その名は鈴木一朗
通された部屋の奥にあるデスクには、髪を七三に分けた如何にも地位が高そうな中高歳の男性が座っていた。
「担当の吉田です。先ずはそちらの椅子にお座り下さい」
吉田と名乗った男性に勧められるまま、無精髭の男はそのデスクの前にある応接セットのソファーに腰かけた。柔らか過ぎて逆に座りにくいソファーだった。深く座って寛ぐにはいいが、話をするには適してないと男は思った。30代に入ってすぐギックリ腰をやっているので、柔らかい椅子より適度な固さで背もたれに触れる状態で座れるものが好きだった。この応接セットでそれをやれば、貴乃花親方のようにふんぞり返ってしまうだろう。
「先ずはお名前を確認させて頂きたいのですが、身分を証明出来るような物を現在お持ちでしょうか?」
やっぱりそう来たか!と思った男はズボンの後ろポケットから財布を取り出し、中身を見られないように注意しながら保険証を取り出した。普通身分証と言われたら車の免許証だろうが、男は飲酒運転で取消しを食らい3年まえから免許証を持っていなかった。常習犯であるから今後の再発行はほとんど見込めないし、また自動車学校に通うのも面倒だと取る気など最初からないのだ。
中身は千円札が一枚と硬貨が数枚だけだった。見られてバカにされないかとヒヤヒヤしながら素早く財布をポケットに戻すと、ホラよとテーブルの上に取り出した保険証を投げた。3日前に送られて来た5万円などあっという間にパチンコで消え、男は現在一文無しに限りなく近い状態だ。
「鈴木一朗さんで間違いないですね?」
保険証を見た吉田が言う。
「当たり前だ。そう書いてあるだろうが!」
「いちおう確認する事になっておりますので。
生年月日と、ご住所を教えていただけますか?」
「それも書いてある。自分で読めよ!」
「ご本人の口から確認するのがルールなのです。申し訳ありませんがお願いします」
威圧的ではないが有無を言わさぬ雰囲気に、一朗は住所と生年月日をめんどくさそうに口にした。くそっと唾を吐きたくなる気分になったがやめておいた。目の前の吉田という男が持つ何だか怒らすと恐そうな雰囲気に、普段しているような横暴な態度が取れなかったのだ。
「ご本人と確認が出来ましたので、さっそくではありますが鈴木一朗様の今の状況をご説明いたします。これを御覧ください」
そう言って吉田がタブレットPCに映し出された画面を見せた。
ただでさえ見にくい画面に、びっしりと書き込まれた細かな文字を見て読む気が失せた一朗は、それがどうしたと言いたげな顔でチラリと見てすぐに視線を外した。読もうにも眼鏡を所持していないから読む事が出来ない。一朗は老眼なのだ。
「で?」
「お分かりと思いますが、裁判所より鈴木一朗様の財産権の行使差し止め命令が出ております」
「だから?」
「よって当信用金庫といたしましては、停止命令が解除されるまで口座を凍結させていただいております」
「それはさっきもあの若いヤツから聞いた。俺が知りたいのはそんな事じゃなくて、いつから俺の金が使えるようになるのかって事だ。今すぐ金が必要なんだ。困ってるのに使えないってのはおかしいだろ!」
ここだとばかりに拳を振り上げてテーブルに落としダンと派手に音を立てた!・・・つもりだったが、ゴツくて分厚い石で出来たテーブルの天板はペチンと音がしただけで大して揺れもしなかった。あいててててとカッコ悪く自滅した一朗を全く意に返さず、何もなかったように吉田は話を続ける。全く無表情なのが一朗にはかえって怖かった。別にボケをかましたつもりもないが、少しくらいはリアクションしろよ!とそう思った。
