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第3話 はじめてのケーキ作り

 夕方。


 買ってきた材料は、結愛の部屋にあるテーブルいっぱいに並べられていた。


 小麦粉、卵、砂糖、バター。


 さっき買ったイチゴも綺麗に洗われ、白い皿の上に並んでいる。


 俺は椅子に座ったまま、その光景を眺めていた。


 買い物をしている時から思っていたが、こうして全部並べてみると、結構な量だ。


 ケーキ一個作るだけで、よくここまで揃えたもんだ。


 そんなことを考えていると、目の前を結愛が横切った。


 白いエプロンを身につけ、髪を後ろでまとめている。


 買い物中はあれだけ楽しそうにしていたのに、今は別人みたいに真剣な顔をしていた。


 結愛はスマホを横に置き、レシピを確認する。


「よし。始めよ!今日は絶対に成功させるから、奏君もちゃんと協力してね!」


「……俺まで巻き込む気か?」


「当たり前じゃん。材料を買ってくれたのも、荷物を持ってくれたのも奏君なんだから、もう共犯者だよ。」


「いつから俺はケーキ作りの共犯者になったんだよ。」


「今でしょ!」


 結愛は某有名先生のように答えると、俺の前へボウルを置いた。


「はい、助手さん。これ混ぜて。」


「俺は助手じゃねえ。」


「じゃあ……彼氏さん?」


「……まあ。」


 俺の手が止まる。


 結愛は俺の顔を覗き込んで、口元を緩めた。


「どうしたの?」


「……お前、そういうの急に言うな。」


「だって彼氏さんでしょ?」


「そうだけどな……」


「ふふっ。」


 結愛は楽しそうに笑いながら、俺の前に泡立て器を置いた。


「じゃあ彼氏さん。これ、お願いします。」


「結局やらせるのかよ。」


「うん。彼氏さんだから。」


「便利な言葉だな、それ。」


 俺は文句を言いながら泡立て器を握った。


 ボウルの中には卵と砂糖が入っている。


 見たところ、ただの黄色い液体だ。


「これ、どのくらい混ぜるんだ?」


「うーんとね。白っぽくなって、ふわっとするまで。」


「ずいぶん曖昧だな。」


「大丈夫。私が見てるから。」


 結愛は俺の隣へ回り込み、ボウルを覗き込んだ。


 泡立て器を動かすたび、卵がボウルの中で跳ねる。


「奏君、もうちょっと速く。そうそう、そのくらい。」


「こうか?」


「うん。いい感じ……あ、ちょっと飛んだ。」


「先に言え。」


「ごめん。でも顔には付いてないよ。」


「そこじゃねえ。」


 結愛が吹き出す。


 俺は眉を寄せたまま手を動かし続けた。


 しばらくして、結愛が俺の手元を覗き込む。


「うん。だいぶいい感じになってきたね!」


「そうか。」


「奏君、意外と上手だね。」


「お前が指示してるだけだろ。」


「じゃあ私が教えたってこと?」


「そういうことにしといてやる。」


「なにそれ。」


 結愛は笑いながら、俺の腕に軽く肩をぶつけた。


「でも、ありがと。」


「……礼を言うほどのことじゃねえよ。」


「私にとっては大事なの。」


 その一言だけは、妙に真っ直ぐだった。


 俺は返事をせず、泡立て器を動かした。


 だが、口元だけは少し緩んでいた。


 結愛はそれに気づいたのか、何も言わずに笑っていた。


 やがて生地が完成し、結愛が俺からボウルを受け取る。


「ありがとう。あとは私がやるね。」


「任せて大丈夫か?」


「大丈夫。……たぶん。」


「今、たぶんって言ったな。」


「言ってないよ?」


「言っただろ。」


「気のせい。」


「都合よく聞こえなくなる耳だな。」


 結愛は笑いながら小麦粉を加えていく。


 その横顔を眺めていると、買い物中に見せていた表情とはまた違って見えた。


 好きなことをしている時の結愛は、本当に楽しそうだった。


 計量器の数字を何度も確認して、粉を入れるたびに首を傾げる。


 失敗しないように慎重に作業しているくせに、時々鼻歌まで歌っている。


「……そんなに楽しいか?」


「うん。」


 結愛は手を止めずに答えた。


「だって、いつか自分のお店を出したいから。」


「まだその夢、諦めてねえんだな。」


「諦める理由がないもん。」


 結愛は木べらを動かしながら、こちらを見る。


「なんなら、もう店の名前も帰る時に考えたんだ。」


