帰り道、恋が始まった。
夕方の電車は、どこか疲れた空気をまとっていた。
講義とバイトを終えた大学生なおきは、吊り革につかまりながらぼんやりと窓の外を眺めていた。
(今日もまあ、いつも通りだったな)
人付き合いが得意で、誰とでもうまくやれるタイプのなおきにとって、大学生活は順調そのものだった。友達も多いし、困ることはほとんどない。でも――
「なんか、ちょっと退屈かもな」
小さくつぶやいた、そのときだった。
「ねぇ〜〜、ちょっと聞いてよぉ〜〜!」
突然、隣からぐいっと腕を引っ張られる。
「えっ?」
振り向くと、そこには顔を赤くした女性が立っていた。20代前半くらいだろうか。ふわっと花の香りがする。少し乱れた髪と、にじむような笑顔。
「なんで男の人ってさぁ〜、連絡返さないの〜?ひどくない〜?」
完全に酔っている。
「え、あの…俺ですか?」
「そう、あなた!今決めた!」
「今!?」
周囲の乗客がちらっとこちらを見る。なおきは少し困りながらも、自然と笑ってしまった。
「いや〜、それは人によるんじゃないですかね」
「ずるい答え〜!」
まおはむっと頬を膨らませる。子どもみたいな表情だった。
その仕草が、妙にかわいく見えて――
その瞬間、なおきの胸の奥が、ふっと熱くなった。
(……あれ?)
初めてだった。こんな風に、誰かを見て一瞬で惹かれるなんて。
「あなた、名前は?」
「なおきです」
「なおきくんね!私はまお〜。お花屋さんやってるの!」
「花屋さんなんですね」
「そう!お花ってさぁ、人をちょっとだけ元気にするでしょ?」
まおは、くしゃっと笑った。
その笑顔は、さっきまでの酔っ払いの顔とはまるで違っていて、どこか優しくて、まっすぐだった。
なおきは、なぜか目が離せなくなった。
「……いい仕事ですね」
思わず、そんな言葉が口からこぼれる。
「でしょ〜?だから頑張ってるの。でも今日はちょっと飲みすぎた〜」
「見ればわかります」
「ひどい!」
二人で笑う。
電車の揺れが、少しだけ心地よく感じられた。
やがて、アナウンスが流れる。
「次は――」
「あ、私ここだ」
まおはよろよろと立ち上がる。
「大丈夫ですか?降りれます?」
「たぶん〜」
そう言いながらも、ふらっとよろける。
「危ない」
なおきは思わず腕を支えた。
その距離の近さに、少しだけドキッとする。
「ありがと、なおきくん」
まおは、にこっと笑って、電車を降りる直前、振り返った。
「また会えたらいいね!」
ドアが閉まる。
電車は、ゆっくりと動き出した。
なおきはその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
(……完全に、一目惚れだ)
名前と、花屋で働いていることだけ。
それだけしか知らないのに。
それでも、もう一度会いたいと強く思っている自分がいた。
なおきは小さく笑う。
「退屈とか言ってたの、撤回だな」
窓に映る自分の顔は、少しだけ楽しそうだった。
――その出会いが、二人の物語の始まりになるとは、まだ知らない。




