第七章 塩の剣(3)
娼館の二階に通されたヴィユーニは、一人の娼婦に迎えられた。
「カルと申しますわ。貴方のお名前をお伺いしてもよろしいかしら?」
「ヴィユーニだ。刃とは物騒な名だな」
「よく言われますわ」
女は広い台の上に腰を下ろしている。ヴィユーニは靴を脱いでそこに上がる素振りを見せず、女が淹れた茶にも手を付けない。
「何を探していらっしゃるの?」
「先ほどまでここに銀髪の少年がいなかったか?」
「いいえ、あれは女の子よ。もしかしてそっちの方が良かったのかしら?」
「そういうわけではない」
女は大きく胸元が肌蹴た服を着ているが、豊満なペイルローン女と違って胸の膨らみが心もとない。そのせいか、女が少し動くと服の間から淡い桃色が覗き見える。
この女より美人は山ほどいるだろうが、この者に優る瑞々しさを備えた女はそうはいまい――とヴィユーニが思った時には既に、女は男の腕に抱きついていた。
「南人さん、濁り酒は飲めるかしら?」
「あれを飲むと悪酔いするんだ」
「そうは言わずに、飲んでみなさいな」
女はヴィユーニの口に杯を当ててきたが、男は口につける前に顔をしかめた。
「凄い臭いがするぞ。杯が腐っているのではないか?」
「あら、ごめんなさい。注ぎなおさないと――」
「ナバラ産の葡萄酒でいい。銀の杯にでも入れてくれ」
ヴィユーニは茶器に混じって置かれている杯を見回したが、クーン人の好む銀製のものは見当たらない。
「葡萄酒は切らしてるのよ。後で童に持ってこさせるわ。だから……ね?」
そう言って、女は寝台の上にヴィユーニを引きずり込んだ。
ヴィユーニという男には浮いた噂がほとんど無いが、彼に抱かれた女は皆、その広い胸の中に双天を見るという。双天とはボリアだけにある言葉である。ヴィユーニの原風景とも言える上空の晴天と塩湖に映ったもう一つの天空は、ただひたすら壮大で、見るものを抱き込むように世界が広がってゆく。
ヴィユーニに抱かれることは、あらゆる女にとって歓喜以外の何ものでもない。これはヴィユーニの自惚れではなく、実際に女たちが言うのだから、彼も言われた通りに信じるしかない。
だが、今、ヴィユーニの腕の中で喘いでいる女は違った。
(空洞だ。この女には何もない)
不思議な気分だった。この女の心は、ヴィユーニという男をいとも容易くすり抜け、他の何処かへと飛んでいる。その先は男には窺い知ることのできない領域である。
今ヴィユーニに抱かれているのがボリアの少女イーリであったならば、女は歓喜に身を震わせ、波打つ体に己の魂を預けるであろう。だが、カルと名乗るこの女はひたすらに虚しく、ヴィユーニの向こうに突き抜ける。
「クーン女は怖いというが、あれは嘘だったか」
胸の内に女の肩を抱きながら、ヴィユーニが言った。今でもまだ、この女を抱いたという実感が無い。童貞を捨てた頃を思い出したが、その時の恍惚とは全く異なる。
「いいえ、本当ですわよ。クーンの女は男より勇ましいもの」
女の頬にかかった髪が、汗で肌に吸い付いた。
「クーンでは匙も武器になるという。女も匙で槍を投げるか?」
「あら、そういう話も聞いたことがあるわね。誰だったかしら?」
女は茶器の横においてあった鈴を鳴らすと、部屋の外で控えていた童僕が顔を出した。
「葡萄酒を頂戴な。上物でお願いね?」
目配せをされた童僕は無言で退室した。
(どこかルーンのようだ……)
ヴィユーニは一度剣を合わせたきりの女のことを思い出した。ルーンと今目の前にいるカルのどちらが美人かと言われれば、その溌剌とした姿を知っているルーンの方に軍配が上がるだろう。体型もルーンの方がヴィユーニの好みだが、カルにはルーンに無い初々しさがある。この女はまるで恋を知らぬ乙女のようでもある。
童僕が酒を持ってくると、カルはそれを杯に注いだ。
「それには注ぐなと言っただろう。木が腐っているぞ」
そう言ってヴィユーニが杯を持った手をつかむと、女は少しだけ身を震わせた。
「……ヌゥ、私に勇気を――」
「今、何か言ったか?」
カルが何かぽつりと呟くのをヴィユーニは訝ったが、女は聞こえぬように酒瓶に口をつけた。
「おいおい……」
頬一杯に葡萄酒を含んだ女は、そのままヴィユーニを押し倒し、馬乗りになった。
「若い女は元気がいいな」
ヴィユーニが布を抱くように羽織った女の膨らみに手を滑り込ませると、女はそのまま男に口づけ、葡萄酒を注ぎ込んだ。
瞬間、口の中に強烈な酸味が弾けると同時に、窓の外の月が雲間から顔を出した。女の股にかかった布を取り去ろうとすると、その一部が赤く染みついているのを見た。
(生娘だ。何故、娼館に生娘がいる?)
