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その日の真夜中、ヨエルは誰もいないリビングで、鬱々として仕事も手につかずソファーに寝転んで目を閉じていた。片付けや掃除、シーラの仕事の整理……何をしていても、考えてしまう事が多くあった。それはほとんどがシーラの事で、ヨエルの頭の中で彼女の隣にはいつもレイフがいて、彼女の口から溢れる名はアレクシスで、彼の前で見せる笑顔はとても綺麗で……そして、自分はどこにもいなかった。
今までは、シーラが目を向ける対象が存在しなかったから、彼女の側には自分しかいなかったから、ヨエルは恋心を秘めながらも心穏やかにいられた。そこに、レイフという乱入者が現れて、いつシーラの心を持っていかれるかと戦々恐々とした。そうかと思うと、シーラは鮮烈な一目惚れのような恋をした。もう、何が何だか、と思考が渦を巻き、結局最後には心に絶望だけが残る。
思考を放棄する為に眠ってしまいたくても、昼に睡眠をとっているので、全く眠くならない。昼にしっかり寝てしまうのだって、見たくないものを見なくて済んで、何も考えなくて済むからなのに、夜にはそれが裏目に出る。寝たい、寝たい、眠ってしまいたい。そう思えば思う程に目が冴えた。
突然、シーラの寝室の扉が開く音がしたので、ヨエルは起き上がった。
「眠れないの。お水をもらえる?」
ヨエルはシーラをソファーに座らせると、しばらくキッチンに引っ込んで彼女のためにホットミルクを用意した。
「ちょっとおまたせしたけど、眠れない時は、水よりこっちの方がいいですよ」
彼はシーラにカップを渡し、自分も隣に座った。
「ありがとう。ヨエルはいつも気がきくわね」
シーラと二人でソファーに腰掛けているのは、思えば久しぶりだった。ーー彼女の不眠の原因は、彼女にそんな憂いた目をさせるのは、今彼女の心を占めているのは……。それを考えてしまうと胸をかきむしりたくなる思いだった。しかし、ヨエルは今のこの、ホットミルクを飲む間だけの二人きりの時間を、楽しんだ。
彼はたった一、二ヶ月前の、それなのに随分昔の事に感じられる、幸せだった頃を思い出した。少しもどかしくも、暖かく穏やかだった日々を。でももう、あの頃を完全に思い出すことはできなかった。自分の醜さを知ってしまったから。
シーラはカップを前のテーブルに置くと、唐突にヨエルに寄りかかった。
「ねえ、ヨエル。しばらくこうしていてもいいかしら? 一人でいると、寂しくてどうにかなってしまいそうなの。愛する方にお会いしたその夜は、尚更ね」
ヨエルは戸惑いながら、寄りかかるシーラをそっと抱きしめた。彼女にとって本当に抱きしめて欲しい相手は自分ではなくて、彼女の心はここには無くて、こちらの気持ちなんか微塵も考えていないのは、痛いほどに分かっていた。それでも彼女の望む通りにした。
「あなたは本当に……残酷な人ですね」
天井を仰ぎ見ながら、ヨエルは聞こえるか聞こえないかの、小さな声でつぶやいた。
愛する人をただ抱擁しているだけなのに、こんなに苦しいことがあるだろうか。本当は幸せなはずのこの時間を素直に楽しめば良かったのに、シーラが焦がれる相手への嫉妬が、胸の奥をじわりじわりと締め上げて、息苦しいほどだった。
そうやってどれだけの時間がたったのかわからないが、シーラが寝息を立て始めたので、ヨエルは彼女を寝室に運んだ。彼は少し迷ったあと、いつも通りに、彼女の額にキスをした。
ヨエルはキッチンに、空になったシーラのカップを持っていった。そしてカップを洗いながら、ふと目に入ってきたものをなんとなく、手に取った。
ーーなんで、こんなに簡単な方法に今まで気が付かなかったんだろう、と、彼は思った。ずっと眠っていてしまえばいいのだ。昼も、夜も。そうすれば、なにも考えなくて済むし、何も見なくて済む。自分の中の醜い心に苦しめられることもない。せめて、いつまでもシーラの記憶に留まってやろう、という意地悪な気持ちも恐らくあった。素敵な思いつきのおかげで、久しぶりに、ほっと気が抜けて胸の苦しさが和らぐ。
