顔色の悪い優花
精一杯微笑んで百合たちと別れたあとのことは、よく覚えていなかった。急展開した百合と圭輔の関係だったり、今日も竜に雑炊を作ってあげなければと考えたり、「現状維持は無理じゃない?」という百合の言葉が頭の中をぐるぐる回ったり。二日連続でいろいろとあって、優花の思考回路はほとんど停止していた。考えすぎて、考えるのを頭が拒否してしまっている感じだ。
ベッドに入ると、気絶するようにすぐ眠り込んだのだと思う。まどろんだ記憶がないまま、朝を迎えていた。
(なんか……寝た気がしない)
昨日よりは眠っていたはずなのに、より一層の寝不足感を覚えている。少しふらふらする頭を抱えながら、優花はのそのそと身支度を調え、一階に降りた。
「今日も顔色悪いな」
リビングにいた数馬は開口一番にそう言った。
「やっぱり、竜の風邪がうつったんじゃないか? 熱はなさそうだけど、学校は休んだらどうだ?」
優花の額に手を当てながら、数馬はうなる。
「大丈夫だよ。今日も半日で学校終わるし」
家にはいたくないという本音を押し隠す。まだ、竜と二人きりになるのは難しいと感じている。
「昨日も言ったけど、無理はするなよ。早退していいんだからな」
「うん、わかってるよ」
安心させようと笑って見せたのだけど、数馬の心配顔は消えなかった。
それから、二人で朝ご飯を終えて、出発準備を整える。数馬は、昨日と同じように竜の様子を見に行った。優花は一瞬迷ったけれど、やはり気になるので昨日と同じように竜の部屋の中をのぞき込んだ。そのタイミングで、ピピッと体温計の音が鳴った。
「……37.6度。だいぶ回復したな」
体温計を見ながら数馬が言う。
「一日中寝てましたからね」
そう答える竜の声は、昨日よりはっきりしていた。顔色も少し良くなっている。
(よかった、早く良くなりそうで)
優花はそっと胸をなで下ろした。あんなに苦しそうにしている竜は、できるならもう見たくないのだ。
「今日はさすがに仕事に行くけど、一人でも大丈夫そうだな」
「はい。すみません、迷惑かけて」
竜が目を伏せながらそう言うと、数馬はふっと小さく笑った。
「迷惑なんて思ってないから、気にするな。……ま、そんなに気にするなら、今日明日はちゃんと休んで完全回復するんだな」
はい、と竜が神妙に返事した。そこで、優花は竜と目が合った。思わずビクッとして、慌てて目をそらしてしまう。
「……優花もありがとう。雑炊、美味かった」
(今日は、それを言うんだ)
昨日は言ってくれなかったのに、とつい思ってしまった。昨日と今日の違いを考えたとき、ここに数馬がいるかいないかが大きいのだと思った。数馬という一つ壁を隔てているから、竜は優花に言葉を伝えられる。竜との距離の間遠さを感じて、胸の奥がチクリと痛んだ。
「まだ、冷蔵庫に少し残ってるから、あとで食べてね」
平静を装いながら、優花は微笑んで見せた。
(私も同じ。お兄ちゃんがいるから、竜と話せる)
遠ざかっているのは、竜だけでないのだ。優花自身もまた、竜から距離を取ろうとしている。そうしないと、心が波立つのをおさえられない。優花は胸の前でぎゅっと手を握り、心の揺れが表に出ないよう努めた。
「なんだか、顔色悪くない?」
学校に着いた早々、校門前で待っていた長谷部が心配そうに顔をのぞき込んできた。
兄に言われるならまだしも、長谷部にまで言われるとは。優花は思わず頬に手を当てて考えてしまう。
「そんなにひどい顔してますか……?」
「ひどいってわけじゃないけど、何となくね」
寝不足の感じは否めないけれど、それは優花の内側のことであって、表に出しているつもりはないのだ。いたって普通にしているつもりなのに、どうしてこうも見抜かれてしまうのか。
「あの彼の風邪がうつったとか?」
(このやり取り……記憶に新しいな)
ほんの一時間ほど前の兄との会話を思い出していた。
「熱とか出てないので、大丈夫ですよ」
「でも、最初の人が治ってきた頃合いで次の人に風邪症状が出たりするから、無理はしないほうがいい。保健室で休んでたほうがいいんじゃないか?」
長谷部が兄と同じような心配顔で言うので、優花は思わずクスリと笑ってしまった。
「無理も何も、学校半日しかないですから。あっという間に家に帰る時間になっちゃいますよ」
「そう言って、無理をしそうなんだよね、君は」
本当に大丈夫なの? 本当に大丈夫ですよ。そんなやり取りをしながら、駐輪場に向かう。昨日より気まずい雰囲気が消えていて、優花は密かにホッとしていた。以前のような感じで話せている。それは、長谷部がそのように努力してくれているのだとわかっているし、優花も同じように気を遣っている部分もある。そんな裏側があったとしても、今の状態のほうが気まずいより格段によかった。
昇降口で長谷部と分かれて、自分の靴箱のところに行くと、ちょうど百合が靴を履き替えているところだった。百合は優花に気づくと、ぱっと笑顔になった。が、すぐに眉間にしわを寄せる。
「?」
