一.悲田院の秋
神護景雲三年(七六九年)の秋は、殊のほか早く来た。
奈良の都・平城京は天平の栄華がまだ人びとの記憶に鮮やかなうちから、その裏側に深い影を抱えていた。天然痘の流行は数十年にわたって波を打ち、聖武天皇のご在世の頃には貴族も民も等しく倒れ、藤原四兄弟が一夜の夢のように消えた記憶が今なお語り草になっている。そして今また、秋風に混じって病の匂いが漂い始めていた。
平城宮の南に開かれた悲田院は、出家した尼・法均が運営する施療所である。もっとも「施療所」などという改まった呼び方は、ここにいる者たちには似合わない。路地で拾われた子供、夫に死なれた老婆、疫病で家族を失い行き場を失った男、そういう人びとが、日が暮れてから一升の粥を求めて集まってくる、そういう場所だった。
法均、俗名を和気広虫という。備前国藤野郡の郡司の娘として生まれ、十一のときから平城京に出仕した。孝謙天皇に重用され、典侍の位に就いた才媛だが、孝謙上皇が出家され尼姿となったとき、自らもそれに倣って仏門に入った。以来、宮中の傍ら悲田院に心血を注いでいる。今年、数えで四十歳になる。
その日の夕暮れ、広虫は膝をついて老人の背をさすっていた。名も知らぬ男である。三日前に門口で倒れているのを弟子の尼が見つけ担ぎ込んだ。熱は下がったものの食べ物を受け付けず、乾いた唇をかすかに動かすのみである。
「水を、もう少し」
広虫は柄杓で薄い粥を掬い、男の口元に運んだ。ほんの一匙が喉を通る。それだけで男の眉がわずかに緩んだ。
慈愛とは何か、と問われれば、広虫は迷わずこの瞬間を指差すだろう。書物の中の言葉でも、朝廷での格調高い詔でもない。この一匙の粥が命を繋ぐかもしれない、その細い細い糸を手繰り寄せること。それが、彼女の知っている慈愛の形だった。
「姉上」
入口から声がした。振り返ると夕陽を背に受けた男が立っている。朱の官服に細い影が伸びて、板の間にまで届いていた。
和気清麻呂――広虫より三つ年下の弟である。今は近衛将監、従五位下。備前の地侍の出としては異例の出世をとげた俊才だが、そのことを鼻にかける気配は微塵もない。額に汗の粒が光っているのは、急いで歩いてきたからだろう。
広虫は立ち上がり、老人の体に薄い麻の衣をかけてから弟のもとへ歩み寄った。二人は言葉もなく外の縁台に腰を下ろす。悲田院の秋の庭は、コオロギの声だけが満ちていた。
「どうした。その顔は」
清麻呂は答えず、しばらく庭を見つめていた。やがて懐から一冊の書物を取り出した。薄い巻子本で、漢字がびっしりと連なっている。
「姉上、これをご覧ください」
「何の書物だ」
「景教の経典です。この度の遣唐使が持ち帰ったものを、写させていただきました」
広虫は書物を受け取った。燈台の光に文字を透かしてみると、読めるものと読めないものが混じっている。漢訳はされているが、仏典とも儒書とも異なる言葉の流れだった。
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