第5話 夢と仕事の「支援者」
プリメロたちのクリーム焼き専門店を皮切りに、ノルデンの大通りには次々と新しい店の看板が掲げられ始めていた。
香ばしい匂いを漂わせる串焼き屋、農機具の手入れを引き受ける小さな鍛冶工房、服の仕立て直しを請け負う店。どこも開店祝いの花が飾られ、店先には夢と意気込みに満ちた店主たちの笑顔があふれている。
「カイル様、大通りの空き店舗は、もうほとんど残っていないそうですわ」
「本当にすごい勢いだね。領内のお金の巡りが、目に見えて良くなっている」
リーザと並んで通りを歩きながら、僕は満足げに頷いた。
小麦の豊作と輪作の成功。それがもたらした食糧の安定という基盤の上に、新しい商売が芽吹き始めている。人々が自らの力で店を開き、稼いだお金で欲しいものを買う。僕が目指してきた「豊かさの循環」が、いま目の前で回っていた。
「……あら?」
リーザが足を止めた。
「カイル様、あちらをご覧になって」
「……ん?」
視線の先には、一軒の小さなお店があった。
淡いクリーム色の看板に、可愛らしい花の模様。そして流れるような文字で記された店名。
『プティ・ボヌール』
「あっ!」
僕は思わず声を上げた。
「プリメロたちのお店だ!」
「まあ! こちらでしたのね」
店の前には、すでに数人のお客さんが列を作っていた。窓からは甘い香りが漂い、焼きたての菓子を手にした子どもたちが嬉しそうに駆けていく。
「……繁盛しているみたいだね!」
「ええ。本当に素敵なお店ですわ」
リーザも嬉しそうに微笑んだ。
「よし、僕たちも買っていこう!」
僕はさっそく列の最後尾へ向かった。
◇
「いらっしゃいませーっ!」
店の扉を開けた瞬間、元気な声が響いた。
「あっ! カイル様!?」
カウンターに立っていたプリメロが、目を丸くした。
「本当に来てくれたんですか!?」
「もちろん! 約束しただろう?」
「わあっ! ディアナ! カイル様が来てくれたよ!」
奥の焼き台で作業していたディアナが、こちらを振り返った。
「……あっ。カイル様、リーザ様。いらっしゃいませ」
「こんにちは、ディアナ。開店おめでとう!」
「おめでとうございます。とても素敵なお店ですわ」
「……ありがとうございます」
ディアナは少し照れくさそうに微笑んだ。
店内には、焼きたての甘い香りが満ちていた。
カウンターの奥には、クロウの工房に注文したという新しい焼き台が据えられている。以前よりも焼き型の数が増え、二人で作業できるように配置も工夫されていた。
「……すごいね! 本当に立派な焼き台だ」
「でしょう!?」
プリメロが得意げに胸を張る。
「クロウさんとフィンさんに、何度も相談したんですよ! おかげで、前よりずっとたくさん焼けるようになったんです!」
「火加減も調整しやすくなったんです」
ディアナが嬉しそうに付け加えた。
「お祭りのときは、焼き加減が安定しなくて大変だったので……」
「なるほど。ちゃんと改善したんだね」
「はい!」
僕は改めて店内を見渡した。決して広い店ではない。けれど、磨き上げられたカウンターや手書きの品書き、窓辺に飾られた小さな花まで、二人のこだわりが感じられた。
「それで、カイル様! 今日は何個にします?」
「そうだなあ……僕とリーザで、一つずつお願いできるかな?」
「はいっ! ただいま!」
プリメロが奥へ声を掛ける。
「ディアナ、二つ追加!」
「……うん」
ディアナは頷き、焼き台へ向き直った。手慣れた動きで生地を流し込み、焼き上がったところへクリームを詰めていく。やがて、ほかほかと湯気を立てるクリーム焼きが差し出された。
「お待たせしました!」
「ありがとう!」
僕は代金を支払い、さっそく一口かじった。
ふわりと広がる、甘い香り。外側は香ばしく、中のクリームはなめらかでほどよい甘さがある。
「……んっ!」
思わず目を見開いた。
「美味しいじゃないか!」
「……っ!」
プリメロがぱっと顔を輝かせた。
「本当ですか!?」
「うん! 秋祭りのときより、もっと美味しくなってる!」
「やったあ!」
プリメロは両手を握りしめた。
「ディアナ! 見た!? カイル様が美味しいって!」
