第七章 愛の色(3)
人気のない畦道を、川沿いに歩く。森ではないが、木々がならぶ道は足元が悪くても清々しかった。橋は目に入っている。賑わう様子が遠くからでも伺えた。明るい日差しの中、夕方になる前には橋につきそうだ。ラーラは安心して、今日の宿のことを考えた。
しばらく歩き、そこで、足を止める。
橋の手前に立つ人物。こちらを見つめている。
ヴィックが、ラーラを見ていた。
『橋を通ってね』
バニラの声が蘇る。彼女の演出なのだ。だから、朝から妙な行動をしていたのか。でも、バニラはわかっていない。ラーラは彼に嫌われていると。
……果たして、そうだろうか。
ラーラは自問する。嫌わっている人間があんなに優しい瞳を向けてくれるだろうか?
あの掌の温もりは?
川風が、ラーラの髪を流す。
『片思いでもかまわん』
あれが、ロクェの……嘘?
まさか、そんな。
ヴィックがこちらに近づいてくる。
逃げなくて、いいのだろうか。好いてくれているはずはないと、必死で思い込まなくていいのだろうか。
幸せになっても……。
立ち止まっていると、突如、後ろから声をかけられた。
「チョット、よろしいですか?」
片言に言葉に、他国からの旅行客かとラーラが振り返ると、肌の色が黒い、大柄の男が立っていた。きちんとした身なりで、短く切った髪と太い眉毛が印象的だった。男らしい男だ。ラーラは恐怖を感じるが、男はにこやかに続けた。
「道を教えてもらいたいのです。ワタシ、こっちの方にある知人の家を訪ねてきたのです」
指を指す方向は、木々の間を抜けた、レンガ造りの閑静な住宅街だった。
「私も、詳しい道はちょっと……」
腰が引け気味になっていると、男は「イイカラ、教えてください」と明るい口調で言うと、ラーラの肩に軽く触れ、誘導した。この男、どこかで見たことがある。ラーラはそう思ったが、思い出せない。
道に迷ったというのに、ずいぶんとしっかりした足取りだ、とラーラが思っていると、どんどんと細い道に入っていく。
「私、本当にわかりませんから……」
ラーラがその言葉を言い終えるか終えないかの内、家の一室に連れ込まれた。他の家となんら変わらない家だったが、中はがらんとしていて人どころか家具もない。なぜ、こんなところにつれてこられたか理解できないまま、ラーラはぼんやりと男の方を見た。男は後ろ手に家の鍵を閉める。
「あの森を抜けて、何をしていた」
先ほどの人が良さそうな声も、笑顔もない。
『男』に対する恐怖ではなく、今まで遭遇したことのない『恐ろしい人間』に対する恐怖が生まれた。元々、自分も恐れられる人間ではあるが、それとは違う威圧感がある。
そこで、思い出した。黒い肌に鋭い眼光。この男、ラーラが橋の上で踊っているときに、こちらを凝視していた男だ。
あの時から、見られていたのか?
「何、って……」
瞬時に、何も話してはいけないと思った。
「森の中をさまよっていただけです」
すると、男は目を細めた。
「長期間、森をさまよっていた割りに、ずいぶんときれいな格好だな」
思わず、服を掴む。きれいに洗濯されている服では、なんの説得力も無い。
「お前は、森を抜けた。そうだな」
無言で、男から目をそらす。目を見たら、怖くて何か口走ってしまいそうだった。
「いいえ」
「お前は、特別な種族の人間だな」
この男はラーラたちの秘密をかぎつけてきたのか? それとも、ロクェを探しているのか?
