三.夜の語らい
その夜、二人は悲田院の一室で遅くまで話した。
清麻呂が持ち込んだ情報は細やかなものだった。かつて唐に渡り景教を研究したある知識人が、景教の「唯一神」の概念こそが仏教の腐敗と堕落を正す力になり得ると主張しているという。仏教寺院が土地と財を集め政治に介入するこの時代、「神仏に替わる新たな信仰」の導入を求める声は、朝廷の一角で確かに高まっているという。
「景教の慈愛の教えは、確かに美しい」と広虫は言った。「私が感じたことは本物だ。だが……」
「だが、その輝きが強烈なほど暗い闇が生み出される」清麻呂が続けた。姉の言葉を先取りするように言い、彼は暗い燈台の炎を見つめた。「景教は他の信仰を認めません。姉上がおっしゃりたいのは、そのことでしょう」
清麻呂は悲田院を訪れる前から広虫が頷くことを知っていたはずである。「抜け目のない弟だ」とは思わなかった。広虫も弟の考えていることなど容易に想像がつく。二人は子供の頃からそうだった。
「この国は古来より様々な信仰を受け入れてきた。大陸から仏教が来ても、この国の神々を捨てなかった。神仏習合という形で互いを溶け込ませた。それがこの国の姿だ。それぞれが灯火となって、この世をあまねく照らしているのだ。だが景教は……聖徳太子が『和を以て貴しとなす』と説かれた、その和の精神と根本のところで相容れない」
「その通りです」清麻呂は言った。「しかし、それだけではありません」
彼は懐から別の一枚の紙を取り出した。漢字でびっしりと書かれた私信の写しのようだった。
「これは?」
「成麻呂様と、唐から帰国したある景教の信者との間で交わされた書簡の写しです。内容を読めば、景教の導入は純粋な信仰上の問題ではないことが分かります。成麻呂様は、景教の寺院——大秦寺を平城京に建立することで、道鏡の法王としての権威に対抗しようとしている。さらには、景教の寺院を通じて唐の商人と直接交易の道を開こうとする思惑もある。そしてこの経典は帝の正当性を間接的に否定している。一体何をお考えか……」
広虫は書簡の写しに目を走らせた。成麻呂の思惑は容易に想像のつくことだ。だがこれほど詳細にことが進められているとは思いもしなかった。ただ、本当に景教の教えに殉じようとするのなら咎めることもできない。人それぞれの信仰を否定しない広虫にとって、景教を信じる人を否定する理由はないからだ。しかしそこには信仰への言及はほとんどなく、政治的な利益計算が透けて見える。
「つまり、民の信仰や魂のことなど、どうでもいいのだ」広虫の声は低かった。「ただ、道鏡に対する政争の道具として、この教えを使おうとしている」
「そして、もしそれが成功すれば……」清麻呂は言い淀んだ。
「もし成功すれば、景教は朝廷の後ろ盾を得て急速に広まる。そして他の信仰を認めないその教えが根付けば、今まで互いの違いを許し合いながら生きてきた人々の間に、深い亀裂が走る」広虫は続けた。「疫病で傷ついた民の心が、今度は信仰の違いで引き裂かれる。それを私は恐れる」
二人はしばらく黙った。煤の匂いが鼻を突く。燈台の油が燃え尽きかけ、炎が細く揺れていた。
「姉上」と清麻呂は言った。「帝に申し上げることを、お考えですか」
広虫は答えなかった。答えの代わりに膝の上に置いた経典をそっと撫でる。その仕草を清麻呂は黙って眺めていた。
広虫は帝のことを思う。聡明で意志が強く、それゆえに頑固でもある。道鏡への傾倒も疫病に苦しむこの国を憂いてのことであろう。その強い思いが政の道具として扱われてしまっている。今の帝に弟の思いは届くだろうか。広虫は目を閉じた。
思えば、この姉弟は二人で何度も「選択」をしてきた。備前の田舎から平城京に出てきた日から、ずっとそうだった。何かを守るために、何かを賭ける。その繰り返しの中で、二人は生きてきた。
「明日、帝に拝謁を願い出ます」広虫は目を開いた。「あなたも一緒に来なさい」
清麻呂は無言で頷いた。その表情には安堵と緊張が混じっていた。
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