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21. 仕返しの一服は、量が優しい

 いつの頃からか、殿下の夜食に付き合うのが習いになっていた。


 執務が長引いた夜の、小さな書斎である。焼き直した麺麭(ぱん)と、冷めにくい豆の汁物、それに茶が二人分。夜食の献立は、消化と眠りを考えてグレゴールさんが組む。「夜中に重いモン食わせて、寝られなくなったらテメエの責任だからな」と、毎度こちらを睨みながら盆を寄越すのが、あの熊の照れ方である。


 給仕を下がらせた後の、燭台一つきりの時間だ。窓の外で、細い夜風が生垣を撫でる音がする。書類の山は隅に追いやられ、湯気だけが小さな卓の真ん中にいる。毒見役が同席する理由は、むろん検めのためである。茶が二人分である理由は……事務の効率、ということに、してある。


 最近、気づいたことが一つある。殿下の目の下の隈が、薄くなってきた。頬にも、わずかに肉が戻っている。初めてお会いした夜、食卓に着きながら食卓からいちばん遠い顔をしていた方が、いまは湯気の高さまで、ちゃんと降りてきている。三年ぶんの絶食めいた警戒が、食卓から少しずつ引いていくのだ。それを近くで眺めるのは、給金に含まれない類の、悪くない報酬だった。


 その夜の異変は、湯気の向こうにあった。


 二つ並んだ茶器の、私の側。ひと口含んで、まぶたは――上がらない。上がるほどの毒では、ないのである。


「……私の茶にだけ、眠り草が入っています」


「なに?」


「南方の株を、蜜で渋抜き。面接の時と同じ配合ですが、量はさらに優しい。眠っても、朝にはすっきり覚める程度です」


「俺の茶は」


「白です。ごゆっくりお冷ましください」


 殿下の眉間に、危険な皺が寄った。夜半に衛兵を呼びかねない顔である。私は先回りして、残りの茶を飲み干した。


「毒の帳簿には、載せません。これは毒ではなく――仕返しですので」


       ◇


 茶を運んだのは、殿下付きの古株の侍女さんである。翌日、洗い場の裏でお話を伺うと、彼女は三度目の瞬きの前に、ぽろぽろ泣き出した。


 曰く。三年間、食の細い殿下を案じて、粥の炊き方を七通り覚えた。曰く、匙の進まない膳を下げるたび、自分の不甲斐なさを数えたという。見せてもらった彼女の小さな帳面には、三年ぶんの「お残しの品」が、日付ごとに細かく書き付けてあった。何なら召し上がれるか、明日は何なら――そういう祈りの形をした帳面である。私の毒の帳簿と、ちょうど対になる。


 曰く――近頃の殿下は夜食を綺麗に平らげるのに、その席に自分は要らず、いつも毒見役がいる。


「……悔しくて。あの、ほんの、少しだけ、居眠りでもしてくださればと」


「量の選び方が、お見事でした」


「え」


「朝には覚める量。障りの出ない蜜の渋抜き。……あなたは殿下のお体に障る一服を、選びませんでした。三年ぶん、殿下の食卓を見てきた方の量です」


 侍女さんは、しばらく黙って、それからまた別の泣き方をした。眠り草の残りは没収である。次は帳簿に載ります、とだけ申し添えた。仕返しは可愛いもので済むうちが、花である。


 別れ際、彼女は洗い立ての前掛けで目元を押さえて、深々と頭を下げた。


「……殿下の膳を、お願いします。あの方は、その、お残しになる時、必ず一度、匙を置いてから謝る目をなさるので」


「存じています。最近は、その目をなさいませんが」


「はい。……はい、それが、悔しくて、嬉しいんです」


 嫉妬というのは、たぶん、忠義の裏地の名前である。彼女の帳面の続きが、白いままでありますように。柄にもないことを、少しだけ思った。


       ◇


 その夜の夜食は、平和だった。麺麭と、汁物と、何も入っていない茶が二人分。


「……茶が、うまいな」


「今夜は、何も入っていませんので」


「そういう意味では、ない」


 殿下は湯気の向こうで、少しだけ言葉を探して、それから諦めたように言った。


「会食も、茶会も、政の卓も、騒がしい。……君のいる食卓だけが、静かだ」


 静かなのは、私が口数の少ない毒見役だからである。そう返すつもりだったのに、なぜか言葉が匙より重く、私は汁物を一口飲んで誤魔化した。燭台の火が、二人分の湯気を橙色に染めている。壁の影が、卓の上でひとつに重なっている。……契約範囲の、はずである。この胸の妙な温度に、項目名は付けない。付けたら負けな気がする。何にかは、知らないが。


「――そうだ。伝えておく。隣国の使節が来る。三年ぶりの、公式の会食だ」


 湯気の向こうの隈の薄い顔が、政の顔に戻る。三年ぶり。つまり、失敗の許されない食卓である。


 昼寝の予定表を、また書き直さねばならない――。


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