなかった。


どうせ何ひとつ変わらない毎日だ。

遺体を焼くのも慣れたし、飽きた。なら少し違う事もしてみたい。

誰かと話すってのも、久し振りだ。本当に久し振りだ。

別に、日常を変えたいとか思ってるわけじゃない。そこまで望まない。

ただちょっと変化が欲しいだけだ。なら、ちょうどいいんじゃないか。


「じゃ、ついて来い」


そう言って向き直り、青年は迷いのない足取りでさっさと歩き出す。

少女は予想より機敏な動きで、彼のすぐ隣に並んで遅れずついて来る。


誰かと並んで歩く。

もしかすると、生まれて初めてか。

そんな事を考える青年を見上げて、少女が問う。


「ねえお兄さん、名前は?」

「ミナト」


素っ気なく答え、青年は少女の顔に目を向けて問い返した。


「お前の名前は?」

「バーネイ」

「そうか」


予想してたのと、ちょっと違った。もっと当たり障りのない、日本的な

偽名を名乗るかと思っていた。が、逆に本名なのかも…とも思える。


どっちみち、どっちでもいい。

名乗り合うのもまた、初めてだ。

いや、ここからは何をするにしても初めての事ばかりかも知れない。


いいじゃないか。

どうせ単調な毎日なんだ。

ラジオ以外の声ってのも悪くない。




人の声と命の絶えた街、池袋。

二人分の足音は、静寂の中でやけに大きく響いていた。

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