第四章 狂剣乱舞(8)
「フゥッ! フッ――!」
乱れたルーンの息を攫うようにして風が吹いた。ほんの一分ほどの戦いだったが、尋常ではない体力を消耗するほどの動きをこの女は見せたのだ。
「女だてらに見上げたものだが、今度から一人で出歩くのは考え直した方がいい」
対するヴィユーニの呼吸は全く乱れていない。
(いい女だ……)
鎖骨の窪みで玉になった汗を見た時、ヴィユーニは思わずこの女の肌に口づけたくなった。ボリアの女は太陽に愛されたような褐色の肌をしていて、胸が躍るような弾力に愛情を禁じ得ないが、クーン女の白く儚げな肌は神聖な輝きを秘めているようで、触れれば破れてしまいそうな愛おしさがある。
気付けばルーンのふくよかな胸元まで顔を近づけていた。汗の臭いが鼻の中に広がり、それが草の匂いに混じって狂おしいほどの熱気を呼び起こした。
女の肌に触れようとしていた唇がぴたりと止まった。
ルーンが何かを呟いている。
女の息が更に乱れる。既に戦いが終わり、呼吸が整うことがあってもその逆はないだろう。あるいはこの女はヴィユーニという男に恐怖しているのだろうか。
「――ッ!」
ヴィユーニが思わず右手に持った短刀でルーンの首を掻っ切ろうとしたのは、既に敗北し、押し倒されたはずの女から凄まじい殺気と怒気が放たれたからだった。
鮮血が刃を濡らすはずであった。だが、それは起こらない。短刀の刃が小刻みに震える。
――あれは闇の中で豹変する。
カエーナは確かにそう言った。それがどういう意味なのか、ヴィユーニは深く考えなかったが、自分の右手を掴み、一切の自由を奪っている怪力を目の当たりにすると、妄言であると切り捨てることは愚かである。
「おっ……おっ……おおっ――!」
短刀を握った右手の拳が無理矢理こじ開けられるなど、ヴィユーニの人生において初めての体験である。
恐ろしい予感とともに全ての優勢を放棄して後方に跳び退ったのは確実に正しい判断だったが、ヴィユーニは腹に強烈な衝撃を覚えると同時に驚嘆せざるを得なかった。
眼前に自分を蹴り飛ばしたはずのルーンの顔があった。
(迅ッ――)
そう思った時には無意識に長剣で防御を行っていた。ルーンの上段からの斬りおろしを受けた時、雷に打たれたような衝撃を覚えた。
(重い!)
まるでカエーナの鉄槌が如き一撃である。とても女の力とは思えない。
更に、迅い。
ルーンの軽やかさ、ココの柔軟さ、そしてカエーナの力強さの全てが今のルーンにはある。その上野獣の如き凶暴な形相を見た時、ヴィユーニはこの女の正気を疑った。
「狂ったか!」
何がどうなれば人がこれほど豹変するのだろう――などという問いを発している暇はない。ルーンの連続の打ち込みは全てが必殺の域にあり、防戦一方のヴィユーニは手の痺れと共に自分でも信じられぬ焦りを感じ始めていた。
人間離れしているといえば、とても剣術を学んだ者とは思えないルーンの変則的な斬撃を防御し、紙一重で躱すヴィユーニの方こそそうだろう。斬り払いかと思えば剣は上から襲いかかり、突きかと思えばカエーナのように筋肉が悲鳴を上げるような強引な切り返しを行う。だが、それらの全てをヴィユーニは感知し、カエーナの落竜覇を躱した時のような――曲芸ともいえる身のこなしでやり過ごすのだ。
「があぁ!」
獣声にも似た叫びとともに跳躍し、襲い掛かる。ヴィユーニは先程と同じように短刀を投擲し、ルーンの動きを封じようとした。
(化け物か?)