「お困りでしたら、代行人の方に連絡を取られてみてはいかがですか?どのような場合でも、ご本人様が生活できぬような事があってはならないと法律で定められております。鈴木様のご意思では使えなくとも、鈴木様のお金である事には変わりないのですから」
「電話しても出ないんだよ!すぐ留守番電話になっちまうんだ!」
「では今からかけてみて下さい」
「何度かけても同じだよ。だから直接お前らにだなぁ」
「この電話機をお使い下さい。番号は分かりますか?」
「覚えてねぇよ。携帯見ないとわからん!」
「教えて下されば私の方から掛けてみましょう」
そう言ってテーブルの上の電話機を自身の前に持って来た吉田は、一朗が携帯を出して番号を読みあげるのを待っている。急かしたりしないが、吉田の持つ雰囲気を前にすると何故か急がねばならないような気分にさせられる。彼は一朗が一番苦手なタイプだった。大声やしかめ面をして不快な態度を示しても全く動揺する様子もなく、ただ淡々と業務をこなして行くマシンのような男。しかし失礼な態度はどこにも見せず、一朗のような人間を前にしても対応はあくまでも丁寧で非の打ち所がない。
「ち、ちょっと待て。いま携帯出すから...」
「はい。お願いします」
「くそ!座ったままだと出て来ないなぁ...」
ズボンの後ろポケットの深い位置にある折り畳み式の携帯は、なかなか思うように出て来ようとしなかった。一朗はぶつぶつ言いながら立ち上がると、取り出した携帯の画面を出して番号を読んだ。
登録してある番号はそれしかないし、履歴を出せばズラリと同じ番号が並んでいる。
一朗には電話を掛け合う友達などいないし、居たとしても一朗から電話することなど今までもほとんどなかった。掛ける時は金を貸してくれと言う時しかないし、着信内容は早く金返せと言う催促の電話ばかりだった。だから昔からの知人達も、彼の番号を着信拒否にしている者も少なくはなく、その携帯番号も解約されてしまっているので今は使えない。
送られて来た携帯電話を使うしかないのだが、一朗は新しい番号になってからまだ誰にも電話をしていなかった。一朗は電話が嫌いだったし、相手の顔を見ないで話すのが苦手だったのだ。
「わたくしは○○信用金庫の吉田と申します。鈴木一朗様の件でお電話させて頂きましたが、担当の方はおられますでしょうか?」
なに!と驚き、一朗は吉田の様子を見た。
自分が何度電話しても出なかった相手が、すんなりと応じた事が信じられなかった。
くそ!馬鹿にしやがって!
そう腹を立て受話器を奪おうとする一朗に、吉田は鋭い眼光で動きを封じた。うっ!とたじろぎ一朗は動けない。お前は喋るなとの強い意志がその眼光には込められていて、自分には何も口出し出来ないと分かった一朗は、ドカリとソファーに腰を降ろすと深く腰掛け話が終わるのをおとなしく待った。電話の向こうが何者かは分からないが、自分が知っている人物でない事くらいは想像できる。たぶん弁護士事務所みたいなところだろうと思った。
その予測が正しい事はすぐに証明された。
吉田は電話を切り一朗を見ると、相手が誰であり、どんな内容の話をしたのかを非常に分かりやすくバカ丁寧に説明してくれた。そして話終るとビジネスフォンのボタンを押して短く指示を出し、当面必要なお金を用意してくれたのだ。
「ここに10万ございます。来月10日までは一切の追加はありませんので計画的にお使い下さい。分かりましたね?」
「ふん。分かったよ。誰のせいでこうなったかもな!」
「余分な事を言うようですが、この機会に今までの自分を振り返ってみてはいかがでしょうか?お母様が遺してくれた大切なお金です。故人の為にも更正し真面目に働く事をわたくしからもお勧め致します」
「ほんと余分な事だ!大きなお世話だよ!
