第12話「女神なき戦場」
国境付近の深い森。
木々の間にひっそりと設営された神殿騎士団の夜営地には、冷たい夜風と、ピリッとした緊迫感が張り詰めていた。
天幕の中で、わずかなランプの灯りを頼りに広げられた地図。その周囲を囲む騎士たちの顔は一様に険しい。
今回の討伐対象である魔物の群れは、想定よりも規模が大きく、かつ動きが組織立っていた。
「……現在、敵の主力はこの谷底に集結しつつある」
支部長が地図を指差しながら、重々しい声で告げる。
「やはり、援軍を待つべきか……?」
重い沈黙が天幕に降りた、その時だった。
「いえ、明日の夜明けに合わせ、敵が動き出す前にこちらから奇襲をかけるべきです」
静かに、けれど確かな自信を持って声を上げたのは、ユーロスだった。
彼は地図上の一点を指差す。
「この谷の地形と日の出を計算すれば、魔物は朝陽を正面にします。眩んだ中、崖上から魔術による先制攻撃を仕掛け、敵の指揮系統を初撃で崩せば、数は脅威ではありません」
「しかし、その崖上へ部隊を展開するには、暗闇の中、獣道を進む必要があるぞ」
「私が先導します。私の脚と魔力操作で十分に部隊を誘導できます」
迷いのない真っ直ぐな瞳と、理路整然とした戦術。
先ほどまでの重い空気を打ち破るような若き騎士の頼もしい提案に、支部長をはじめ、周囲の先輩騎士たちも深く頷いた。
「……よし。ユーロスの案でいこう。明日の未明に出立だ。各自、それまで休息を取れ」
軍議が解散となり、天幕を出たユーロスは、夜営地の見張りにつくため焚き火のそばへと腰を下ろした。
剣の手入れをしながら、暗い森の奥へと鋭い視線を向ける。
その横顔は、神殿で見せるような呆けたものではなく、冷徹で研ぎ澄まされた刃のような『最強の騎士』のそれだった。
「お疲れ、ユーロス。見事な作戦立案だったな」
ふいに声が掛かり、温かい野営用のスープが入った木杯が差し出される。
面倒見がよく、普段から彼を気にかけてくれている先輩騎士、ケイロンだった。
「ありがとうございます、ケイロン先輩」
「全ったく……。お前、戦場にいる時は本当に、背筋が凍るほど優秀で頼りになる男だよな」
隣に腰を下ろしたケイロンは、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに息を吐いた。
「なんで神殿にいる時――シルフィ様が絡むと、あんなにポンコツになるんだ?」
「ポンコツとは心外です。俺は常に、あのお方に真剣に愛を伝えているだけですから」
「報告書の追伸に堂々と恋文を書く奴が言うな。副団長が頭抱えてたぞ」
ケイロンのツッコミにも、ユーロスは微塵も悪びれることなく、熱いスープを一口飲んだ。
「事実を記したまでのことです。シルフィ様はその気高い心だけでなく、お姿も最高に麗しいのですから。離れていても、その輝きは俺の脳裏から片時も離れることはありません」
「あー、まあ、あれな! 確かにシルフィ様は、三十超えてるとは思えないくらい美人だよな!」
ケイロンが軽い相槌のつもりで笑いながら言った瞬間、ユーロスの眼光がスッと鋭くなった。
「ケイロン先輩」
「お、おう?」
「あのお方は年齢などという瑣末な数字を超越して、過去も現在も未来も、いついかなる時も常に麗しいお方です。そもそもあの若葉のような透き通る御髪と、深い慈愛を湛えた碧い瞳、そして時折見せてくださる――」
「わかった! わかったわかった! 俺が悪かった、頼むから戦場で語り出すな!」
早口で熱弁を振るい始めた後輩の肩を、ケイロンは慌ててバンバンと叩いて制止した。
まったく、とケイロンは苦笑する。どこまでもブレない、重すぎる男だ。
「……シルフィ様は、俺の魂の恩人です」
ふと、ユーロスが焚き火の炎を見つめながら、先ほどまでの熱狂をスッと引かせ、静かに口を開いた。
その声には、いつものような騒がしい熱はない。
ただ、心の底から一人の女性を敬愛し、尊ぶ、静かで深い情熱だけがあった。
その空気を察し、ケイロンは黙って彼の言葉を聞く。
「あのお方は、自分のために生きないんです」
ユーロスは焚き火を見つめたまま言った。
「だから俺が剣を振るうんです」
「……」
「俺がここで魔物を一匹でも多く討ち果たせば、あのお方が悲しむ悲劇が一つ減る。あのお方が穏やかに微笑んで過ごせる明日を作ることができる。……俺の戦う理由は、ただそれだけです」
燃え上がる炎を映すユーロスの瞳には、一切の迷いがない。
その揺るぎない覚悟と高潔な魂に、歴戦の騎士であるケイロンも思わず言葉を失い、ただ静かに聞き入っていた。
「……だから、俺はこんなところで死ぬわけにはいきません。何が何でも任務を完遂し、生きて帰り、あのお方の隣で生涯を支え続ける男になります」
大真面目に言い切った後輩の顔を見て、ケイロンは小さく息を吐き出し、やがてフッと口元を緩めて、その広い肩をバシッと力強く叩いた。
「……いい覚悟だ。なら、明日の戦い、絶対に死ねないな」
「当然です。帰還したら、一番にシルフィ様の御顔を拝見し、求婚しなければなりませんから」
「ははっ! お前、本当にそこだけはブレねえな!」
ケイロンの明るい笑い声が、緊迫した夜の森に少しだけ温かい空気を運んだ。
「……シルフィ様」
ケイロンが天幕へと戻った後。
ユーロスは一人、焚き火のそばで夜空を見上げた。
木々の隙間から覗く星空は、遠く離れた風の神殿まで続いている。
明日には血生臭い死線が待っている。
彼の胸の奥には、愛する主君の気高い微笑みと、彼女を守り抜くという絶対の決意だけが、夜空に残されたたった一つの星のように、静かに瞬いていた。




