表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天竺よりも遠く  作者: 波留 六


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/9

六.秋の月

 その夜、広虫は一人で悲田院の縁側に座っていた。


 満月より少し欠けた月が庭の柿の木の上にある。葉の隙間を通り抜けた月光が、重く垂れ下がる柿の実に青白い光を落としていた。


 あの書物を手に取り読んだ瞬間に感じた引力を、広虫はまだ覚えていた。病める者を癒し、貧しき者を愛せよ。その言葉の熱量は本物だった。あれは偽りではない。どこかの国で誰かが本当にそう信じ、そう生きた。その命脈が文字となりはるか西の果てから絹の道を越え、この平城京まで流れ着いたのである。


 天竺よりも遠い国の思いが、この地に届けられた。


 しかし、それは彼女の手には馴染まなかった。或いは馴染ませてはいけなかった。理由は今日、大極殿で言った通りだ。ただそれだけではない、もっと個人的な理由が広虫にはあった。


 悲田院に来る人たちはそれぞれ自分の信じるものを持っている。仏の名を念じる老婆、毎朝東に向かって礼をする男、何も信じないと言いながらも誰かの死の前で涙を流す若者。そういう人たちと共に過ごす中で、広虫が学んだことがあった。


 人の痛みは、信仰の名前を問わない。


 熱に浮かされた子供の額に手を当てるとき、その手が仏を信じているか否かは関係ない。ただ、温かい手がそこにあることが全てだ。尼としての悟りではなく、この古びた建物に染み付いた香りが教えてくれた現実である。そしてその温もりを「唯一の真実」と呼ぶことは、他の全ての温もりを否定することになる。


 それが広虫には耐えられないのだ。


 清麻呂はそこまで気づいていないかもしれない。そう思うと、口の端にほのかに笑みが浮かぶ。しかし弟はいつも姉より一歩遅れながらも、必ず同じ場所に辿り着く。それが広虫には愛しかった。


 縁側で床の軋む音が聞こえた。弟子の若い尼が粥の椀を持ってきた。


「お師匠様、夕食をまだ召し上がっておられないとのことで」


「ありがとう」広虫は椀を受け取った。「あなたも座りなさい」


 若い尼は遠慮がちに広虫の傍に腰を下ろす。名をお玉という、河内の農家の出の者である。去年の疫病で家族を亡くし、行き場を失って悲田院に来た。今は広虫の弟子として院を手伝っているのだ。


「今日、朝廷で何かあったのですか。清麻呂様がとても険しいお顔をされていたので」


 広虫は粥を一口すすった。薄いが、丁寧に炊かれた粥だった。


「難しい話があった。でも、終わった」


「それは……、よかったのですか」


「よかった、と思う。ただ……」広虫は言い淀み月を見た。「これから先も、同じようなことは何度でも起こる。この国が続く限り、外から様々な教えや考え方が来る。その度に、私たちは問い続けなければならない」


「何を問うのですか」


 広虫はお玉を見た。痩せたまだ少女の面影が色濃く残っていた。


「これは、目の前の人を助けるものかどうか。目の前の人の痛みに寄り添えるものかどうか。それだけだ」


 お玉は黙って頷いた。その目が少し潤んでいた。おそらく去年亡くした家族のことを思ったのだろう、と広虫は察する。しかし何も聞かなかった。


 尋ねなくても分かる。それが悲田院というものだった。


 月が少し傾いたようだ。秋風が庭の枯れ葉を転がしていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「熱に浮かされた子供の額に手を当てるとき、その手が仏を信じているか否かは関係ない。ただ、温かい手がそこにあることが全てだ。」 なんて深い言葉なのだろうと思う。 そして、そう言葉にできるこの国に生きて…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