いったい、いつ、どこで気付かれたのだろう。特別な村の人間であると。
誰も知らない種族だったのに。ロクェだって、平和に、静かに暮らしていたのに。絶対、何も言うものか。
「いいえ」
同じことを繰り返した。こういう時、どう対処していいかわからなくて、顔を伏せたまま同じことを言うしかなかった。うまく切り抜けられるほど、こんな窮地に慣れているわけも無い。男はラーラの言葉を一笑する。そして、真顔に戻る。
「どうやって森を抜けた?」
「抜けていません」
堂々巡りの話に、男は表情を崩さずにラーラの荷物を奪い取り、中を見た。地面にばらまかれるのは、着替えや路銀ばかり。薬は短剣と一緒に、胸元にしまってある。
唯一目をひく絵本をぱらぱらとめくったが、当然何も書いていない。男は絵本を地面に投げ捨てると部屋の中を歩いた。
今なら逃げられるだろうか、と思ったが、諦めた。この男が拘束しないのは、逃げたところで捕まえる自信があるからだ。ラーラの行動をつぶさに観察し、こんな部屋まで用意しているのだから。
「おもしろい種族は、国で調査をしたい。有能な科学者もな。金は存分に払うぞ?」
逃げ出すことを考えていたうちに、すぐに男はラーラの前に戻ってきた。
金? そんなものが必要だと思ったのは、旅に出るときだけだ。ラーラの人生で必要のないもの。そんなもので釣ろうなどとは、甘く見られたものだ。ラーラはこんな状況なのにおかしくなった。
目的もわかった。この男は、ラーラたちの種族と、ロクェ、両方手に入れたがっている。だからずっと監視していたのだ。
しかし、それどころではない。
男は大きな体だが、動きは大変素早く、隙がない。戻ってきたその手には、木製の盥があった。中にはあふれるほどの水。こぼれるのも構わず、地面に置いた。硬い石で出来た床に、鈍い音が響く。磯の臭いがかすかにした。
「そこの川で汲んできた水だ。飲んでみるか」
そう言うが、すぐにラーラの後頭部を掴み、その盥に顔をつっこんだ。
視界が歪む。思わず息を吸おうとして、水を飲んでしまった。黒い髪が盥の中を泳ぐ。ラーラが暴れ逃れようとするが、顔を水上に出すことは出来ない。
脳がしびれてきた頃、顔を上げさせられた。空気を求めて口を大きく開くが、咳き込んでうまく吸えない。顔に髪の毛が張り付く。
「水、うまかったか」
男は感情の無い声で言うと、もう一度、盥の中にラーラの顔をつっこんだ。
何をされているのか理解出来ず、ラーラはただもがくだけだった。大きな気泡がラーラの横を通り抜けていく。水の音だけが耳に届く。
今度はすぐ、顔を上げさせられた。男の手は大きく、ラーラの後頭部を片手で掴んでいる。
「知っていることを話すまで、終わらない。死なない程度に延々と続くぞ。それとも、お前の種族は死ぬことは無いのか? そんなはずはないだろう? 人は確実に減っている」
そういうと、また盥につっこまれる。
苦しくて、何度ももがく。けれど、体はまるで動かない。苦しくて目は閉じているのに、視界が赤くなっている気がした。
「話すか? 欲しいものならなんでもやる。あの男を連れ出し、そしてお前たちは我が国の実験体となればいいだけの話だ」
顔をあげられ、男が顔を覗き込んだ。
話す、何を? そうだ、あの村のことだ。自分たちの。ぼんやりとした頭で考える。
「あの村……」
うまく回転せず、思ったことをなんでも口走りそうになり、ラーラは我に帰る。
「何も、ない」
うまくしゃべることが出来ず、ラーラは思いっきり首を横に振る。体が震えている。
「話すまでやる」
低い声で言われ、もう一度、盥に顔をつっこまれた。
こんな時なのに、あの夜バニラと一緒に水浴びをしたことを思い出した。バニラの笑顔。相互してゼフィラの笑顔も思い浮かんだ。あの笑顔を守らなければいけない。
たとえ死んでも。
一度は捨てた命。毒を飲んで自ら死の淵に立った。
それを思えば、こんな事なんてことない。
たとえ自分が死んでも、ロクェはきっと、薬を作ってくれる。バニラが村に届けてくれる。
何度目かの、空気を吸える時間。髪も服もびしょぬれの状態だ。
定期的に、男は空気を吸わせてくれた。その一瞬の快楽が、再び訪れる苦しみをより恐ろしいものに変えさせた。
「このままだと、死ぬぞ。おとなしく、我々の実験に協力しろ」
低く、なんでも言うことを聞いてしまいそうな声だが、屈するわけには行かない。ラーラは激しく息を吸いながら、首を横に振る。もう、意識が朦朧としてきた。そのラーラの様子を見て、男は手を離した。
「呼吸を整える時間をやる。言うなら、早いほうが楽だ」
片言の言葉に違いは無いが、最初の言い方とはまるで違う。プロなのだ。ラーラは地面に転がり、咳き込みながら思った。逃げないと、死ぬまでこれを繰り返させられる。けれど、もう逃げるほどの力がなかった。息をするだけで精一杯だった。咳き込めば、肺に入り込んだ水を少し吐き出す程度で楽にならない。胸が焼けるように痛い。
