昼下がりの出来事
ドカンと大きな音がして、そこに居た人達の視線が集まった先には扉があった。なんの変哲もない扉だが、その向こう側にある部屋の中を見た者は意外に少ない。最近ではほとんどの利用者は店頭に設置されたATM(automated teller machine)を使うので、受付を通して現金の預け入れや引き出しを行うのは、機械に対し無条件に恐怖心や苦手意識を持つお年寄りか、会社関係者で高額を扱う者がほとんどだった。
先ほど大きな音がして注目を集めた部屋の扉には、『応接室』の文字と「住宅ローン取り扱い相談室」の印刷文字と、手書きのイラストが描かれた紙が貼ってある。たぶん女子行員が書いたのであろうが、お世辞にも上手いとは言えぬイラストで、家とお父さんお母さんに子供と犬の絵が描かれていた。ただし絵はかなり古いものだから、今年が戌年であることとは何の関係もなさそうだ。
ドカン、ドカン、ドカン
今度は先程よりも大きな音が連続して起こる。
なんの変哲もない扉の向こうでは何が起きているのだろうか?
ここは愛知県岡崎市にある地方信用金庫出張所の待合室だ。この昼下がりの時間帯は普段あまり客がいないのが当たり前で、毎日淡々とした日常業務で1日が終わるような小さな出張所だった。だが、明日から大型連休明けで仕事初めに入る事もあり、若干ではあるが客足も多く、万年人手不足の所内は高齢者を中心に預け入れた現金を下ろしに来た客で混雑していた。
「なんだてめえら!俺の金が下ろせねーたあどういう事だ!?舐めてんのかオイ!!」
扉越しに聞こえてきた男の声は、その口調からも分かる通り普通の善良市民が使う言葉使いからかけ離れた雰囲気があった。宥める所員達の声も聞こえては来るが、内容がはっきり聞こえるほど大きな声ではなかった。
「おう、おう、どうなんだよ!はっきり言ってみやがれ!」
応接室から漏れた声が待合室にまで大きく響く。
パリンと音がしドタドタと数人が動き回る気配のあと、バンと扉が乱暴に開かれ、大きな声で騒いでいた男が姿を現した。ヨレヨレのポロシャツに濃い緑色のジャケットを羽織り、アイロンがけの線など全くないスラックスを履いて、冬だと言うのに年期の入ったサンダルを裸足で履いていた。かかとを引き摺るように歩きながら出て来た男は、声とは反し小柄で覇気のない薄汚れた中年男だった。
白髪混じりの短く切った髪型の下にある額に深い皺を寄せ、しかめた眼には怒りの炎が揺れていたが、小柄な体に貧相な筋肉では全く迫力というモノに欠けていた。派手な音を立てて応接室の扉が開かれた瞬間はビクッと体を縮めた来客たちも、男の容姿と情けない姿を見てホッと安堵の表情を取り戻す。
「どういう事か説明しやがれってんのに、場所を移すだと?」
「はい。こちらではお客様の要望にはお応えしかねますので、場所を変えご説明させていただきます。車を用意いたしましたのでそちらに乗ってください」
男の後について部屋から出て来たのは、この出張所の責任者である東田であった。見たところ30代前半に見える彼は、部屋の中で割れた花瓶を片付けている女性に「後は頼む。少し行って来るから」と言って表に呼んでおいたハイヤーに男の背中を押し込むように乗車すると、運転手に行先を告げ素早く出発した。業務を妨害するこの男を早く連れ出したいこともあったが、何より本当に忙しかったから早く厄介払いしたかったのだ。
「どこに行こうってんだよ!?」
運転手に行先を告げたのを聞いているはずなのに、男は不機嫌そうに東田に尋ねた。
「行先は当信用金庫のお客様相談センター本部です。
そこにはきちんとした資料もありますので、納得いただけるご説明ができると思います。どうかご安心下さいませ」
「なんじゃそりゃ!?まるで俺がビビってるような口ぶりしやがって!」
そう言って意気込んではみたが、正直なところ不安でならなかった。
まさかタクシーで移動する事になるとは思っていなかったし、あの小さな出張所を選んだのも責任者が若い男で、大声を出して凄めば金を出すだろうと思っていたからだ。実は先ほどのように預金が下ろせない事はすでに何度も体験済みで、大きな支店や本店では全く相手にされなかった為に小さな出張所に来たのだ。
他の支店でも下ろせない理由は聞いたが、男には理解できなかった。
ご不満でしたら裁判所にでも行ってくれと、体よく追い返えされた。
どこに行っても言われた『禁治産者』の意味が分からない。
いや。何度も聞いたから、それがお金が使えない人を差す言葉だとは解る。
だからお取引出来ないというが、自分がなぜそう呼ばれる存在になったのかが理解出来ない。裁判所から各銀行へ差し止め要求か請求かは知らないが、とにかくそういう文章が出されていてキャッシュカードすら使えない。お金に関する何もかもが利用不可能になっていた。
二週間前に突然そうなり、携帯電話も今までのは使えなくなっていた。
その代わりにと、送り主が空欄の箱に入ったキッズ携帯みたいな制限がかかった機種がバイク便で送られて来た。今後の連絡はこれをお使い下さいなどと知らない人が書いたメモが箱には同封されていた。だが、ひとつだけ登録された電話番号にかけても誰も出ないし、何度掛けてもいきなり留守番電話になってしまう。よく分からないものには関わりたくなかったから、その後携帯電話は使っていない。留守番電話は嫌いだから伝言メッセージなど残してもいない。
もしかしたら詐欺などの事件に巻き込まれたのではないかと不安になり、状況がまるで分からず困惑したまま数日が過ぎた。そして3日前に書留が届いた。中に五万円が入った現金書留だった。
携帯の時と同じ筆跡で「当座の生活費です。ご利用は計画的に。来月10日まで追加はありません」と書かれてあり、ふざけるな!と電話したがやはり誰も出なかった。その時の金などもうとっくの昔に使い果たした。
男は通帳と印鑑の入った布袋を握りしめ外に出た。
行き先は銀行ではなく、歩いていて偶然見つけた小さな出張営業所だった。手にした通帳には残金5,274,006円の記載がある。自分で稼いで貯めたお金ではないが、名義は自分の名前になっている。
自分のお金が使えないなんて、そんなバカな話があるか!!
男は自分の名前が書かれた通帳の表紙を見つめ、このような目に合わせた奴にどう落とし前をつけさせるかを考えながら見知った街の中を10分ほどタクシーで移動した。到着した信用金庫本社ビルの隣に建てられた三階建ての鉄筋コンクリートの建物には、東田が言った通りお客様相談センター本部の看板が出ている。日曜などにローンなどの融資の受付や相談サービスをしているらしく、本社とは別枠で営業業務を行う為に四年前に新設されたのだと東田は説明した。
タクシーを降りると入口に女性が待機しており、こちらへとエレベーターの方へ男を誘導する。東田はエレベーターの扉のところまでは一緒だったが、タクシーを待たせたままなのでここで失礼します。と言うと建物の外へと足早に消えて行った。
エレベーターに一緒に乗り込んだ女性のお尻のラインを眺めていたら、10秒ほどでまたすぐ降りる事になった。三階建てなんだから当たり前なんだが、若い女性のお尻をゆっくり眺める機会もなく到着したのに舌打ちし、男は案内されるまま最上階にある、とある部屋へと通された。