番外編③「友情の作戦、はじめての街デート」
恋人という「未知の制度」に足を踏み入れてから、数週間。
風の神殿の私室で、シルフィは山積みの書類を前に、人生最大の難問に直面していた。
「……何を着ていけば、正解なのでしょうか」
翌日は、ユーロスとの初めての非番、そして初めての「街デート」である。
三十三歳、世界の重責を担う『風の柱』。普段の彼女のクローゼットには、神聖な純白の法衣か、あるいは機能性を重視した騎士服のようなものしか存在しなかった。
「柱としての威厳は必要ありません。ですが、ただの三十三歳として……その、彼に『可愛い』と思われたいなどという、不遜な願いを抱いてしまい……っ」
悶々と悩み抜いた末、彼女が職務後に頼ったのは、かつての恋敵(?)であり、今は良き相談相手となったサティだった。
「……シルフィ様、本気ですか?」
サティの私室に持ち込まれたのは、シルフィが街の商人から取り寄せた「これなら無難」という地味な灰色の平民服。
「地味すぎます! 隠密任務じゃないんですから!」
サティは呆れたように叫ぶと、自身のクローゼットから淡い若草色のワンピースを引っ張り出した。
「いいですか、シルフィ様。デートは『女神』じゃなくて『一人の女』として行くんです。眼鏡もかけて、オーラを三割まで削ってください!」
サティによる徹底的なファッション指導――通称「女神脱却作戦」は、夜更けまで続いた。
そして、デート当日。
王都の広場にある噴水前、ユーロスは約束の一時間前から立っていた。
私服姿の彼は、騎士服の時よりも若々しく、薄茶色の髪が陽光に透けて王子様のような眩しさを放っている。
「……あの、ユーロス」
背後から、おずおずと声をかけられる。
振り返ったユーロスは、そこにいた「女性」を見て、手に持っていた待ち合わせ用の花束を落としそうになった。
若草色のワンピースに、つばの広い帽子。鼻筋には銀縁の眼鏡。
普段の威厳ある『風の女神』とは違う、どこか儚げで、けれど驚くほど愛らしい、一人の「シルフィ」がそこにいた。
「……あ、あの。変、でしょうか。サティ、さんにはこれがいいと言われたのですが……」
「…………」
「ユーロス?」
「…………結婚して、ください」
「そ、それは! ……いえ、今日はデートを、するのでしょう?」
真っ赤になって俯くシルフィに、ユーロスは心臓を押さえて深く天を仰いだ。
「……無理です。今日のシルフィ様は、世界中の風の精霊が嫉妬して狂うほどに美しい。眼鏡などという呪具で封じ込めても、その魅力が漏れ出しています!」
「大げさです。……さあ、行きましょう。誰かに見つかったら、副団長に何を言われるか分かりません」
二人は「隠密デート」という名目の、しかし誰の目から見ても幸せそうな恋人同士の散歩を開始した。
王都の目抜き通りは、冬の収穫祭を控えた活気に満ちていた。
シルフィは、フードの下で眼鏡の位置を何度も直しながら、落ち着かない様子で周囲を見渡す。
「……ユーロス。やはり、目立っていませんか? 先ほどから、すれ違う方々が皆こちらを振り返っているような気がするのですが」
「それは仕方のないことです、シルフィ様。貴女の放つ慈愛のオーラは、眼鏡ごときで隠せるものではありませんから。むしろ、皆が貴女に道を開けてひれ伏さないのが不思議なくらいです」
「それは単に変装した私を不審がっているだけでは……」
シルフィがため息をつくと、ユーロスはふわりと微笑んで、彼女の細い手をそっと取り、自分の腕に絡めさせた。
「大丈夫です。俺がしっかり守っていますから。……それより、あちらの露店で売っている『蜂蜜林檎のパイ』、シルフィ様の好物ですよね? 一緒に食べませんか」
「……あ」
好物を覚えられていたことに、シルフィの胸が甘く疼く。
二人はパイを一つ買い、公園のベンチで半分こにして食べた。
「……美味しいですね」
「はい。貴女と食べるものは、神殿の晩餐よりもずっと贅沢に感じます」
ユーロスの真っ直ぐな言葉に、シルフィは眼鏡の奥の瞳を細めた。
十三年間、世界の重責を担う『柱』として、常に与える側だった彼女。
今、こうして年下の恋人にエスコートされ、些細な日常を分かち合う時間は、何物にも代えがたい「救い」だった。
デートの終盤、二人は小さな装飾品店に立ち寄った。
ユーロスが選んだのは、シルフィの瞳と同じ碧色の石があしらわれた、簡素な銀の髪留めだった。
「……俺がいない時も、これが貴女の髪を守る盾になりますように」
「髪留めにそこまで重い意味を込めないでください……。でも、嬉しいです。大切にしますね」
夕闇が街を包み始める頃。
神殿へと続く坂道で、二人の影が長く伸びて重なる。
「……ユーロス」
「はい、シルフィ様」
「……また、連れてきてくれますか? 私は、とても不器用な、恋人ですが……」
「何度でも。貴女が望むなら、世界中の街へお連れします」
ユーロスは彼女の額に、誓いのような優しい口づけを落とした。
変装の眼鏡が少しずれたが、それを直すシルフィの手は、先ほどよりもずっと温かかった。
翌朝、神殿では「昨日、シルフィ様らしき女性と若い男性が手を繋いで歩いていた」という噂が流れた。
「……見間違いだ。シルフィ様が勤務時間外にそのようなことをするはずがない」
早速、副団長が物言わぬ顔で否定し回っていた。
そこへ、朝の巡礼を終えたシルフィが爽やかに顔を出した。
「おはようございます。昨日はとても楽しい視察でした」
「視察、だったんですね?」
「はい。視察です」
シルフィはにこやかに返す。
だが、その後ろから――
「最高のデートでした」
ユーロスが蕩けた顔でひょっこり顔を出した。
「お前は黙れ!」
副団長は今日も胃痛に悩まされ、その後ろではサティが呆れたように苦笑していた。




