第13話「騎士たちの凱旋」
神殿の朝は、いつもと変わらぬ静謐に包まれていた。
だが、シルフィの歩む回廊には、一つだけ足りないものがあった。
一週間ほど前、ユーロスは国境付近の魔物討伐の遠征任務に就いた。
彼が神殿騎士として、弱きを守るという信念を果たすための重要な任務だ。
シルフィは『風の柱』として、そしてこの世界を愛する同士として、誇りを持って彼らを送り出した。
しかし――
シルフィは自室の机で書類に目を通しながら、ふと羽ペンの動きを止めた。
開け放たれた窓から、心地よい風が入り込む。カーテンが微かな衣擦れの音を立てて揺れる。
視界の端、いつもなら純白のマントを羽織った大柄な影が、微動だにせず立っているはずの空間。
そこには今、午後の陽射しが四角く切り取られているだけだった。
手元のティーカップから立ち上る湯気を、そっと吸い込む。
侍女の淹れた紅茶は十分に美味しいはずなのに、いつも彼が絶妙な温度と茶葉の濃さで淹れてくれるそれとは、香りの立ち方がほんの少しだけ違う。
口に含むと、温かいはずの紅茶が、喉の奥で少しだけ冷たく感じられた。
カチャリ、とソーサーにカップを戻す。
その小さな音が、やけに大きく部屋に響いた。
(……静かですね)
誰に聞かせるでもなく、心の中で呟く。
以前、彼が風邪で寝込んだ時にも感じた“静けさ”だ。
だが、今は少しだけ質が違った。
あの時は同じ屋根の下に彼がいると分かっていた。今は、遠く離れた危険な空の下にいる。
彼なら大丈夫だと信じている。立派な騎士なのだから。
それでも、胸の奥にぽっかりと空いた小さな穴を、時折通り抜ける風がスースーと冷たく撫でていく感覚があった。
(……妙ですね)
彼が遠征に出る前も、この部屋は同じ広さだったはずだ。
同じ机。
同じ本棚。
同じ窓。
それなのに今は、どこか広すぎるような気がした。
思考を遮るように、小さく首を横に振る。
シルフィは再び羽ペンを取り、静かすぎる部屋の中で、黙々と書類に向かい続けた。
――そして、更に一週間後の夕暮れ。
西の空が燃えるような茜色に染まる頃、帰還の鐘が鳴った。
その瞬間、シルフィは読んでいた書類から顔を上げた。
ピタリと止まった羽ペンの先からインクが滴り、羊皮紙の上に小さな黒い溜まりを作る。
彼女はそれを見て、自身の呼吸すら止まっていたことに初めて気がついた。
シルフィは足早に回廊を抜け、中庭へと向かった。
並ぶ騎士たちの安否を一人ひとり確認していく。
そんな中、彼女の視線は自然とユーロスを探していた。
体格の良い長身。
見慣れた薄茶色の髪。
間違いない。
ユーロスだった。
彼の純白の騎士服は土埃と黒々とした血に汚れ、頬には幾つものかすり傷があった。
「シルフィ様……っ」
シルフィを見つけた彼はいつものように破顔しかけたが、その顔がすぐに曇り、深くうつむいた。
シルフィは真っ直ぐに彼を見据え、その前へと歩いて行く。
鼻先を掠める、土埃と濃密な鉄の匂い。
彼が厳しい任務を無事に終えて帰ってきたという確かな生きた匂いと、そして――部隊全体を覆う、重く冷たい『死』の匂いだった。
「ただいま戻りました、シルフィ様……」
いつもの、極端な求婚の言葉は口から飛び出さず、代わりに彼から訊いたことがないような低く重い息が漏れた。
「…………」
数秒の、無言の空白。
シルフィは即座に彼の異変と、隊列に空いた『いくつかの隙間』に気づいた。
隊列の空いた場所。
誰も持ち主のいない木杯。
いつもなら「おいユーロス」と笑う声が聞こえるはずの場所。
言葉を発しないシルフィに、ユーロスがようやく絞り出すように言葉を紡ごうとした。
「……シルフィ様、あの――」
シルフィは、こみ上げる名状しがたい安堵感と、同時に押し寄せる氷のような絶望を静かに飲み込み、『風の柱』としての威厳ある顔で声をかけた。
「……おかえりなさい、ユーロス。よく、戻りましたね」
「っ……!」
彼女の柱としての役割を、彼は一時も忘れたわけではなかった。
だが、今こうして、上官としての立場からまざまざとその現実を突きつけられ、彼はその場に膝から崩れ落ちた。
中庭の土の上に蹲る彼を、シルフィは一つ大きく息を吸い込んでから、静かに見下ろした。
「……あ、あああぁぁ…………ッ!!」
彼は、慟哭した。
「……立ちなさい」
そんな彼に、シルフィはいつもより冷気を孕んだ声を降らす。
「俺……、俺がっ! 俺が奇襲を提案したのに……もっと、もっと俺が動けていれば……っ」
「ユーロス、立ちなさい」
今度は先ほどより強く、彼女が言い放つ。
そしてようやく彼が顔を上げた。
その顔はいつもの溌剌としたそれからは程遠く、大粒の涙と土埃でひどく汚れ、歪んでいた。
「俺、助けられなかった……! ケイロン先輩を……っ」
シルフィの瞳が、大きく揺れた。
「俺がもっと強ければ……!」
「……ユーロス」
「俺のせいで――」
「口を慎みなさいッ!」
シルフィはユーロスの襟首を両手で掴むと、力任せに彼を立ち上がらせた。
「……シルフィ、さま……?」
初めて聞くシルフィの怒号。
目に火花を散らす彼女を前に、ユーロスは尚も顔を崩した。
「ケイロンは立派な騎士でした! あなたのその思い上がりは、最後まで戦い抜いた彼らに対する侮辱です! 身の程をわきまえなさい!」
「……あ、あぁ……俺……っ」
「新兵一人でどうこうなった相手だったのですか? 一人の強者で覆せた戦況だったのですか? ……それは、その場にいたあなたが誰より解っているはずでしょう……っ」
「……シルフィさま……すみません……すみません……っ!」
「ですから、あなた一人が謝らないでください! その責を、あなただけが背負うことは許しません……っ」
シルフィの顔は、大粒の涙で濡れ、いつもの完璧な女神の微笑みは無残に崩れ去っていた。
その両手に力を込め、彼の肩を強く叩く。
「足りなかったと思うのなら、足りるまで努力なさい。あなたも、私も……まだまだ、途上なのですから」
シルフィはそれだけ言うと、彼から手を離し、背中を向けた。
両手で顔を拭い、隊列に向き直る。
「この度の討伐遠征、本当によくぞこなしてくださいました!」
その目にはもう、柱としての絶対的な威厳が戻っていた。だが――
「帰れなかった者たちに、心からの……愛と……慈悲、を……っ」
飲み込みきれなかった悲しみに、声が震え、切れた。
彼女もまた、ケイロンを喪ったのだ。悲しんでいるのは、自分だけではない。柱として、彼女は騎士全員の死を背負っている。
「黙祷っ!」
赤黒い夕陽の下に、彼女の張り詰めた声が響き渡る。
誰もが右手を胸に当て、深く目を伏せる。
夕焼けに染まる静寂だけが、自分たちが死地から戻ったのだと告げていた。
その中で、歯を食いしばり、涙に咽び泣く若き白騎士は決意を改めていた。
(もう二度と、あんな顔をさせはしない……。シルフィ様にも――仲間にも……!)