信じられぬ光景を目にした。これまで多くの血を吸った自慢の長剣が、両断されたのだ。投げ放った短刀はどこにいったのか――それはルーンの顔を見た途端にわかった。布石であったとはいえ飛矢のように殺意のこめられた凶器を、女は歯で噛み止めていたのだ。
賞賛の言葉が思い浮かばない――というのはヴィユーニの感覚がずれているからだろうか。今の彼にはその余裕はないはずだった。だが、背なの皮膚が痺れ、それが全身に広がる感覚はあまりにも心地よく、ヴィユーニという人間を支配しつつあった。
ヴィユーニは折られた剣の断面をルーンの剣身に合わせ、渾身の力をこめて押した。これだけで今のルーンと比較に足る曲芸だったが、彼女もまたその勢いを利用して後方に跳び、宙返りをして見せた。
ルーンが反撃に出てから何秒経ったか、ヴィユーニにはわからない。恐らく十秒と経っていないのではないか。だが、それは先のココやカエーナとの対峙とは比較にならぬほどに濃密な時間であった。
(来い、凶剣! 俺の奥義を見せてやろう!)
ルーンの着地と共に渾身の一撃が来る。それを予感したヴィユーニは、剣を両手で持ち、脇の下で抱えるように構えた。純然たる突きの構えである。
空中にふわりと浮いたルーンの体が回転しつつ、その左足が地面に触れた刹那、猛獣が如き塊は凄まじい勢いで弾けた。
空を断つ速度で突きが繰り出された――が、それは女の体に至る遥か手前で伸び切り、ルーンの突き出した剣先に触れた。
「すぅ――!」
周囲の空気を全て取り込むかのように、ヴィユーニは大きく息を吸いながら、剣を手元に引いた。ルーンの凶暴な突きはまるでそれに誘われるように折れた剣先に吸いついた。剣を引き寄せながら大きく屈伸し、まるでぎりぎりまで引き絞った弓のようにピタリと止まった。それでもルーンの勢いは死なない。瞬時に剣を寝かせ、ヴィユーニの胴を両断するために斬り払う。
「こぉっ!」
短く息を吐き出すとともに、ヴィユーニは旋回した。新たに生じたルーンの勢いを利用するようにして、まるで刃の上で器用に回る独楽のように回転すると、そのままの勢いで剣の柄でもってルーンの脇腹を激しく突いた。
驚嘆すべきは、神業を見せたヴィユーニではなく、己の力を利用されて打たれたにも関わらず防御を行ったルーンに対してだろう。
(いつ、剣を引いた?)
ヴィユーニにはルーンの動きが見えなかった。次の瞬間、視界が揺れた。渾身の石突きで叩き飛ばされる間際、ルーンが右足で頭部を蹴り飛ばしたのだ。
(反撃するか、この体勢で!)
ヴィユーニが更に強く踏み込んだのは、危機感によるものだったとしか言いようがない。ここで体勢を立て直す暇を与えたら、この女は次の瞬間に何をしでかすかわからない。
そしてこの凶暴な女は、またもや防御を行ったのである。一呼吸――あるいは半呼吸程度の有利が彼女にあったならば、勝負がどのように展開したのかは神のみぞ知る領域だが、ヴィユーニは己の勝利を神に確約することができなかっただろう。
大きな左拳がルーンの細い肋骨を砕こうと襲い掛かる瞬間、ルーンは脇を絞め、右腕で防御を行った。骨がへし折れる音と共に、ルーンは五歩向こうに叩き飛ばされた。
(深いぞ、今のは!)
この戦いにおいて初めて感じた手応えに満足しつつあった自分を、ヴィユーニは途端に戒めねばならなかった。相手は叩き飛ばされた先で気絶などしてはくれなかった。
すぐさま立ち上がったルーンは、ありったけの憎悪をぶつけるようにヴィユーニに向き直った。
この時点でヴィユーニはルーンの闘争心に疑問を持っていた。何が彼女をここまで駆り立てるのか。最初はただの力比べだっただろう。だが、勝負の途中で女は豹変した。
(やめよう……)
そう思ったのは、ルーンが酷く咳き込み、嘔吐するのを見たからだ。右腕は確実に折れており、未だに辛抱強く剣を握っているものの、腕を上げることは叶わない。左足の義足を支える大腿は無理な跳躍で膝ががくがくと震え、闘志のみは激しくとも体全体が悲鳴を上げている。
ルーンにはもう戦う体力など残っていない。それにこの女が死ねば名ばかりの勝利を献上するという彼女との約束を違えることになる。
「ルーン。昨夜はお前が飼っているロマヌゥという男に世話になった。今日は母の命日なのだそうだ。この日に弔う者は一人で十分だと言っていた」
刹那、全身が粟立った。
(何だ……今のは?)