(それよりこの酸味はおかしい。酒の味ではない)
(クーンの店には何処にでも銀の食器が置いてある。何故、ここにだけ無い?)
(ヌゥとは何だ? 何処かで聞いた気が――)
(銀は腐食するからな。王室では毒を見分けるために使うそうだが――)
(……毒だ!)
瞬きする間にあらゆる想念が弾けた。ほとんど同時に、ヴィユーニは女を突き飛ばしていた。
喉の奥から強烈な吐き気を催すと同時に、それすらも遅すぎるとでも言わんばかりに、ヴィユーニは喉に指を突っ込み、無理矢理に嘔吐した。凄まじい頭痛に襲われ、体が平衡を保てない。
「……剣士団か?」
女は体を痙攣させながら、仰向けに倒れていた。どうやら突き飛ばされた拍子に自らも毒を飲んでしまったらしい。
「おい、吐け! 今すぐ吐け!」
女の口に指を入れた途端、鋭い痛みに襲われた。女が渾身の力をこめて噛んできたからだ。最初、それは毒を飲んだせいかと思ったが、女が狂気に満ちた目で自分を睨めつけてくるのを見た時、ヴィユーニは初めてこの女が死兵であることを理解した。
ヴィユーニは知る由もない。女が何故、彼を憎悪するに至ったのかを――
そう、知る由もないのだ。彼女にとってヴィユーニは最愛の男を殺した悪魔であることを。女が復讐のために剣士団を訪れ、カルカラに女兵の策を献上したことを。
「うおぉ! おおおっ!」
とても女とは思えない怪力から逃れようと、ヴィユーニは女の頭を鷲づかみにし、何度も振りほどこうとした。ついにそれから開放された時、ヴィユーニの右の人差し指は切断寸前まで噛み切られていた。へし折れた女の前歯が、まるで穿たれた刃のように深く食い込んでいた。
(何という女だ。これが竜に乗るということか)
ヴィユーニは服に手をかけ、辛うじて身につけた。既に息をしなくなっていた女の蘇生を試みたが、それは叶わなかった。
娼婦カルは、もう二度と動かなかった。
(これで終わりではあるまい)
布を引き裂き、指の止血をしたヴィユーニは千切れかけてぶらりと垂れたそれを見て何とも言えない気分になった。剣士団が自分の命を狙っているとすれば、この娼館全てが敵と思ったほうが良い。その証拠に、階下に人が集まる音が聞こえる。
(五人、いや十人はいる)
無意識に強さの込められた足取り。鎧を付け、剣を帯びている証拠だ。
さすがのヴィユーニといえども、今踏み込まれるとたまったものではない。何せ口に含んだだけとはいえ、毒を盛られたのである。喉からはかすれた声しか出ず、体がほとんど言うことをきかない。頭の後ろの部分に酷い寒気を感じ、嘔気を耐えるのがやっとである。
(奔るか)
即決。逃げの一手以外に何も思いつかない。ヴィユーニは窓に足をかけると、最後の情けとでもいうように娼婦の死体を一瞥し、跳んだ。