呼吸が整い、思考が戻ればまたあの恐怖が待っている。小刻みに震える手で、顔に張り付いた髪をどかした。
男は、扉のすぐ前で立っているだけだった。通り抜けることなど出来ない。ラーラの様子を察したのか、男は愉快そうに口を開く。
「このあたりは、もうすぐ取り壊される。だから、声を出しても誰も来ない。わかったか」
どうしようもない。ラーラはしゃべりそうになる自分に気がついた。
あれほどの思いをしても、乗り越えてきたのに。それなのに、今ここで、村の人たちとロクェを売ろうとしている。
楽になれるのかもしれない。その一心だった。
気弱になったが、地面にたたきつけられた絵本を見つける。震える両手でそれを持つ。
ダメだ、絶対に。幸せになるって決めたじゃないか。
「神頼みか?」
愉快そうな男の声に、ラーラは力強い目で反抗する。死んでも教えるものか。幸せになるのは自分だけではない。みんななのだ。神になど頼まない。自分で手にする。
「言うもんか……あなたなんかに」
上半身を起こして、搾り出して言う。これが最後の言葉になるかもしれない、と思いながら、絵本を胸の前で抱く。ゴリ、と短剣とビンがこすれあう。耳鳴りが激しかったし、視界は一向に冴えない。
男は、軽く肩をすくめただけで、何も言わなかった。一歩、こちらに近付いてくる。またあの恐怖が始まる。ラーラは目を閉じることも出来ず、男の動きを見ているしか出来なかった。
いきなり、視界が眩しくなり目を閉じた。薄暗い部屋が、明るくなった。ゆっくり目を開くと同時に、鈍い音がする。その後、男はフラり、と膝から崩れ落ちる。
何が起きたのか分からず、ラーラは光の指すほうを見た。そこには、鉄の棒を持った男が立っている。
誰?
誰何の声も出せず、ラーラはぼんやりと男を見た。新手の登場だろうか?
「逃げるぞ!」
その声に、ラーラは我に帰る。探しに来てくれた!
「ヴィックさ……」
水が口から出てきた。咳が止まらなくなってしまう。その間、男は大きな体をゆっくりと起こし始めていた。
急がないと。でも、震えが止まらない体では、立つことも困難だった。
ヴィックは、そんなラーラをもどかしそうに見、そして男の脇を抜けてラーラの側に寄り、肩に担ぎ上げた。
「捕まってろ!」
ヴィックのこんな激しい声を聞いたことがないから、これは苦しさのあまりに見た幻なのかと思った。
細い道に点々と水のシミを作りながら、どんどんと市街地の方へ向かう。大きく揺さぶられる体。それに合わせ、時折大きく水を吐く。
しんとした住宅街から、次第に人の声が聞こえてくるようになる。耳鳴りなのか、人の声なのかわからないぐらいの音が、はっきりと人ごみの声だとわかるようになった。
「ここまで来れば……」
ヴィックは橋の欄干近くでラーラをおろした。そこに手をあてて呼吸を整えている。
「君は、村に戻れ。あそこならば、誰も追ってこられない」
「は、い……。でも、追われたら却って怖いし……」
「そっか。森の入り口で待ち伏せでもされたら危ないか」
「それに、ヴィックさんは」
咳き込みながら言うと、ヴィックはあー、と声を漏らした。
「たぶん、顔を見られていないから大丈夫だよ」
ちらちらと、逃げてきたほうを見る。男は追ってこなかった。とりあえずは諦めたのだろうか、それとも傷が深くて動けないのだろうか。
呼吸を整え、ようやく落ち着いて辺りを見た。
透き通るような、青い空が広がる街。人の楽しそうな話し声で、ラーラは今生きていることを実感した。口元を拭いながら、ぎこちなく息を吸う。
川の風が、濡れた服を冷やす。
「寒い?」
ヴィックの声に、ラーラは改めて顔を見る。小刻みに震える手で髪を耳にかける。
「いえ、あの……本当にヴィックさん?」
そう尋ねると、ヴィックは笑う。それだけで心臓が高鳴る。
「最初に聞くこと、それ?」
震える口ではうまく笑えない。ラーラは固い表情のままだったが、ヴィックもそうだと気がついた。よく足元を見てみると、震えている。
ヴィックだって、怖かったんだ。鉄の棒で人を殴ったのだ。あんな大男相手に。
「ありがとうございました」
そう言うと、ラーラは絵本を握った。水で滲んだが落とさず、ここまで持ってこられたのだ。そのとき、胸にしまってある短剣に手が触れた。そっと、その柄に手をやる。もう必要ないとわかっていても、つい気にしてしまう。
あれだけ会いたかったヴィックがそこにいる。ラーラはようやく、胸が熱くなった。もう、瞳は熱くならない。
視界に、ちらりと白いものがうつる。空を見上げると、ポプラの綿毛が舞っていた。
「事情はすべて聞いたよ。マヤさんから」
「え?」
事情とはなんだ? どこまで聞いたというの?