俺の金をどう使おうと俺の勝手だろうが!」
一朗は10万円が入った○○信用金庫の封筒を掴むと、「オメェは俺の親父かよ‼」と捨て台詞を残して部屋をあとにした。向かう先は決まっている。五万をあっという間に飲み込んだハナハナという沖スロに復讐してやるのだ。
「倍にして返して貰うからな!」
揚々と意気込んで東岡崎の駅近くにあるパチンコ店へと向かう。
近々法改正で出玉の制限が厳しくなるらしく、どこのパチンコ店も閑散とした雰囲気を漂わせていたが、年が明けてまだあまり経ってないとあって店内には活気があった。復讐しようとした台は既に客が座っており、出そうな台は全て埋まっている様子だ。
「腐った台しか空いてねぇ。どうする?」
どうする?と言いながらやる気満々の一朗はぐるぐると店内を周り台を探した。そうしている内に目的の台に座っていた男が席を立ったのが見えたので、足早に台に近寄り素早くキープして回転数と当たり回数をチェックしたとき思わず声が出た。
「なんだこの台?馬鹿ハマり台じゃねぇか!」
一朗がハマる前も出ていなかったが、台はその後もひたすら出ていなかったのだ。そんな出ない台をなぜ打つのだろかと思うかも知れない。しかし、ある一定量のコインを飲み込んだ台は、ずっと貯め込んでいた分を一気に爆発的に放出する時があるのだ。
凄い台になると1日に40万円勝つ事もある。
今日までいろいろ規制が加わり、10年前のような超爆発台に出会う事はもう最近ではなかったが、ここまでハマれば当たり出せば連続当たりを引く可能性は大きい。
そう思った一朗は、台にタバコとライターを置いて財布の中に唯一残った1000円札をコインに換え、席を立って封筒から一万円札を取り出し両替をした。10枚の千円札を下のコイン受けの皿に置き、意気揚々とスタートボタンを叩き回し出す。するとどうだろ?わずか3回転で台の上部両側にあるハイビスカスが素早く点灯して大当たりを告げたのだ。
その後もその台はおもしろいように当たりを引き続け、ハイビスカスが光る度に大袈裟に騒いで注目を浴びた。一朗はその日の主役だった。ホールの中で一番目立ち、その子どものような奇声が、負けて気分の悪い客にとってはとてつもない不快感を与えていた。しかし、そんな事など全く気づかずひたすら騒いで、誰も見たくもない笑顔を一朗は永遠に振り撒いた。
「いやぁ、勝った!勝った!こんなに勝ったのは源さん以来だな!最高だぜ!」
「源さん」とは20年近く前に流行ったパチンコ台の事だ。ノンストップで48連チャンした事が今でも忘れられず、刺激を求めてその時に勝った金額の100倍以上の金額を損している。しかし一朗は損した事は忘れてしまい、勝った時だけの思い出が頭の中いっぱいに詰まっていた。
「よう、一朗さん。今日は随分と景気よく出してたじゃないか。あんたデラクソ目立ちまくってたぜ?」
換金所を出たところで三人組の男たちが一朗を待っていた。
声をかけて来た一番デカイ男の名はビクトリー加藤と言い、この辺りでは有名な男だった。嘘か本当かは分からないが、元レスリングの選手で中京大学に通いオリンピックの選手候補として名前が上るほど強かったと言う。確かに体は大きいし喧嘩も強いと聞くが、何年度のオリンピックで有名選手の誰と同じ階級かと聞けば古賀選手とか答えたりする。古賀選手は柔道ではなかったかと思うが、怖くて誰も指摘する人間はいなかった。
加藤はとにかくキレ易く、暴れだすと手のつけられぬ嫌われ者だった。借りた金を返さない一朗とどっこいどっこいの嫌われ者だった。今ここに、近寄りたくない男ナンバーワンとナンバーツーが鉢合わせしたのだ。
「ビクトリー加藤!?あんた隣街に引っ越したんじゃ?」
「引っ越したらこっち来ちゃいけない法律でもあるのか?なぁ一朗さん、あんた俺に借金があったよな?雁首そろえて今この場で返して貰おうじゃねぇか!」
ハイビスカスの花が運の全てを花びらに換え散らしてしまったのだろうか?
一朗はこの後、場所を変えた先で加藤を殺してしまったのだ。
なぜこんな事にと心の中で叫びながら一朗は駆け、何処をどう走ったか、どれくらい走ったかも分からぬままひたすらに逃げた。たぶん川の方角に走り、堤防を越え少し走った辺りで激しく心臓が痛くなって意識を失った。
そして再び目を覚ましたとき、一朗の目の前にはお尻があった。女のお尻だったと思うが記憶は曖昧でよく覚えていない。なぜなら一朗は、目覚めてすぐ一言も言葉を発する間もなく鈍器のような硬い物で後頭部をボカボカと三回ほど殴られ、うっ!と唸ると再び意識を失ったのだから...