ーーヨエルは首筋に、手にしたナイフの刃をあてた。
むせかえるような血の匂いで、レイフは目を覚ました。家の中でこんな匂いがするのはおかしいが、ひょっとしたら、またシーラが怪我をした動物でも拾ってきたのかもしれない、と思った。でもそれにしては、新しい匂いもない。いったいなんだろうと、彼は様子を見に、警戒しながら部屋を出た。
レイフが匂いの元をたどってキッチンに行くと、ヨエルが大量の血を流して床に倒れていた。床には血溜まりができ、そこかしこには血が飛び散っていたり、もがいた彼が触れたと思われるいくつもの箇所に赤い手形が付いていたり、キッチンはゾッとする異様な空間になっていた。
家の中に新しい匂いはない。だとしたら、この惨状をつくったのはヨエル自身だと、レイフは判断した。彼はノックもせずにシーラの寝室に入り、彼女を揺り起こした。
「シーラ! シーラ! ヨエルを助けてあげて!」
シーラはレイフの緊迫した声に何事かと飛び起き、レイフに手を引かれてキッチンに行った。彼女は目の前の凄惨な光景に息を飲んだ。
「一体、何が……。だって、私……さっきまで……」
シーラはヨエルに恐る恐る触れ、脈や呼吸を確認した。
「どうしよう……。脈がわからない。呼吸も……。まだ間に合うかしら? 私の魔法で、なんとかなるかしら……」
シーラはヨエルの首筋に手をあてた。傷があるのは首だけではない。胸にも、腹部にも、刺したような傷があった。彼女は、彼を助ける長い呪文を唱えた。嗚咽で所々、言葉を途切れさせながら。
翌朝、シーラは自分のベッドの上で目を覚ました。
ーーきっと、またソファーで寝てしまった私を、ヨエルが運んでくれたのね。彼女はまどろみながらそんなことを思った。ヨエルの鳴き声が聞こえないけれど、私はいつもよりちょっと早めに起きてしまったのかしら?それとも、寝坊に呆れて、彼はもう止まり木で寝ているのかしら?
伸びをしながら起き上がり、寝巻きや手のひらにこびりついた血を見て、彼女ははっと、意識を失う前の光景を思い出した。明るい朝の日差しが差し込む部屋が、急に夜のように真っ暗に見えた。胸をざわつかせながらリビングに行くと、ヨエルもレイフもいない。恐る恐るキッチンをのぞくと、レイフが流しを背に膝を抱えてうずくまっていて、傷のなくなったヨエルが、昨夜と同じ格好で床の血溜まりに寝転がっていた。
しかし、それはおかしな光景だった。もう、日はとっくに昇っているのだから。
「私は、助けられなかったのね……。ああ、ヨエル……どうしてこんなことに?」
シーラは大粒の涙を流しながら、彼の冷たい手を取った。
レイフは後悔に押し潰されそうになりながら、うな垂れていた。自分の浅はかな考えがなければ、ヨエルにシーラの呪いの事を話していれば、正々堂々と向き合っていれば……。彼をここまで追い詰めてしまったのは、間違いなく自分だ。シーラから彼を永遠に奪ったのは……。
今、この時は、シーラの心を占めているのはヨエルだ。たとえ束の間だったとしても、彼は彼女の心を手に入れたのだ。
レイフは顔を上げてシーラに近づくと、乾いた血溜まりの中で、慰める様に彼女を抱擁した。あるいは、自分が慰められたかったのかもしれない。
「おはよう、シーラ」
そして、キス。
ーーこの瞬間だけは、彼女の視界に入るのは自分しかいない。
end
「抱擁とキス」に興味を持っていただき、そして最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
この作品、構想段階ではモフモフいちゃラブなはずだったんですが、考えれば考えるほどこの最後にしか行き着かないお話になってしまいました。いかがだったでしょうか? 楽しんでいただけましたでしょうか?
ご感想等頂けると大変うれしく思います。
また、短編、長編といくつかご用意がありますので、沖田の作品をよろしくお願いいたします。
ツイッターもやってます。とりとめのないアカウントですが、たまに裏話など呟いたりしております。
それでは、またお会いできたら嬉しいです!