番外編 プリメロ、頑張る!
窓の外を、冷たい風が吹き抜けていた。
ノルデンの街路樹は少しずつ色づき、朝晩には冬の気配が忍び寄るようになってきている。
そんな季節の変わり目、プリメロは小さな机に向かっていた。
「……材料費がこれで、燃料費がこれ。それから、包装にかかるお金も……」
紙の上に並んだ数字を、指先で一つずつ追いかける。
以前の自分なら、こんな作業は見向きもしなかっただろう。お菓子を作って、売って、お客さんに喜んでもらう。それだけで十分だと思っていたのだから。
(……それだけじゃ、駄目だったのよね)
プリメロは、そっとペンを置いた。
かつて自分たちには、小さなお菓子屋があった。
焼き菓子の甘い香りが漂い、常連客が笑顔で訪れてくれる、なによりも大切な場所。
けれど、設備を新しくしようと借りたお金が、すべてを壊した。
契約書に書かれていた言葉の意味を、十分に理解していなかったのだ。
返済が遅れたとき、何が起こるのか。どんな条件で残額を一括請求されるのか。店や設備がどんな担保になっていたのか——を知らないまま、ただ流されるように署名してしまった。
その結果、店を失った。
(……もう、あんな思いはしたくない)
プリメロは息を吐き、再びペンを握り直す。
「……お姉様?」
背後から、柔らかな声が届いた。
振り返ると、ベッドの上で身体を起こしたディアナがこちらを見つめている。
少し前まで顔色も悪く、起き上がることすらつらそうだった妹の頬に、最近は少しずつ血色が戻り始めていた。
「あっ、ディアナ。起きていたの?」
「はい。お姉様ったら、またお勉強ですか?」
「ふふ、そうよ。覚えることがたくさんあるんだもの」
「以前よりずっと楽しそうです、お姉様」
不意を突かれ、プリメロはパチパチと瞬きをした。
「……そう?」
「はい! 前は、帳簿を見るたびに悲しそうなお顔をしていらっしゃいましたから」
プリメロは思わず言葉を詰まらせた。
気づかれていたのだ。店を失ってからというもの、帳簿も契約書も、借金という言葉すら怖くて目を背けていた自分に。
けれど、今は違う。
エドワード先生の言葉が、頭の奥に残っていた。
『数字は、あなたを責めるために存在するのではありません。現状を知るための道具です。利益が出ないなら、なぜか。費用が大きいならどこに原因があるのか。それを確かめるために使うのですよ』
最初はちんぷんかんぷんだった。だが、何度も教わるうちに少しずつ形が見えてきた。
売上が多いことと利益が出ることは違う。手元にある金と、自由に使える金も違う。そして——契約書にサインする前には、必ず裏の条件まで確かめなければならないということも。
「……私ね、ディアナ」
プリメロは照れくさそうに笑いながら、妹に語りかけた。
「今度こそ、自分の力でお店を守れるようになりたいの。まだまだ勉強中だけどね」
「お姉様……」
「……私も」
ディアナが、ぎゅっと布団を握りしめた。
「私も、また一緒にお菓子を作りたいです。まだ長くは立っていられないけれど……昨日なんて、窓辺まで一人で歩けたんですよ!」
「まあ……! 頑張ったのね、ディアナ」
「はい! だから無理はしません。でも、お姉様のお手伝いがしたいんです」
誇らしそうに胸を張るディアナを見て、プリメロの胸がじんわりと温かくなった。
店を奪われ、絶望の底にいたあの日には、妹とこんな風に笑い合える未来なんて想像もできなかった。
◇
翌日。プリメロは一冊の帳簿を抱え、エドワードのもとを訪れていた。
「……なるほど。材料費と燃料費を分けて記録できていますし、売上と利益の違いも捉えられていますね」
差し出した紙に目を通し、エドワードが淡々と頷く。
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。ですが——この計算には、まだ欠落している要素があります」
「えっ!?」
エドワードの指先が、紙の一箇所を指し示した。
「あなた自身の労働コストです。材料費だけを引いて『利益が出た』と喜んでも、そのために一日十時間タダ働きしていたのでは、事業として長続きしません。それに、道具が故障した際の予備費も考慮に入れておく必要があります」
「な、なるほど……!」
慌ててメモを取るプリメロに、エドワードは眼鏡の奥の目を少しだけ緩めた。
「焦る必要はありません。最初から完璧な帳簿を作れる人間など存在しないのですから。大切なのは、分からないことを曖昧なまま放置しないことです」
「……はい!」
大きく頷いたプリメロは、少し逡巡してから口を開いた。
「あの……エドワード先生。私、もう一度……お菓子を売ってみたいんです。いきなりお店を借りたりはしません。お金も借りずに、まずは少しだけ作って、どれくらい売れるのか試してみたいんです」
エドワードの手が止まった。
「……よい考えですね。ただし、試すのであれば最初に決めておくべきことがあります」
「何でしょう?」
「売れなかった場合、どこまでの損失なら許容できるか、です」
「……!」
「商売には必ず不確実性が伴います。売れる見込みが外れることもあれば、悪天候で客が来ないこともある。ですから、失っても生活が破綻しない範囲内で試すのです」
失っても、生活に支障のない範囲。
昔の自分は、そんな撤退ラインのことなど考えもしなかった。新しい設備さえあれば売れる、売れれば返せる——そう思い込んで、最悪の事態から目を背けていたのだ。
「……先生。今度こそ、ちゃんと考えてから始めます」
「ええ。それでよいのです」
◇
その日の夕方。
借りた小さな調理場で焼き上げたお菓子を持ち、プリメロは帰宅した。
高価な材料も特別な設備も使っていない、素朴なお菓子。けれど丁寧に混ぜ合わせた生地は、部屋いっぱいに甘い香りを漂わせた。
「ただいま、ディアナ! 今日は相談があるの」
「お帰りなさい、お姉様! 相談って……わあ、いい香り……!」
「ふふ、まだ食べちゃ駄目よ。先に数を数えて、材料費と調理場代を計算しないと」
「なんだか……エドワード先生みたいです!」
「えっ!? そ、そんなことないわよ!」
頬を染めて慌てるプリメロに、ディアナがくすくすと笑う。
プリメロは照れ隠しに、焼き立てのお菓子をひとつ手に取った。
「はい、味見係さん。……どうかしら?」
ディアナは両手で大切そうに受け取り、小さく一口かじった。じっくりと噛みしめ、それからにっこりと笑う。
「……美味しいです。お姉様のお菓子の味です」
その一言に、プリメロの胸がきゅっと締めつけられた。涙が溢れそうになるのを慌てて指先で拭う。
「……もう。泣かせないでよ」
「えっ、お姉様!?」
「ふふ、大丈夫。……頑張るわね、私。今度こそ自分たちの足で立てるように」
窓の外では冷たい秋風が吹き抜け、冬の到来を告げていた。
失った店や時間がすぐに戻ってくるわけではない。それでも、一度止まってしまった歩みを、もう一度踏み出すことはできる。
プリメロは帳簿を開き、今日の日付を書き込んだ。そしてその隅に、小さく文字を添える。
『試作品20個。味見1個。ディアナの評価:とても美味しい』
明日は、残りの焼き菓子をどう売るかを考えよう。売れなかったら理由を確かめればいい。失敗しても、また工夫すればいい。
今の自分には知識があり、支えてくれる妹がいて、そしてなにより——もう一度お菓子を作りたいという情熱があるのだから。
(……よし!)
プリメロはそっと拳を握りしめた。
それは、ノルデンの小さな部屋から始まった、たしかで頑丈な再出発の一歩だった。




