24 その手を取るために①
屋敷に帰る道中の馬車では、どちらも何も言わなかった。
でも、さっき酔った男に掴まれた腕に触れていると、バルトは何も言わずにブランケットを出して私に掛けてくれた。
予定よりもずっと早く帰ってきたからか、私たちを迎えたヘルベルトたちは驚いた顔をしていた。
でも、私は髪を乱しているしバルトも難しい顔をしているのでだいたいのことは察したのか、「お二人とも、まずは湯を浴びてください」と促された。
風呂の準備をしてくれたメイドたちは私を見ると、真っ青になった。
「お、奥様……」
「大丈夫よ。体は……なんともないから」
まずは、それだけを言っておく。
でも、グローブを外した腕には真っ赤な痣が残っていて、メイドが悲鳴を上げた。すぐにお風呂に入ってゆっくりマッサージもしてもらったから痣はだいぶ薄くなったけれど、それでもまだ痛々しいからメイドが普段着ドレスの上にもう一枚ショールを羽織らせてくれた。
居間に行くと、私よりも仕度に時間の掛からないバルトは既にいた。遅くなったことを詫びるけれど、彼は首を横に振る。
「……腕は、大丈夫か」
メイドに聞いたのかバルトが尋ねてきたので、頷く。
「ええ。明日になれば目立たなくなるわ」
「……そうか」
言葉少ななまま、私たちはソファに向かい合って座った。
ヘルベルトはお茶の仕度だけすると、すぐに部屋を出ていった。二人で話をしなさい、ということだろう。
「……先ほどは、怖い思いをさせてしまった。すまなかった」
かなりの沈黙の後にバルトがそう言ったので、私は首を振る。
「あなたが謝ることではないわ。警戒していなかった、私が悪いもの」
「……君はどうして、あんな場所に一人でいたんだ?」
「……知り合いと、ちょっと話をしていて」
「知り合い? 誰だ」
「……ジルヴィア・フレーリヒ様」
「……あの令嬢か」
バルトはため息をついて、「さすがにフレーリヒ子爵に物申そう」と呟く。
そして私のことを気遣っているのか、躊躇った様子で聞いてきた。
「……俺は確かに君に、恋人を作ってもいいと言った。そのことを撤回するつもりはないが……だからといって、先ほどの発言はいただけない」
「どれ?」
「なぜ止めたのか、と聞いてきたことだ」
バルトは苦々しげに言い、口元まで運んだティーカップをそのまま下ろした。
「俺は、君に自由な恋愛をさせたかった。相手が誠実で信頼のできる男であれば君を託して……場合によっては俺に責任があるということで離縁した後、その男と一緒になれるように手配するつもりだった」
「……な、そ、そうなの?」
妙だ。
そんなの、今まで一度も言われたことがない。
「そうだ。……だがそんなことを言えば君のことだから今みたいに驚くだろうし、金貨百枚云々を持ち出して意地になるに決まっていると思っていた」
「……で、でも実際に私はあなたに買われたも同然で……むしろ私の方が、あなたに可愛い恋人ができることを願っていたくらいなのに」
「……。……そう思われても仕方ないよな」
バルトはそこでさっと私を見ると、勢いよく頭を下げた。
「……すまなかった、ディートリンデ。ずっと俺は、君にひどいことばかりしてきた」
「え、ええと……その、どれについて?」
「子どもの頃から。俺は……本当はずっと君と仲よくしたかったのに、君に意地の悪いことばかり言っていた」
私につむじを向けたまま、バルトは言う。
「君はいくつになっても俺のことを弟扱いするし、俺自身成長が遅いくせに生意気になっていて……素直になれなかった。子どもの頃、化粧をした君に暴言を吐いたときも……」
「いいのよ、あれは自分でも、妖怪メイクだったと思っているわ」
とにかく背伸びしたいお年頃だった私は、母やメイドが止めるのにも構わず濃い化粧をした。
そのメイクは令嬢仲間からは好評だったけれど……難しい年頃のバルトからすればけばけばしいと思われても仕方のないものだったと、今なら分かる。
「それは、まあ、確かにきつかったが……何よりも、俺の知っているリンデではなくなっている気がして、怖くなったんだ。あのままだと、どんどんリンデが離れてしまう、と思って……。もっと自然なリンデの笑顔が見たかったから、あんなことを言ってしまった」
「えっ……」
それじゃあ……つまり、どういうこと?
