16話 隣の汗ダルマに励まされる
昼休みが終わる直前の中庭は、人の気配がなかった。いつもは生徒達の声が賑やかな場所だが、今は風の音しかない。俺は校舎の渡り廊下から中庭を見つめた。
予鈴の鳴る前の、息を潜めたような静けさの中――校舎の影で、月城さんと桐島先輩が向かい合って立っていた。
近づくと、二人の会話が断片的に聞こえてくる。桐島先輩は語気を強めてなにか言っている。月城さんはただ小さく首を横に振っていた。
「やめて下さい……」
「いいじゃん? 彼氏いないんだろ? だったら付き合おうよ」
月城さんは今にも泣き出しそうな顔で、唇を噛みしめている。指先が白くなるほどスカートの裾を握りしめ、恐怖と必死さの入り混じったような瞳で桐島先輩を見上げていた。
見ていて辛くなる光景だった。俺は我慢できなくなって二人の元へ歩み出す。
「ごめんなさい。私、好きな人がいるので、先輩とは付き合えません」
ふいに耳に入ってきた月城さんの言葉が俺の歩みを止めた。周りの音が消え、頭の中が真っ白になる。
――好きな人、がいる。
分かっていた。彼女が誰かの告白を断るとき、決まってそう言うと……。駿が以前、教えてくれた。
頭では理解しようとしていたけど……あらためて彼女の口から聞くと、まるで世界に一人だけ取り残されたように孤独を感じる。
月城さんの告白を断ったあの日から彼女がなにを想い、どのように過ごしてきたのかを俺は知らない。その時間の中で、彼女が他の誰かを好きになるのは自然なことだ。
俺は彼女の勇気を拒絶した。それが正しいと信じていた。でも、今になって思う――あれは、ただ怖かっただけだ。月城さんが傷つかないようにって言い訳して、自分を騙したんだ。
その結果がこれだ。
彼女が悲しそうな顔をしていても、俺にはなにもできない。彼女と一緒に過ごせた未来を――自分で捨てたんだから。
……そんな俺に月城さんを助ける資格なんてない。
そう思って、目を逸らそうとしたした瞬間――。
「……僕は……嫌だよ」
頭の中で声が聞こえた。
「また彼女を突き放すの? なんの為に今まで努力したの? また笑って月城さんの隣に立つ為じゃなかったの?」
その声は汗ダルマのときの、弱くて、カッコ悪くて、いつも惨めな思いをしていた俺だった。
「でも……月城さんには好きな人がいるんだ……今さら俺が助けになんて行けないよ……」
「なに言ってるだイケメンの僕! 彼女を見てごらん?」
月城さんを見ると、身体が小刻みに震えて、瞳の端には大粒の涙が溜まっていた。
「僕はもう彼女に泣いて欲しくなんかない。たとえ好きな人がいようとも、月城さんには笑っていて欲しい。君はどう思う?」
真っ黒だった感情に色が戻っていく。月城さんが泣きそうになるぐらい困っている。そうだ……俺も彼女に笑っていて欲しい。それだけだ。助ける理由なんて、それだけでいいじゃないか――。
気づいたときには、拳を握りしめていた。月城さんの肩が小さく震えている。怒鳴られて、怯えて、それでも必死に我慢している。
あのとき、図書室で一人だった俺を救ってくれたみたいに――今度は俺が、月城さんを助けたい。
「は? 俺、振られた? お前マジで言ってんの?」
桐島先輩の目が血走っていた。
「なんで俺じゃダメなんだよ!」
そう叫びながら、勢いよく月城さんとの距離を詰めようとして、俺が二人の間に割って入った。
「止まれ」
自分でも驚くほど落ち着いていた。
桐島先輩が驚いて、月城さんへの歩みを止める。
「ひっ!? だ、だれお前!?」
桐島先輩の声は荒く、息が熱を帯びていた。けれど、その熱は百八〇センチの筋肉質な俺の姿を見た途端、急速に冷えていくように感じた。
「月城さんのクラスメイトです」
「じゃ、邪魔すんなよ。お前には関係ねぇだろ」
「関係あります。……彼女が、嫌がってる」
月城さんが俺の背後に隠れるよう寄り添って、ブレザーの裾を引っ張った。一瞬だけドキっとしたが、俺は桐島先輩から視線をはずさない。
「はっ……はは。こんなブスのためにかっこつけて、バカじゃねぇの?」
俺の中でなにかがプツンと音を立てて切れた。こいつだけは絶対に許せない。後から駿に聞いた話だが、このときの俺はまさに鬼の形相だったらしい。
「お前! 目ぇ腐ってんのか! 月城さんは! あんなに可愛いだろうがああああ!」
俺の発した叫びが校舎で囲まれた中庭に響いた。中庭の木に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立ち、校舎の方からはざわめきが聞こえた。
「え、なに?」
「誰か叫んでる?」
窓から生徒たちが顔を出す。
月城さんは涙を拭って、ぽかんと俺を見上げていた。その頬が、真っ赤に染まっている。
……しまった。やりすぎた。怒鳴った本人が一番動揺していた。
桐島先輩は顔を引きつらせて俺のことを睨みつけたが、周囲の視線に気づいたのか、舌打ちして背を向けた。
「……関わってらんねぇ」
そう言い捨てて、校舎の中へ去っていく。
残されたのは俺と、呆然とする月城さんだけ。膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。
は、恥ずかしい。――なにやってんだ、俺。
「翼――!」
屋上から駆け下りてきた駿と高瀬が、息を切らしてやってくる。駿が俺の肩を掴み、満面の笑みを浮かべた。
「かっこよかったぜー! お前が告白してるのかと思ったよ!」
「そ、そんなわけあるか!」
「いや、マジで。学校中のみんなが聞いてたぞ? “月城さん可愛いだろうが!”って!」
「やめろぉぉ!」
顔を覆ってうずくまる俺の横で、駿は腹を抱えて笑っている。
一方、高瀬はまっすぐ月城さんのもとへ駆け寄った。
「麗、大丈夫だった?」
「うん……神崎くんが、助けてくれたの」
「てか、翼速すぎ。屋上で“麗が困ってるっぽい”って言った瞬間、飛び出してったからね」
月城さんは目を伏せ、頬にかかった髪を耳にかける。
「神崎君……ありがとう」
その声は、震えていたけど――確かに笑っていた。
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