ルーンの目である。殺気――いや、そうではない。獣が如き剣士の瞳に宿るのは、予知にも似たある種の信仰である。
即ち、勝利の確信。
(まだ、あるのか?)
ヴィユーニは凶剣ルーンの限界を見た。そのはずだった。だが彼女から放たれる狂気が、その先の何かを暗示していた。
胸の内に湧いてきた感情を、ヴィユーニは自分で飲み込みきれなかった。期待、あるいは歓喜がそれに近いのかもしれない。
「……来い!」
ヴィユーニの誘いに乗るように、火鉢の中で墨が弾けるような音と共に、ルーンはヴィユーニに向かって突貫した。
何かが起こる。その先にあるのは何であろう。
須臾の間に、剣士二人の目が合う。次の瞬間には、この女の企みが全て露わになるであろう。その全てを打ち砕かんと――
「……おい、待て」
ヴィユーニが呆けたような声を上げた時には、全てが決していた。あらゆる飛矢より鋭い跳躍を見せるはずのルーンは、まるで吸い寄せられるように地面に倒れ込んだ。
へし折れた義足の欠片がヴィユーニの頬を叩いた。あまりの激闘に、ルーンの体よりも義足の方が耐えられなかったのである。
決着である。確かに、今のルーンの人間離れした怪力を考えれば、この女は片足で騎竜顔負けの跳躍をしかねない凄みがある。だが、その先がなければヴィユーニの敵ではない。
「お前、一体何をするつもりだった?」
自ら口をついて出た言葉に、自分自身、少し驚いていた。先程予感した先の未来には、確かに自分の知らぬ世界があったはずである。それが叶わないことに対する――まるで童子のような落胆を、ヴィユーニは必死に振り払った。
ヴィユーニの呼びかけに呼応したように、ルーンの目からふっ――と殺気が消え、まるで全てを投げ出すように仰向けに寝返った。
「ロマヌゥとは……聞かぬ名だ」
ルーンの声から彼女が正気に戻ったと思ったヴィユーニは、女に歩み寄り、顔を覗きこんだ。
と、その時――草の間から剣が立ちあがり、ヴィユーニの胸先で止まった。よく見ると、ルーンは右脇で抱くように剣を挟んでいる。
「私の勝ちだな?」
ヴィユーニは思わず笑い出しそうになった。とんだ不意打ちである。
「まあ、剣を折られちまったら仕方ない。俺の負けでいい」
そう言って、ヴィユーニは折られた剣を地面に放った。
「どうだった?」
「何がだ?」
「私は強かったか?」
「まあまあだな。カエーナが恐れ入るだけのことはある」
ルーンの唇がぷっ――と弾けた。吐瀉物のついた口元がてらてらと光った。
「覚えていないのか?」
「覚えているさ。全部覚えている。恐ろしい熱気の中に酷く醒めた自分がいる。クーン女が嫌われる所以だよ」
クーン女の激情についてはヴィユーニも何度か耳にしたことがある。だが、先程のルーンには激情という言葉では済まされない狂気があった。
「さあ、行くがいい。もうじき部下が私を探しに来る。敗者は疾く去れ」
私は少し休む――と付け足して、ルーンは大きく深呼吸した。打ち伏せたばかりの女を放置して去るのを躊躇わなくもなかったが、ルーンとの約束を反故にしては意味がない。
(もう終わるか――)
カエーナとルーン。剣士団でも最強と目される二人と剣を交わし、勝利したのだ。他にも「剣翁の孫達」はいるが、ココとも戦ったヴィユーニとしては、これ以上得るものは何もないように感じられた。ルーンとの戦いの最後に残った慙愧の念は、今は忘れることにした。
ヴィユーニは無言で背を向け、その場から去った。途中、ヴェムとロローイの姿を探したが、見つからなかった。丘を下りたところで自分の乗ってきた竜が放置されていたのを見て、ヴィユーニは二人が今頃ルーンを保護しているのだろうと思った。
王都に戻ったヴィユーニは旅装を整え、南に向けて発った。