「…………」
「……ディアナ?」
「……あっ、うん!」
ほんの一拍。ディアナの返事が遅れた。
けれど、すぐにいつもの柔らかな笑顔を浮かべる。
「……ありがとうございます。とても嬉しいです」
「ディアナが何度も試作してくれたんですよ!」
プリメロが誇らしげに言った。
「クリームの甘さも、生地の厚さも、少しずつ変えて!」
「……へえ、そうだったんだ。すごいなあ。ちゃんと研究してるんだね」
「……えへへ」
ディアナは照れくさそうに笑った。そのとき、店の扉が開いた。
「すみませーん! クリーム焼き、四つください!」
「はーい! ただいま!」
プリメロが元気よく応じる。
「ディアナ、四つ追加!」
「……うん!」
ディアナはすぐに焼き台へ向き直った。手元では、すでに次の生地が焼き上がり始めている。
「……本当に忙しそうだね」
「えへへ! おかげさまで!」
プリメロは嬉しそうに笑った。
「毎日たくさんのお客さんが来てくれるんです! 昨日なんて、閉店前に売り切れちゃって!」
「それはすごい!」
「でしょう!?」
プリメロの笑顔につられて、僕も笑ってしまった。
(……よかった)
心からそう思った。秋祭りのとき、二人はまだ小さな屋台で菓子を売っていた。それが今では自分たちの店を構え、たくさんのお客さんを笑顔にしている。夢が、ちゃんと形になっていた。
「……カイル様」
隣でリーザが小さく微笑んだ。
「本当に、素敵なお店ですわね」
「……うん」
僕は頷いた。
そのとき、ディアナが焼き台の前で深く小さく息を吐いたことには、気づかなかった。
「いらっしゃいませーっ!」
次のお客さんが扉を開け、プリメロの元気な声が店内に響く。甘い香りと笑い声に包まれた小さなお店。僕はただ、その繁盛ぶりを微笑ましく思っていた。
◇
その後も、ノルデンの開店ラッシュは続いた。
大通り沿いの空き店舗は次々と埋まり、商業ギルドには新たな開業相談が持ち込まれている。領主館にも店舗の改修や営業に関する申請が増えていた。
「……すごい勢いだね」
執務机に積まれた書類を前に、僕思わず呟いた。
「ええ。商業ギルドからの報告でも、商取引の件数は増加傾向にありますわ」
リーザが帳簿をめくりながら答える。
「職業紹介所への求人も増えております。特に、接客や製造に携わる人手が求められているようです」
「……なるほど」
僕は満足げに頷いた。
農業の安定が商業の発展へ繋がり、新しい店が増えれば雇用が生まれる。雇用が増えれば所得が増え、それがまた別の店の売上になる。
(……これでいい。ノルデンは、少しずつ自走し始めているんだ)
◇
大通りの華やかな喧騒から少し外れた裏通り。看板も控えめな、真新しい事務所があった。
「……失礼、します……」
扉を開けたのは一人の木工職人だった。使い古された作業着には木くずがこびりついている。
「ようこそ、ベルニッツ商会へ」
室内の奥、質の良い執務机に腰掛けた男が、柔らかな笑みを浮かべて顔を上げた。
マティアス・ベルニッツ。上質な服を身にまとい、穏やかな関西訛りの口調で客を迎え入れる。
「ここに来れば……その、工房を広げるための相談に乗ってくれるって聞いたんだが……」
「ええ、もちろんですとも」
マティアスはにこやかに頷いた。
「私どもは、夢を追うお人のお手伝いをさせていただくのが仕事でしてね。……ノエル、書類を」
「はい、ボス」
傍らに控えていた眼鏡の青年ノエルが、一束の羊皮紙を机の上へ置いた。
「さあ、まずはこちらをご覧ください」
マティアスは親しげに身を乗り出した。
「あなた、腕のいい木工職人さんやそうで。今は街じゅうで建物の改修が進んどる。新しい挽き割り機さえあれば、もっと仕事を引き受けられる……違いますか?」
「……っ!」
男の目が大きく開いた。
「そうなんだ! 今は注文が増えててな。道具さえありゃあ、もっと仕事ができるんだが……!」
「でしょうなあ」
マティアスは満足そうに頷いた。
「今のノルデンは勢いがあります。こういうときに商売を広げる判断は、決して間違いやありません」
「……そうか!」
「ええ。ただ、設備を買うにはまとまった金が必要です。そこが悩みどころでしょう?」