マヤは何を話したのかわからず、ラーラは何も言えなかった。
「君の一族のこと。毒を飲んだということを」
「どうして、そこまで」
第一、たまにしか村に下りてこない、顔も知らないマヤをどうやって見つけたというのだ。見つけたところで、話すはずがない。
「なんで、って顔だね」
少しおかしそうに、くすぐったそうに微笑んだ。先ほどよりは、柔らかい顔だ。あたりを見回して、男が来ていないか確認してから話を続ける。下手にどこかに隠れるよりも、人ごみの中にいたほうが安全だと感じるのだろう。けれど、びしょぬれの姿では恥ずかしい。
「あの男、誰?」
「わかりませんけど、私たちの一族や、ロクェのことを気にしていました」
「そう……」
もじもじと濡れた髪や服を気にしていたが、ヴィックも薄着だった。
「座って」
ふらふらのラーラは、橋の少し盛り上がった石に座り、欄干にもたれかかった。
人目から避けさせるようにラーラの前に座り、人々の楯になる。二人で、見詰め合う形になった。恥ずかしくてうつむいてしまう。
「しばらく、追ってこないか」
あたりを見回しながら言う。そうだろうか。あの恐怖はすぐには消えてくれないが、今はヴィックと一緒にいられることで軽減されていた。
あのね、とヴィックが口をひらく。それが心地よく耳に響く。
「僕はケガをしてから記憶がなくなって、そのまま亡くなった祖父の住んでいた、海の側の国で暮らしていた。そうしたら、君のことを思い出したんだよ。海の匂いをかぎながら。なぜ忘れていたんだと悔やみ、でも、祖父の事業の手伝いを父親としなくてはいけないから、およそ一年、帰ってこられなかった。それで、時間を見つけてようやくこっちに帰ってきたんだ。それからはずっとあの森の側に張り付いたんだよ。あそこにいれば、ラーラに会えると思って」
でも、会えなかった。ヴィックの呟きに、ラーラは顔が火照った。ケガをさせたのは自分だが。
「ケガをさせたこと……怒っていませんか?」
おずおずと言うと、ヴィックは大きめの声で笑った。
「バニラちゃんに聞いたよ。君が、そのことを異様に気にしていると。そんなことで、普通追いかけやしないよ」
恥ずかしい。バニラったら、勝手にそんな話を。
「まして、会えるかわからないのに森に張り付くなんて」
自分が旅に出たすぐ後から、ヴィックはあそこに立っていたというのか。そんなに、思ってくれていたのか。
「運よく、村の女性に会うことが出来た。マヤさんという女性に。それで、ラーラのことをなんでもいいから教えてくれと頼んだんだ。他言はしないという約束で。すぐに追いかけて見つけたけれど、逃げるから……」
めんどくさそうに話すマヤの姿を思い浮かべた。でも、ラーラのことを思って話してくれたんだ。
「ごめんなさい。勘違いするのが怖くて。あなたが、私のことを気にかけてくれているなんて思ったら、自分を抑えられないような……それに、そんな良いことがあっていいのかわからなくて」
ヴィックは初めて、まっすぐな瞳を地面に移した。
「一緒に海に出てみないか」
「え?」
「約束だっただろ? 二人で海を見に行くって。もう、その願いは叶えられるんじゃないのかな」
絵本みたいだ、とラーラは思った。それがまさか、現実になるなんて考えられない。
「無理です。私は……」
濡れた髪を手グシで整えながら言う。どうしたらいいのだろう。
「でも、薬を飲んだのだろう? もう、僕と一緒にいても平気じゃないか」
言うやいな、抱きつかれた。戸惑いしかラーラにはなかった。でも、ヴィックの吐息を感じ、どうしようもなく逃げたい気持ちになる。
「わかりません。薬の効力を確かめる方法などありませんから」
「もう、僕のことはなんとも思っていない? それならなおさら好都合じゃないか。それでも僕は、君の役に立ちたい」
体を離し、顔を覗き込む。ヴィックと目が合う。それだけで、嬉しかった。