「名前まで?」


「もちろん。」


「なんて名前だ?」


 結愛は少し考えるように首を傾げた。


「それはまだ秘密。」


「なんだそりゃ。」


「完成してから教える。」


「店の名前に完成も何もねえだろ。」


「いいの。夢はそういうものだから。」


 そう言って、結愛は笑った。


 俺はそれ以上聞かなかった。


 ただ、いつか本当にその店ができたら、どんな場所になるんだろうと考えていた。


 オーブンへ生地を入れ、扉を閉める。


 タイマーをセットすると、結愛は俺の隣へ腰を下ろした。


「これで、あとは待つだけ。」


「やっと終わったか。」


「まだ終わってないよ。クリームも作るし、イチゴも切らないと。」


「……まだあるのか。」


「もちろん。」


「帰るぞ。」


「ダメ。」


 結愛は俺の袖を掴んだ。


「最後まで付き合って。」


「俺はケーキ食いに来たんじゃねえのか?」


「今日は助手。」


「さっきも聞いたぞ、それ。」


「じゃあ彼氏さん。」


「それもやめろ。」


「なんで?」


 結愛が笑いながら顔を近づけてくる。


「恥ずかしい?」


「……近い。」


「え?」


「近いって言ってんだよ。」


 俺が少し身体を引くと、結愛は一瞬きょとんとした。


 そして、何かに気づいたように笑う。


「奏君、照れてる?」


「照れてねえ。」


「耳、赤いよ。」


「部屋が暑いだけだ。」


「まだエアコンつけてないけど?」


「……。」


 結愛は声を上げて笑った。


「もう、奏君って本当に分かりやすいね。」


「うるせえ。」


 俺は顔を逸らして、テーブルの上に置かれたイチゴを見る。


 その瞬間、横から結愛の声が飛んできた。


「……食べたい?」


「いや。」


「顔に書いてあるよ。」


「書いてねえ。」


「じゃあ一個だけ。」


 結愛は皿からイチゴを一つ取ると、俺の前へ差し出した。


「ほら。」


「……」


「食べないの?」


「お前が食わせようとしてるのが気に入らねえ。」


「じゃあ、いらない?」


「……食う。」


「ふふっ。」


 俺がイチゴを受け取ろうとすると、結愛は手を引いた。


「え?」


「やっぱり、あーんにしようかな。」


「おい。」


「だって彼氏さんだし。」


「その呼び方、気に入ったのか?」


「うん。」


「……ったく。」


 結愛がイチゴを持ったまま、楽しそうに俺を見る。


 俺はしばらく黙っていたが、結局その手からイチゴを取った。


「自分で食える。」


「あーあ。」


「何がだ。」


「ちょっと期待してたのに。」


「何をだよ。」


「秘密。」


 結愛は笑って、残ったイチゴを皿へ戻した。


 俺は口に入れたイチゴを噛みながら、視線を逸らす。


 甘い。


 ……まあ、悪くない。


 そんなことを考えていると、結愛がこちらを見ていた。


「どう?」


「普通。」


「嘘。美味しいんでしょ?」


「……まあな。」


「やっぱり!」


 結愛が嬉しそうに笑う。


 その笑顔を見ていると、さっきまでの疲れがどうでもよくなってくる。


 仕事でも、抗争でもない。


 こういう時間があることを、俺はいつの間にか当たり前だと思い始めていた。


 オーブンの中では、スポンジが少しずつ膨らんでいる。


 結愛は立ち上がり、ガラス越しにそれを覗き込んだ。


「ちゃんと膨らむかな。」


「さっきからそればっかだな。」


「だって初めてなんだもん。」


「失敗したら?」


「もう一回作る。」


「諦めねえんだな。」


「うん。」


 結愛はオーブンから目を離さない。


「いつかお店を出すなら、これくらいで諦めてられないから。」


「……そうか。」


 俺は椅子から立ち上がり、結愛の隣へ並んだ。


 ガラス越しに、少しずつ膨らんでいくスポンジを見る。


「じゃあ、成功するまで付き合ってやるよ。」


「本当?」


「今日だけな。」


「じゃあ、明日は?」


「調子に乗るな。」


「ふふっ。」


 結愛が笑う。


 俺はそんな結愛を横目に見て、またオーブンへ視線を戻した。


 焼き上がるまで、まだ時間はある。


 それでも――今日は帰る気にはならなかった。

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