「……ああ」
男は肩を落とした。
「今の稼ぎじゃ、どうしても足りなくて……」
「ご安心ください」
マティアスは優しく微笑んだ。
「私どもが、設備の購入をお手伝いしましょう」
「……本当ですか!?」
「もちろんですとも」
ノエルが差し出した書類には、設備の購入代金と分割払いの条件が記されていた。
「開業から三ヶ月は、元金のお支払いを猶予いたします。その間は、所定の手数料だけで結構です」
「……三ヶ月も?」
「ええ。本格的なお支払いは四ヶ月目からです」
男の表情がパッと明るくなった。
「それなら、仕事を増やしてから払えるな!」
「そういうことです」
マティアスは穏やかに頷いた。
「今のノルデンには、商売を始める機会がある。私どもは、その機会を逃してほしくないんですわ」
「……ありがたい!」
男は何度も頭を下げた。そして契約書に視線を落とす。
細かな文字が並んでいた。設備代金。分割払いの総額。手数料。支払期日。そして、期限の利益の喪失に関する特約。
「……あの、この辺は……?」
男が小さな文字を指さした。
「ええ。お支払いが滞った場合の取り決めです」
マティアスはさらりと答えた。
「商売をなさる以上、万一のことも決めておかんといけませんからね」
「……そうか」
「もちろん、きちんとお支払いいただければ、何も問題はございません」
男はしばらく書類を見つめていた。だが、難しい言葉の意味まではよく分からなかった。
「……まあ、俺は仕事には自信があるからな」
「それは何よりです」
マティアスは笑みを深めた。
「では、こちらへご署名を」
男は羽ペンを握り、羊皮紙の最下部へ自分の名前を書き込んだ。
そのすぐ上には、次の条項が記されていた。
『四ヶ月目以降、所定の支払いが滞った場合、または売上高が契約上の基準を下回った場合、債務者は期限の利益を失い、残債務の一括清算を求められるものとする。履行不能の場合、契約に定める範囲において、設備および事業収益に係る権利を債権者へ移転する』
「……よろしく頼む!」
「ええ。こちらこそ」
マティアスは丁寧に頭を下げた。
「あなたの商売が成功することを、心から願っておりますよ」
◇
男が去ったあと、ノエルは契約書を回収し、帳簿へ挟み込んだ。
「……これで今月、二十件目です。ボス」
「ふむ。順調やな」
マティアスは椅子に深く腰掛けた。
「あの木工職人、本当に返済できるでしょうか?」
「さあなあ」
マティアスは肩をすくめた。
「そら、返してもらえるに越したことはないで」
「……そうなのですか?」
「当たり前やろ」
マティアスは鼻で笑った。
「商売がうまくいけば、うちにも金が入る。長く付き合える客になる。実際、クリーム焼き専門店の向かいに出た肉屋なんか、うちの金で仕入れを増やして大繁盛しとるやないか」
「……確かに」
「成功する客は、ええ客や」
マティアスは指先で帳簿を軽く叩いた。
「せやけどな」
その声が、わずかに低くなった。
「全員が成功するわけやない」
マティアスは窓辺へ歩み寄った。そこからは、賑わうノルデンの大通りが見えた。
新しい看板。行き交う人々。店先で客を呼び込む、若い店主たち。
「……しかし、カイル様は大したお人や」
マティアスは感心したように呟いた。
「こんな貧しかった街を、ここまで豊かにしたんやからな」
「……ええ」
「農業を立て直して、仕事を増やして、人を集めた。ほんま、見事なもんや」
そして、口角をわずかに吊り上げた。
「……けどな、ノエル」
「はい」
「街が豊かになれば、人は夢を見る。でもその夢を叶えるには、金が要る。領主様が街を豊かにすればするほど、うちの商売も増える。ありがたい話やないか」
マティアスは満足そうに目を細めた。
「……ほんま、ええ街に育ってくれたもんやなあ」
窓の向こうでは、今日も新しい店の看板が掲げられていた。
その下で笑う人々は、まだ知らない。自分たちが手にした契約書の中に、どれほど重い罠が眠っているのかを。
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