【第一話】トイレの花子さん
人間界へ続くトンネルの待合室はレンガ造りで、木製のベンチが等間隔に八つ並べられていた。広さは花子の暮らす「影送りの里」の食堂と同じ――教室より少し大きいくらいだ。三月の下旬だったけど、待合室の中はそこまで寒くはなかった。
今は午前三時すぎ。妖怪と人間は活動時間が一二時間ずれているので、多くの人間が眠りについている時間だ。花子は、トンネルの前にいる山彦に、券売機で買った切符を示した。山彦は、枯れた草のような色をした、犬とも豚ともつかない顔を持つ大男だ。人間の駅員のような制服を着ている。
「また観覧車から落ちに人間界へいくのか」
山彦が悪気なくこういうことをいう妖怪なのは分かっていたけど、少しだけむっとした。三か月前、花子は身を乗り出しすぎて人間界にあるデパートの観覧車から落ちてしまったのだ。高さは五メートルほどあったけど、少し足をひねっただけだった。あわてて姿を消して逃げたものの、監視カメラには映っていたらしく、二か月後に放送された人間界の心霊番組では花子の姿がしっかりと報じられてしまった。映像の花子は背中から白い帯のようなものを出しながら転落し(白い帯が何なのかは花子にもよく分からないけど、とにかく人間界のカメラにはそう映っていた)、地面にたたきつけられた直後に消えていた。先生からはひどくしかられて、一か月間人間界にいくのを禁じられた。
「まあ、気をつけることだ」
山彦が、花子の切符をはさみでちょんと切って道を開けてくれた。
トンネルに入るとすぐに目の前が暗くなり、次の瞬間白いタイルばりの壁が現れた。ここは、人間界の岡山県にある、小学校の三階の女子トイレだ。個室から出ると、鏡に自分の姿が映った。白いカジュアルなブラウスを着て赤いプリーツスカートをはいた、小学校高学年くらいの姿だ。髪は少し毛先のはねたショートカットだった。肩には真っ赤なナップサックを背負っている。ほとんど人間と同じ外見だけど、目は瞳孔が開ききっていて、虹彩にあたる部分がほとんどなかった。
花子は人間界で「トイレの花子さん」と恐れられる妖怪だった。校内にきも試しにきた子どもに何度かうっかり見られただけであって、悪気はない。今日人間の世界にやってきたのも、人間をおどろかすためではなく買い物のためだ。花子の目当ては、人間界で発売されたアニメのDVDだった。花子の住む妖界でも人間界から取り寄せたものは売っているけど、妖界まで出回ってくるのに時間がかかる上に割高なので、わざわざ人間界まで足を運ぶことにしている。
花子は自分の姿が消えたのを鏡で確認したあと、トイレのドアの隙間から廊下に出た。妖怪は、人間界では人から姿を見えなくすることができる。前に大人向けの難しい本で「妖怪と人間は住む世界が違うので相手を認識できないことがある」だとか「意識して認識されないように行動できるようになれば、人間に見つからないように行動することができる」だとか「ただし『ドアを開ける』など人間界のものを動かしてしまうとそれがきっかけで見つかる恐れがある」だとか説明されていた。読んでその時は「なるほど」と思ったけど、細かいことは忘れてしまった。ただ、理解できなくても実行することは簡単だった。ささいなミスで見つかってしまうことも少なくはなかったけど。
無人での警備ができるようになった現代では、深夜の校内で人間を見ることはほとんどなくなった。それでもたまに、仕事で残っている教職員や防犯装置をかいくぐって侵入する子どもがいるから、油断はできなかった。
花子は、正門前の玄関から外に出ることにした。妖怪は、人間界ならちょっとした隙間を液体のように通り抜けることができる。昔読んだ本に「人間と妖怪の体を構成する物質はそれぞれ異なり、他方が別の世界にいくと物質の互換性がないため、元いた世界では起こりえない異変が体に起きることがある」だとか「例として、我々は人間界ならば二~三ミリの隙間を通り抜けることができる」だとか書いてあったけど、難しかったのでくわしくは覚えていない。ただ、花子の暮らす「影送りの里」のフタクチ先生が「調子に乗ってせまい隙間に入ってはだめよ。人間界の地面の奥深くには、妖怪の死体がたくさんあるの。彼らはみんな、ふざけて岩の隙間を通り抜けて地球の裏側にいこうとして、途中で地殻変動が起きて閉じこめられてしまったのよ。そうなりたくないなら、できるだけ人間と同じ道を通りなさい」と花子をおどしたことはよく覚えていた。危ないことをさせないようにしたい先生の気持ちはよく分かるけど、その話を聞いた日は人間界の地面の奥深くに閉じこめられる夢を見るはめになった。
