六.秋の月
その夜、広虫は一人で悲田院の縁側に座っていた。
満月より少し欠けた月が庭の柿の木の上にある。葉の隙間を通り抜けた月光が、重く垂れ下がる柿の実に青白い光を落としていた。
あの書物を手に取り読んだ瞬間に感じた引力を、広虫はまだ覚えていた。病める者を癒し、貧しき者を愛せよ。その言葉の熱量は本物だった。あれは偽りではない。どこかの国で誰かが本当にそう信じ、そう生きた。その命脈が文字となりはるか西の果てから絹の道を越え、この平城京まで流れ着いたのである。
天竺よりも遠い国の思いが、この地に届けられた。
しかし、それは彼女の手には馴染まなかった。或いは馴染ませてはいけなかった。理由は今日、大極殿で言った通りだ。ただそれだけではない、もっと個人的な理由が広虫にはあった。
悲田院に来る人たちはそれぞれ自分の信じるものを持っている。仏の名を念じる老婆、毎朝東に向かって礼をする男、何も信じないと言いながらも誰かの死の前で涙を流す若者。そういう人たちと共に過ごす中で、広虫が学んだことがあった。
人の痛みは、信仰の名前を問わない。
熱に浮かされた子供の額に手を当てるとき、その手が仏を信じているか否かは関係ない。ただ、温かい手がそこにあることが全てだ。尼としての悟りではなく、この古びた建物に染み付いた香りが教えてくれた現実である。そしてその温もりを「唯一の真実」と呼ぶことは、他の全ての温もりを否定することになる。
それが広虫には耐えられないのだ。
清麻呂はそこまで気づいていないかもしれない。そう思うと、口の端にほのかに笑みが浮かぶ。しかし弟はいつも姉より一歩遅れながらも、必ず同じ場所に辿り着く。それが広虫には愛しかった。
縁側で床の軋む音が聞こえた。弟子の若い尼が粥の椀を持ってきた。
「お師匠様、夕食をまだ召し上がっておられないとのことで」
「ありがとう」広虫は椀を受け取った。「あなたも座りなさい」
若い尼は遠慮がちに広虫の傍に腰を下ろす。名をお玉という、河内の農家の出の者である。去年の疫病で家族を亡くし、行き場を失って悲田院に来た。今は広虫の弟子として院を手伝っているのだ。
「今日、朝廷で何かあったのですか。清麻呂様がとても険しいお顔をされていたので」
広虫は粥を一口すすった。薄いが、丁寧に炊かれた粥だった。
「難しい話があった。でも、終わった」
「それは……、よかったのですか」
「よかった、と思う。ただ……」広虫は言い淀み月を見た。「これから先も、同じようなことは何度でも起こる。この国が続く限り、外から様々な教えや考え方が来る。その度に、私たちは問い続けなければならない」
「何を問うのですか」
広虫はお玉を見た。痩せたまだ少女の面影が色濃く残っていた。
「これは、目の前の人を助けるものかどうか。目の前の人の痛みに寄り添えるものかどうか。それだけだ」
お玉は黙って頷いた。その目が少し潤んでいた。おそらく去年亡くした家族のことを思ったのだろう、と広虫は察する。しかし何も聞かなかった。
尋ねなくても分かる。それが悲田院というものだった。
月が少し傾いたようだ。秋風が庭の枯れ葉を転がしていった。




