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天竺よりも遠く  作者: 波留 六


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五.御簾の声

「やめよ」


 御簾の奥から声がした。


 帝の声だった。それほど大きな声でもなかったのに大極殿の空気が一変した。重臣たちが一斉に頭を垂れる。成麻呂も口を閉じた。


 沈黙の中、御簾に落ちる影がゆっくりと揺れた。


「法均」帝は言った。法均とは、広虫の法名である。「そなたの言葉、しかと聞いた」


「恐れ多いことにございます」


「悲田院で、これまで何人の者を診た」


「はっきりとした数は分かりかねますが……この一年で、三百余名かと」


「その者たちは、今どうしている」


 広虫は口もとを引き締め、まつ毛を伏せる。


「大半の者は、よくなって悲田院を出ました。あるいはそのまま院で働くようになった者もおります。中には……院の土の下で眠っている者もございます」


 静まり返った太極殿に霜が溶け雫となって落ちる音が大きく聞こえた。


「法均、清麻呂」


「はっ」と、二人の声が重なる。


 帝は長く沈黙した。あまりにも重い空気に焦らされるように成麻呂が顔をしかめる。やがて御簾の奥で長く息を吐く気配があった。


「法均。そなたが悲田院で病の者の手を握るとき、妾の母上もかつてそうされた。母上は言っておられた。人を癒やすものは言葉ではなく、手の温もりだと。今日、そなたの言葉を聞いて、その声を思い出した」


 姉弟はじっと板の間を見つめ、帝の次の言葉を待った。


「景教の件、妾が決める」


 御簾の奥で、絹の擦れる音がした。


「この教えは受け入れぬ。理由はそなたたちが申した通りだ。しかし、成麻呂の言う苦しみも偽りではない。民が疫病に苦しんでいることは、妾も憂いている。ゆえに今後は悲田院への支援を手厚くする。法均、清麻呂、そなたたちが先頭に立ってこの国の病に向き合うように」


 広虫と清麻呂は同時に額ずく。


「謹んで、承ります」


 成麻呂も広虫たちと同じように黙ったまま顔を伏せた。その肩が、ほんのわずかに揺れる。敗北を受け入れているのか、それとも次の策を胸の内で組み立てているのか広虫にはわからなかった。ただ、今この瞬間に帝の声があった。それが全てだった。


 大極殿を出ると、秋の日差しが石畳の霜を溶かしていた。清麻呂は広虫の横に並び、水で滑らぬように足を運びながら歩く。


「姉上」


「何だ」


「今日のことは、正しかったと思いますか」


 広虫は陽光に目を細める。


「正しいかどうかは、これから先にしか分からない。ただ、偽りではなかった。それは言える」


 清麻呂は小さく笑う。備前の田舎にいた少年の頃と変わらない、子供のような笑い方だった。


「姉上は、いつもそうですね」


「そうか?」


「はい。正しいか、ではなく、偽りでないか、と問う。それが姉上のやり方です」


 広虫は答えなかった。代わりに清麻呂の腕を軽くつかんで歩みを止めた。振り返れば、大極殿の屋根が秋の青空に映えていた。その荘厳な瓦の上を一羽の白鷺がゆっくりと飛んで行く。


 鮮やかな朱色を包み込む、どこまでも高く広がる青白い空、そこを優雅に舞う白い一点。清麻呂が思わず声を漏らす様子を見て広虫は微笑みを浮かべる。疫病の影の中にあってもこの都は美しかった。

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