(今はもう、ただの子どもだましなおどしだって分かる。でも――)
花子は、先生のその話が妙に心に引っかかっていた。夢の中で閉じこめられている自分は、なぜかまだ赤んぼうだった。冷たくつるつるとした地面、自分を見おろす二つの影、妙に印象的なものばかりが出てきた夢だった。奇妙な夢ではあったけど、不思議と怖くはなかった。
二階におりて音楽室の前を通った時、音楽室の引き戸が少し開いていることに気がついた。夜なら普通、施錠されているはずだ。引き戸に近づき、そっと中の音を聞いてみる。音楽室の中からがさがさという紙がこすれるような音がした。気にはなったけど、まずは目的をすませることが優先だ。一階におりて玄関前の校務員室の前を通りすぎようとした時、不意にドアが開いて廊下が懐中電灯の明かりで照らされた。
「あたしにぶーぶーいってもしょうがないじゃん、香奈美が悪いんだよ」
「違うよ、先生が悪いんだよ、教科書がないとできないような宿題出すんだもん」
校務員室から二人の少女が姿を現した。セミロングの大きい目をした子は、花子と見た目の年齢は同じくらいだった。そのとなりにいる香奈美と呼ばれた子は、いくぶん幼そうだ。目は切れ長で、髪を二つに分けて後ろに流している。
「で、香奈美の教室はどこなのさ?」
「三階の奥だよ、お姉ちゃん前きたことあるじゃん」
「それが学校に忘れ物した人の口の聞き方?」
どうやら、こっそり忘れ物を取りにきた姉妹のようだ。どうやって警備会社のセンサーを作動させずに入ったのか気にはなったけど、花子には関係のないことだ。玄関のガラス扉の隙間から液体のように外に出て、店へ急いだ。
DVDの購入を終えた花子は、玄関の隙間から校舎に忍びこんだ。音楽室の扉はまだ開いていた。気になって音楽室の中をそっとのぞいてみたけど、人気はなかった。ただ、天井の方から誰か大勢の視線をあびたような気がした。花子は音楽室の中に足を踏み入れる。物音一つしなかった。壁には音楽家の肖像画がかかげられている。肖像画の下には色紙で作った手書きの名札がはってあるので、花子でも名前が分かった。
(視線の正体はこれかな? ……いや、肖像画に見つめられてる気がするとか、そういうのとは違う)
肖像画の目が、いっせいに花子を見おろしているように見えてしかたがなかった。背中がむずむずとうずくのを感じる。花子は、おどろいたり怖いことがあるといつも背中に違和感を覚えるのだ。
(いや、考えすぎだよね。肖像画におびえたりして、いい歳して情けない)
帰ろうと回れ右をした時、音楽室の外から声が聞こえてきた。あの姉妹のようだ。
「あれ、お姉ちゃん、何でベートーヴェンの絵が廊下に落っこってんの? それに、何十枚も」
「あたしに聞かないでよ、分かるわけないじゃん」
「音楽室のドア、開いてない? 何か怖い、早く帰ろうよ」
その時だった。二人の短い悲鳴が聞こえ、引き戸ががたがたとゆれたかと思うと、すぐに静かになった。思わずその場に伏せたけど、何も起きない。外から地虫の音だけが響いてくる。よく分からないけど、あの姉妹に何かあったのは間違いなかった。
ゆっくり廊下に出てみると、引き戸の前に『あたらしい算数 3年』という教科書が落ちていた。「きゅっきゅっ」という何かがこすれる音が遠くから聞こえる。廊下の曲がり角に身を隠して様子をうかがうと、男のような影が、姉妹を姉妹のえり首をつかんで引きずっていくのが見えた。男は下半身がなく、少しだけ浮いている。金髪を逆立てて、黒いタンクトップを着ていた。背中には剪定に使う大きなはさみを背負っている。腕や首筋にある点々は血のようだ。
(体に飛んでいる血しぶきはあの子たちのものじゃない。もともとそういう外見をしているんだ)
花子はかなり人間に近い外見をしているけど、妖怪はグロテスクな外見をしていることが多いものだ。恐らく、彼にとってはあの外見が普通なのだろう。
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