番外編 湯気の向こうの冬支度(前編)
マティアスとの一連の騒動が、ようやく落ち着きを見せ始めた頃。
ノルデンの街には、少しずつ冷たい風が吹き始めていた。
「……うーん」
執務室のデスクに広げられた売上報告書を眺めながら、僕は小さく唸った。
「どうかなさいましたか、カイル様?」
向かいに座るエドワードが、書類から顔を上げる。
「いや、あんぱんの売上がね……最近、少し落ちているんだ」
「……あんぱん?」
「うん。ノルデンで作っているパン」
エドワードは、聞き慣れない言葉に眉をひそめた。
「それは……食べ物の名前ですか?」
「えっ!? エドワード、まだ食べたことなかったの!?」
「……申し訳ありませんが、私は食事に関しては保守的な人間でして」
そういえば、彼がノルデンにやってきてからというもの、ずっと行政の仕事ばかりしていた。
あんぱんを勧める機会すらなかったんだ。
「ちょっと待ってて!」
僕は棚から、紙袋に包まれたあんぱんを取り出した。
「はい、これ!」
「…………」
エドワードは差し出された丸いパンを、まるで未知の魔道具でも見るかのように凝視した。
「……これが、あんぱん、ですか」
「そうだよ!」
「……中に、何か入っているのですか?」
「ルージュ豆の餡だよ」
「……ルージュ豆?」
エドワードの眉間に、さらに深い皺が刻まれた。
「あのルージュ豆を……菓子に?」
「ははっ! 新鮮な反応だなあ!」
そういえば、ノルデンの人たちも最初は似たような顔をしていたっけ。
「まあまあ、騙されたと思って食べてみてよ」
「……その言い方は、契約の勧誘としては最悪ですね」
「食べ物の話だよ!?」
エドワードは小さくため息を吐くと、恐る恐るあんぱんを口に運んだ。
ひと口。
そして、ふた口。
「…………」
「どう?」
「……不思議な味ですね」
エドワードは断面をじっと見つめた。
「王都のお菓子とは違う。砂糖を前面に押し出した甘さではなく……豆の風味が残っている」
「おっ、分かってくれる?」
「ええ。パンの生地とも、意外なほど相性がよろしい」
そう言って、彼はもうひと口かじった。
……気に入ってくれたらしい。
「ですが、カイル様」
「ん?」
「美味であることと、売れ続けることは別問題です」
「……うっ」
急に現実へ引き戻された。
エドワードは残りのあんぱんを皿に置き、売上報告書へ目を落とす。
「マティアスの件で資金繰りに苦しむ商人が増え、街全体の支出にも慎重さが見られます。加えて、冒険者の流入によって客層も変化している」
「そうなんだよね。冒険者は増えているのに、あんぱんの売上は伸び悩んでいるんだ」
「冒険者が増えたからといって、全員が甘いパンを買うわけではありませんからね」
「……それはそう」
「それに、これから冬になります」
エドワードは窓の外へ目を向けた。
「ノルデンの冬は厳しい。ホットギヤミルクだけでなく、寒い季節に合わせた商品も考えるべきでしょう」
「……冬の商品、かぁ」
僕は腕を組んだ。
寒い日に食べたいもの。
温かくて、甘くて。
身体の芯から、ほっとするようなもの。
「……温かい……?」
その瞬間、前世の記憶が、ふっと蘇った。
冬の寒い日。小さな椀から立ち上る、白い湯気。
柔らかく煮えた小豆。
そして——。
「……あっ」
「カイル様?」
「……あるじゃないか」
「何が、です?」
僕は勢いよく立ち上がった。
「おしるこだ!!」
「お、しるこ?」
エドワードは、今日何度目か分からない怪訝な顔をした。
「今度は、何ですか。その奇妙な名前は」
「温かい豆の甘味だよ! ルージュ豆をシロカブから採れた砂糖で甘く煮て、器によそって食べるんだ!」
「……また豆ですか」
「また豆だよ!」
「…………」
エドワードは眼鏡の位置を直した。
「カイル様。ひとつ確認させてください」
「うん?」
「まさか、あんぱんの売上が落ちたからといって、今度は豆を煮て売ろうとお考えなのですか?」
「そうだけど?」
「……なるほど」
エドワードは深く息を吐いた。
「あなたという人は、本当に……」
「だ、駄目かな?」
「いいえ。発想自体は悪くありません」
「本当!?」
「ですが、材料費、燃料費、調理時間、提供価格。それに、温かい商品なら販売場所も重要になります」
「……あ」
「そして何より」
エドワードは人差し指を立てた。
「まずは試しに、ですよ。カイル様」
その言葉に、僕は思わず目を丸くした。
以前の僕なら、思いついた瞬間に大量生産の準備を始めていたかもしれない。
でも、今は違う。
「……そうだね。まずは少量作って、みんなに食べてもらおう!」
「ええ。売れるかどうかは、それから判断すればよろしい」
エドワードはそう言って、残っていたあんぱんを口へ運んだ。
「……ところで、カイル様」
「ん?」
「このあんぱん、もうひとついただいても?」
「……気に入ってるじゃないか!」
「商品研究の一環です」
「はいはい!」
思わず笑ってしまった。




