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30. 灰は、まだ喋る

 監査院が侍従長府の薬種蔵の検めを決めた、その前夜。


 厨房の裏手で、火の手が上がった。


 乾いた半鐘の音に、王宮の夜が骨組みごと目を覚ます。廊下を走る足音、桶の水音、火の粉のはぜる音。夜気は煙で辛く、月は煤の膜の向こうで滲んでいた。


 半鐘の音で跳ね起きて駆けつけると、厨房の裏手に建ち並ぶ蔵のうち、侍従長府の管掌する例の薬種蔵から、煙が這い出ていた。蔵の管掌は府でも、燃え広がれば厨房まで一息の距離である。バケツの列の先頭には、言うまでもなく熊がいる。純白の帽子を煤で汚し、勲章の前掛けを焦がしながら、グレゴールさんは火を蔵の一角で封じ込めた。


「うちの縄張りで、火遊びしやがった」


 低い声が、燃え残りの梁より熱い。「油壺の置き場が、昼と違う」。消し止めた熊は、それだけをぼそりと付け足した。自分の縄張りの棚割りを、この人は匂いと歩数で覚えているのである。幸い、怪我人はなし。焼けたのは薬種蔵の棚、一列だけ。倒れた灯明と、こぼれた油壺。誰がどう見ても、夜番の不始末による小火である。


 誰がどう見ても、そう見えるように、である。


       ◇


 夜が明けてから、私とリヒト様は灰の中に膝をついた。


 検分と言えば聞こえはいいが、傍目には、灰を舐める娘と、灰を秤に載せる白衣である。趣味の悪い絵面なのは百も承知の上だ。朝の光が焼け跡の水たまりを白く光らせて、煤の匂いの中で、雀だけが呑気に鳴いていた。焼け跡の匂いの底を、ゆっくり探る。炭の匂い、油の匂い、焦げた薬草の、ちりちりと尖った名残。……その奥に。


 まぶたが、上がる。


 あの陰干しの癖は、灰になっても消えていなかった。火を使わずゆっくり干された薬草は、繊維の芯に癖が残る。焼け残りの芯を舐めれば、まだ喋るのである。


「兜草。白鈴。それから月影草の根も。……この棚には、北方の陰干しの品が、まとめて置いてありました」


「台帳と突き合わせよう」


 薬種蔵の台帳に、その棚の欄はこうあった。『南方産香料、樟脳(しょうのう)、防虫ノ類』。毒草の記載は、一行もない。


「台帳に無いはずの品が、燃えている」


 リヒト様が、灰の秤から顔を上げた。片眼鏡の奥の目が、静かに光っている。


「分かるかい、毒見役殿。これは失火じゃない。焼却だ。そして焼却は――『そこに在った』ことの、何よりの証明だよ。無い物は、燃やせない」


 隠すための火が、在り処を白状する。手帳に、一行書いた。『七度目。灰デモ、分カル』。監査院の検めが入る前夜に、台帳に無い毒草の棚だけが燃える。この符丁の意味を読み違えるほど、監査の老骨たちは甘くないだろう。隠滅の工作は、そっくりそのまま、新しい証拠の山になった。


       ◇


「いやはや、いやはや。……王宮の内で火とは、なんたることじゃ」


 昼過ぎ、焼け跡に、皺ひとつない侍従長服が現れた。


 オルデン様は夜番の不始末を嘆き、蔵の建て直しを指図し、煤だらけのグレゴールさんを労い、それから、灰の縁に立つ私を見て、柔和な垂れ目を深く下げた。


「検分、ご苦労さまですなあ。……して、何ぞ、出ましたかな」


「灰が、少し喋りました」


「ほう。灰が」


「年寄りの繰り言のようなものです。半分は、聞き流していただいて」


「ほっほ。……いやいや、灰の言葉は、聞き逃さぬがよろしい。年寄りというものは、そういう声を侮った者から先に、転びますのでな」


 湯たんぽのような声は、今日も温かい。温かいまま、一拍だけ、間が空いた。


「――いやはや。まことに、怖い方が来てくださった」


 いつかの廊下と、同じ台詞である。私も、同じ札を返した。


「出してくだされば、見つけますので」


「ほっほ。……頼もしい限りじゃ」


 深い笑い皺の奥で、目が、笑っているかどうか。灰の匂いの中で、私はそれを、初めて確かめようとして――やめた。確かめるのは、舌と紙の仕事である。人の目玉は、毒と違って、いくらでも嘘をつく。


       ◇


 その日の夕餉は、静かだった。静かすぎた。敵の次の手が読めない夜の静けさは、どんな毒より寝覚めに悪い。


 二日後の朝だった。


 部屋の扉が、硬く叩かれた。寝起きの顔で開けると、廊下には衛兵が四人。見覚えのある顔ぶれが、見覚えのない硬さで立っていた。


「毒見役どの。……申し訳ないが、部屋を検めさせていただく。毒物隠匿の疑いにより」


 衛兵たちの後ろで、柔和な垂れ目が、深く、深く、悲しげに下がっていた――。


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