番外編 土の色。ベルクの秋
ある農夫のお話。
最初は、上手くいくはずがないと思っていた。
十七歳の若造が、新しい領主としてノルデンへやって来た。しかも王都の貴族の坊っちゃんだ。畑仕事なんてしたこともないような綺麗な手で、いきなり俺たちにこう言ったのだ。
『畑で、ルージュ豆を育ててみませんか?』
馬鹿馬鹿しい、と鼻で笑った。
……いや。鼻で笑ったなんてものじゃない。
俺はあの日、怒りに任せて壇上に駆け上がり、あの人の胸ぐらを掴んだのだ。
『お前みたいな、温室育ちの子供に何が分かる! 俺たちはな、一回の失敗で家族が死ぬんだよ!』
今思い出しても、とんでもないことをしたと思う。冷や汗が出る。
だが——。
『……分かったよ、ベルクさん』
あの人は怒らなかった。
それどころか、俺が名乗ってもいない名前を呼んだ。
家族が四人いることも。俺がどこの畑を耕しているのかも。
今朝、自分の足で畑を見に来たから知っているのだと、擦り傷と泥のついた手を見せて笑っていた。
あんな貴族、見たことがなかった。
◇
それから、しばらく経った頃だ。
「よし、完成だ。みんな、冷めないうちに食べてくれ」
広場に運び込まれた大鍋から、見たこともない赤いスープの湯気が立っていた。
誰もが躊躇して近づかない中、俺は意を決して器を受け取った。
一口すすり、二口すすり——。
『……もう一杯、もらっていいか』
あのとき、必死で涙を堪えながら二杯目を頼んだことを、俺は今でも覚えている。
甘かった。豆なのに、ほんのりとした優しい甘さが口いっぱいに広がり、腹の底から温かさが広がっていった。
腹いっぱい食える。たったそれだけのことが、俺たちにはずっと遠かったんだ。
今までは、冬が来れば飯を減らす。まず俺が減らし、次に女房が減らし、足りなければ水で薄める。
『父ちゃんは腹いっぱいだから』
そう言って残したわずかな食べ物を子どもに分け与えた夜が、何度あったか分からない。
だから——あのただ一杯の熱いスープが、どうしようもなく身に染みたのだ。
◇
あれから、いろんなことが変わった。
俺たちが育てたルージュ豆はパン工房がきちんと買い取ってくれるし、賃金も決まった日にきっちり支払われる。『今月はどうやって食っていこう』と夜遅くまで女房と頭を抱えずに済む。それだけで十分すぎるほどだった。
だが、変わったのは俺たちの懐だけじゃない。
「……よっと」
畑にしゃがみ込み、土をひと掴みする。
指の間から、ほろほろと落ちる黒い土。
「…………」
昔の痩せた土とは、色が違う。手触りが違う。
ルージュ豆の皮やカスなど、以前なら捨てていたものを堆肥に混ぜて畑へ戻すようになった。一度撒いたところで翌朝に魔法のように土が変わるわけじゃない。それでも愚直に耕し、土へ還し続けた。
「おっ」
指先で、太ったズミミがうねった。
「またいやがる」
思わず頬が緩む。ズミミが湧く畑は良い土の証拠だと、昔年寄りが言っていた。こんなものを見て喜ぶ日が来るなんて思いもしなかった。
立ち上がると、畑の端にはカイル様が導入してくれた小型の魔道具が置いてある。
最初は『こんなものなくたって耕せる』と突っぱねたが、一度使ったら最後、もう手作業には戻れない。歳がいけば腰も痛むし、猛暑の中で無理をすれば倒れる。
カイル様は収穫量だけでなく、俺たちが身体を壊さないようにとあれを買い揃えてくれたのだ。
数字しか見ないお坊ちゃんだなんて、大間違いだった。
あの人は最初から、俺たち人間を見ていたんだ。
「あなたー!」
遠くから女房の声が響く。
「そろそろお昼にしましょう!」
「おう!」
大きく手を振り返す。
夏が過ぎ、風が畑を駆け抜けていく。ざわざわと音を立てて、青かった麦が実りの黄金色へと変わり始めていた。その向こうには、たわわに実ったルージュ豆の畝が広がっている。
去年までなら、この時期が一番怖かった。
『一回の失敗で家族が死ぬ』と、不安で押し潰されそうだった。
でも、今年は違う。
「父ちゃーん! 早くー!」
「分かった、今行く!」
駆けてくる二人の子どもに手を振りながら、もう一度だけ足元を見た。
風に揺れる麦と、実ったルージュ豆。そして、生命を育む黒い土。
腰に手を当て、深く息を吸い込む。
怖さなんてどこにもなかった。今はただ、待ち遠しい。
「……収穫が、楽しみだな」