バルトはあの厚化粧が嫌いだったけれどそれ以上に、背伸びする私がどんどん知らない人間になっていくのが嫌で、それを止めようとしていたってこと?
でも、十三歳そこそこのバルトではいい言葉が思いつかなくて、その結果出てきたのが「けばけばしい厚化粧」……?
「……その」
「自分でも、過去の自分の語彙力と気遣い力の少なさが恥ずかしい。……さすがに後悔して謝ったけれど、当然君は許さなかったし――」
「え?」
「え?」
「謝ったって、いつのこと?」
さすがにこれはおかしい、と突っ込んだ。
だってあのパーティーの夜に喧嘩別れしてから、私は一度もバルトから接触を試みられたことがない。
バルトもきょとんとした後、思い返すように顎に手をやった。
「いつ、って……君の父君が亡くなってしばらく経った頃に、男爵家に手紙をやっただろう。こういうことがあったから、リンデに謝らせてほしい、って」
「知らないわよ!?」
「だ、だが男爵は、姪は君のことを許さない、もう顔も見たくないと言っている、って――」
そこで、私たちの考えていることが一致した。
さては……叔父が、バルトからの手紙を握り潰したな!?
「私、手紙なんて知らないしそんなこと言っていないわ!」
「……それじゃあ、男爵に嘘をつかれたか。あの直後、姪ではなくて娘のエルナと仲よくしてくれれば……と言ってきたのが怖くて、逃げてしまったんだ。それで、どうせリンデには嫌われたのだからと関わらないようにして……」
……あの糞叔父、何を考えているの!?
さては……あの頃から私が跡継ぎになるのは決まっていたから、エルナの方を勧めてきたってこと?
「……あら? でも叔父はあなたが私に求婚しに来たとき、喜んでいたわよ?」
「……ああ。俺も念のため『お初にお目に掛かります』と言ったら、男爵も初見の挨拶をしてきた。……俺のこと、忘れていたようだな」
「……なによそれ」
それじゃあ……何?
私たちは七年前には仲直りできていたかもしれないのに、叔父が全部台無しにしていたってこと?
頭を抱えていたバルトが、ため息をついて体を起こした。
「……なるほど。七年間も音信不通で謝りもしなかった男が求婚してくれば、リンデが怒るのも当然だよな」
「……」
「リンデ。俺は君に嫌われていると思ってからも……ずっと、君のことを考えていた」
叔父への怒りを募らせていた私は、ゆったりとしたバルトの言葉につい、心臓を高鳴らせてしまった。
バルトは、緑色の目を真っ直ぐ私に向けて言う。
「君が大商家の次男と婚約したと聞き……俺からの祝福の言葉なんて聞きたくないだろうけれど、さすがに結婚したら祝おうと思っていた。だから……あんな理不尽な理由で婚約解消されただけでなく、中年オヤジの後妻にされるかもしれないと聞いたら、我慢できなかった」
「……。……え? でも、バルトは面倒な結婚話を回避するために、手っ取り早く私を買おうとしたんじゃ……?」
「迅速かつ確実に君を引き取るには、あれしか思いつかなかった。……リンデは、俺を嫌っている。そんな男に……愛しているから結婚してください、なんて言われるより、互いの利害が一致したから、と言われた方が君は承諾してくれるだろうと踏んだんだ」
「確かに、私ならそうするだろうけど……え?」
ちょっと、待って。
今この人、とんでもないことを言わなかった……?