「違います。私は今も……」
言ってから、もう顔が上げられなくなった。
「僕は、君になら喰べられたって構わない」
驚いて顔をあげる。本気で言っている顔だった。
「そんなこと、出来ません。出来ないから、私こうして旅しているんです」
周りの人は誰も見ていない。川からの強い夕陽の中で逆光となり、見えないのだろう。
ヴィックは胸元からのぞく短剣を奪い取り、ラーラをもう一度強く抱きしめた。声にならない悲鳴が喉の奥に響く。
「ラーラの手伝いをさせて欲しいんだ」
いいんだろうか。こんな優しい腕に抱かれて。
「できない……」
弱弱しく言うと、ヴィックは少しイラついた様子になり、耳元で声を荒げた。
「頼むから、もう僕のそばから離れないでくれ。離れるというなら、この短剣で死んでやる」
体を離し、短剣を首にあてる。ラーラはその短剣を取り返そうと必死になる。
「返してください!」
死んでもいいなんて、言わないで欲しい。しかし、ラーラの力では短剣を奪い返せそうに無い。
どうして、困らせるの。濡れた髪から流れる水をぬぐい、ラーラは悔しくなった。
「私だって、ずっとヴィックさんと一緒にいたい」
その気持ちは、同じなのに。
「だから、そんなこと言わないで。私の前から消えないで下さい。もう、いやです。あなたがいなくなるなんて考えるのは」
もう、恥ずかしいという気持ちはなかった。口に出さなくてはいられない、溢れ出る気持ちだった。
「私、最初は、あなたに手をかけたかと思って、本当に辛かったの……生きていてくれるだけでいいんです」
そう言うと、ヴィックはばつが悪そうに短剣をラーラに返した。
「ごめん。でも、大丈夫だよ。絶対に。怖がっちゃダメだ」
海。なんと魅惑的な言葉であろうか。
旅に出てもいいのだろうか。
薬を村のみんなに渡したら、ラーラは自由になるのか。いや、まだダメだ。
「私には、まだやることがあるんです。血を集めて、それから万能薬を探しに行かないと。ロクェさんの言葉が本当なら、愛するものがいない人に、この薬は効かないから」
「だったら、その作業もすべて手伝わせてくれ。万能薬を作るのなら、海に出たほうがいい。きっと、この国にはないものがあるはずだから。ひとりでなんでもやろうなんて、思わないで」
力強く、絵本を握る。
頭上では、ポプラの綿毛が雪のように飛んでいた。美しい街を彩る白。
怖がってはいけない。もう、幸せになってもいいのかもしれない。
「私を、連れて行ってください」
絵本が、膝の上に落ちる。ラーラから、ヴィックの体を抱いた。
*
いつの間にか夕方になり、綿毛はもう飛ばなくなっていた。
春の雪が舞う美しい街。
世界中には、きっとこんな素敵な街がたくさんあるのだろう。
一緒にあの綿毛を見たゼフィラの笑顔を思い出した。
未来の希望を夢見て、この思いはポプラの綿毛に乗せて、ラーラはきっと祈り続けるだろう。
一族の幸せを。
そして、この旅で出会った人々の幸せを。
海という広い世界を見に行く。そこにはきっと、未知数の、枯れることなき愛があるはずだから。
ひとつ、周りから遅れて綿毛が飛んでいた。
「ヴィックさん、あなたを愛して、はじめてよかったと思った。私が人を愛したら、悲劇しかないと思ったから。でも、悲しいことばかりじゃないのね。あなたに会えて本当によかった。たくさんの出会いをありがとう」
そういうと、ヴィックは顔を真っ赤に染めた。自分は散々、歯のとろけるようなことを言っておいて。でも、可愛らしいな、とラーラは思った。
「幸せになる」
綿毛に思いを託し、風に舞って空高く飛んでいった。本当に、ラーラの思いを乗せたかのように。
思いはきっと、届く。
空は、ラーラの瞳と同じ、マゼンタ色の空に移り変わっていた。
それは畏怖すべき狂気の色ではなかった。
人を愛するという崇高な気持ちを表した、強く、深い、愛の色。
了