番外編⑨「検討の終わり、最愛の始まり」
風の神殿を包む春の夕暮れは、いつになく鮮やかで、そして穏やかだった。
『風の柱』としての激動の日々を越え、己の内の「名付けられぬ痛み」の正体が「恋」であると認めてから、幾月。
シルフィは、神殿の最上階にあるバルコニーの縁に手をかけ、オレンジ色に染まる世界を見渡していた。
背後から、慣れ親しんだ、けれど聞くたびに胸の奥を甘く焦がす足音が近づいてくる。
「シルフィ様。……お茶が冷めてしまいますよ」
歩み寄ってきたユーロスは、かつて泥だらけの少年だった面影など微塵もない、立派で精悍な大人の男の顔をしていた。
彼はシルフィの隣に立つと、言葉を交わさずとも彼女の僅かな震えを察し、ふわりと温かい上着を彼女の肩にかけた。
その不器用で、けれど絶対的な慈愛に満ちた仕草に、シルフィは思わず目を細める。
かつての二人は、完璧な女神と、盲目的な騎士という役割の影に隠れて生きていた。
けれど今は、互いの弱さも、醜い執着も、全てを曝け出した一人の女と男としてここにいる。
不意に、ユーロスがシルフィの正面に回り込み、静かにその場に片膝をついた。
何度も見てきた、儀式のような所作。
けれど、夕陽を背負った彼の瞳は、かつての狂信的な熱ではなく、一人の女性の人生を背負おうとする、静かで重い覚悟を宿していた。
「シルフィ様。……この春の良き日に、改めて、言わせてください」
彼の低く、よく響く声が、春の澄んだ空気に溶けていく。
「十一年前、貴女に救われたあの日から、俺はずっと貴女を見つめてきました。最初は『慈愛の風の柱』として。けれど今は――ただの、不器用で愛おしいシルフィさんという女性を」
「……ユーロス」
「俺の過去も、現在も、そしてこれから来る未来の全てを、貴女に捧げます。……俺と、結婚してください」
それは、二人の再会からずっと繰り返されてきた、この二人の仲の象徴とも言える言葉だった。
シルフィは、胸の奥で爆発しそうなほどの幸福感と、これまでの「拒絶」という名の防衛本能との間で、僅かに唇を震わせた。
「……前向きに、検討します――」
いつもの、安全な回答。
これまで、彼女を守り続けてきた「仮面」のような言葉。
しかし、シルフィはその言葉を言い終える前に、ふっと自嘲するように微笑んだ。
そして、自分で自分の言葉を遮るように、ゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ。ユーロス」
ユーロスが、驚いたように碧い瞳を大きく揺らす。
「その……検討するのは、もうやめます」
「……え?」
「私も、貴方と一緒にいたいです。……貴方が淹れてくれる紅茶を飲み、貴方がかけてくれるひざ掛けの温もりを感じ、貴方が隣で笑ってくれる毎日を……手放したくないのです」
シルフィは顔を真っ赤に染めながら、震える手で、跪く彼の大きな手をそっと包み込んだ。
女神の威厳も、年上としての矜持も、もはやそこにはなかった。
ただ、最愛の人の名を呼び、その温もりに縋りたいと願う、一人の恋する女の姿があるだけだった。
「……はい。お受けします。私の……私の騎士様」
「…………」
ユーロスは、動かなかった。
ただ、シルフィの手を握ったまま、俯いている。
「……ユーロス?」
「……すみません」
かすれた声だけが返ってきた。
「少しだけ……このままで、いさせてください」
シルフィは目を瞬いた。
「……どうしたのですか?」
「……嬉しくて」
それだけだった。
けれど次の瞬間、彼の頬を一筋の涙が伝った。
「……はあぁ」
彼は笑おうとした。 けれど、うまく笑えず、一つ大きな息を吐いた。
「何度も駄目だと言われて、それでも諦められなくて……自分でも、馬鹿なんじゃないかと思ったこともあります」
「……はい」
「でも……今日、やっと……」
そこで言葉は途切れた。
シルフィは、何も言わずに彼の手を両手で包んだ。
「……待たせて、しまいましたね」
「……いいえ」
ユーロスは静かに首を横に振る。
「貴女が今、俺の隣にいてくれる。それだけで……全部、報われました」
彼女の瞳にも、静かに涙が滲んだ。
「……そうですか」
「はい」
ユーロスはようやく顔を上げた。
そこには、いつもの狂信的な熱も、冗談めいた大げささもなかった。
ただ、一人の女性に愛されることを知った男の、穏やかな笑顔があった。
「……ありがとうございます、シルフィさん」
「こちらこそ……ユーロス」
二人は、しばらく何も言わなかった。
ただ、繋いだ手だけが、十一年分の想いを確かめるように温かかった。
「…………」
静寂をやぶったのはユーロスだった。
ユーロスは立ち上がり、流れるままの涙も気にせず、シルフィと目線を合わせゆっくりと口を開いた。
「……ところで、シルフィさん」
「はい?」
「今夜から、妻と呼んでも?」
「……まだ婚礼も済んでいませんよ?」
「では婚礼を明日にしましょう」
「早すぎます」
「では今日」
「もっと早いです」
シルフィは涙の跡を残したまま、困ったように笑った。
「……本当に、貴方は変わりませんね」
「はい。貴女を好きなのだけは、十一年前から何も変わっていません」
「……それは、知っています」
今度はシルフィが、彼の手を少しだけ強く握り返した。
「い、行きましょうか。……誰かに見られたら、副団長の胃がまた大変なことになりますよ」
「構いません! むしろ王都中に触れ回ってきます! シルフィ様が、俺の求婚を受けてくださったと!!」
「な、なりません! そういう事はもう少し慎重にですねっ!」
いつものような騒々しいやり取り。
けれど、繋がれた手だけは、もう二度と離れないという確信を持って、強く、熱く結ばれていた。
二人の繋いだ手を、春の風がそっと撫でていった。 それは十一年前、泥だらけの少年が初めて知った、慈愛の風と同じ、優しい風だった。