優花が首を傾げると、百合はずずいっと優花に近づいて顔をのぞき込んだ。
「顔色悪い気がするよ? また何かあった?」
「……」
優花は黙り込んでしまった。大丈夫だと思っているのに、こうも身近な人から同じことを言われ続けると、自信がなくなってくる。
「何もない……はずなんだけど、わかんなくなってきた」
「どういうこと?」
「そんなに体調悪そうに見える?」
「ぱっと見はいつも通りの優花だよ。でも、何となく感じたから」
「その何となくって、どういうことなんだろう……?」
「……さあ?」
優花と百合はしばらく靴箱の前で考え込んでしまうのだった。
今日の午後も百合と会う約束をしてから帰宅すると、佳代と愛実が帰ってきていた。優花がリビングに入ると、佳代は昼食の準備をしている最中だった。
「さすがに、3日も留守にできないでしょ」
佳代はにっこり笑ってそう言った。数馬からは「まだ竜がちゃんと治っていないから」と、もう一泊するようにすすめられたらしいが、既に快方に向かっているし、数馬と優花だけに長く負担をかけるわけにもいかないと言って、帰ってきてくれたそうだ。
「さっき竜の様子を見てきたけど、スマホ眺めてるくらいの余裕があったから、もう問題なさそうよ」
熱が下がって、寝ているだけだと暇に感じるようになってきたのだろう。良かったと安心する反面、竜と向き合わなければならない日が迫っていると思うと気が重くなる。
「数馬が優花ちゃんのことも心配してたのよ。何だか顔色が悪く見えるって」
そう言って、佳代が優花の顔をのぞき込む。また同じことを言われるのかと、思わず身構えた。
「まあ確かに、ちょっと元気がなさそうかなとは思うけど……」
佳代は少し考え込むような顔をして言葉を切った。優花は少し不安になってきた。佳代はいい具合に質問をして、言うつもりもなかった答えを言わせるのが上手なのだ。それについ引っかかってしまう優花も悪いのだが。
「……なぜと訊くのもね」
ふうっと短い息を吐いて、佳代がすっと身を引いた。
「訊かないの……?」
おそるおそるそう言うと、佳代が困ったように微笑んだ。
「そうしてほしくなさそうだから」
図星を指されて、うっと言葉を飲み込んだ。そんな優花の表情を見て、佳代は肩をすくめてみせた。
「もう高校生だから。保護者に言えないことの一つや二つくらいはあるというものよ。問い詰めるのは簡単だけど、そんなことしたら優花ちゃんにうざがられて嫌われちゃう」
「で、でも、お姉ちゃんは問い詰めてくるときもあるじゃない。年上の意見聞いてみたくない?とか言って」
思わず反論すると、あははっと佳代が軽く声を出して笑った。
「嫌がっていそうなら、さすがの私も身を引くわよ」
それはつまり、自分が佳代に話したがっているから誘導尋問に引っかかるということなのだろうか。なんだかちょっと納得いかない。むうっと口をとがらせて考えている間に、佳代はいつの間にか昼食の準備の続きを始めていた。とんとんと軽快な音を立てながら、キャベツを刻んでいる。
「でも、優花ちゃんが話したがらなくても、話を訊き出さなければいけない場面はあると思うの。優花ちゃんがひどく傷ついたとか、一人の力じゃどうにもならないとか、そんなときね。数馬には話しにくくても、私には話してくれると嬉しいかな」
確かに、数馬よりは佳代のほうが話しやすい。同性ということもあるけれど、血縁ではない家族という距離感がちょうどいいのかもしれない。現実問題、今の優花一人ではこの悩みを解決できていない。それならいっそ、話してしまったほうが――。
(いや。これもお姉ちゃんの誘導かも)
はっと気づいて、優花は首をぶんぶんと横に振った。
「ひ、引っかからないよ。話さないからね!」
佳代は手を止めて、にっと人の悪そうな顔で笑った。
「優花ちゃんも学習してるね」
引っかからなくて残念、と言う佳代を見ながら、やはりこの義姉を敵に回してはいけないと思う優花だった。
着替えるために2階の部屋に向かった。脱いだ制服をハンガーに掛けながら、ため息をつく。
(竜は……起きてるんだよね、たぶん)
帰ってきて、声をかけないのは変だろうか。けれど、わざわざドアをたたいて竜の部屋に入る勇気がない。かといって、壁越しに今更あいさつするのもおかしい気がする。もし眠っているようなら、起こしてしまうし……。
うじうじ考えていたら、不意に壁からノック音が聞こえてきた。竜の部屋のほうからだ。びくっと体中が震えて、動きが固まった。
「帰ってきたんだろ、優花」
朝よりも更に元気そうな感じになった竜の声だった。緊張で、ゴクリとつばを飲み込む。
「うん……ただいま」
自分の口から出た声は、ぎこちなさを隠せていなかった。
「もう、大丈夫そうだね」
少しでも誤魔化したくて、優花は早口で間髪入れずに言った。
「今日の夕飯は何食べたい? あ、でも揚げ物はダメだよ。病み上がりなんだから、胃に負担が少ない方がいいよね。蒸し鶏とかがいいかな? 魚もありだね」
優花が言葉を切ると、しん……とした反応が返ってきた。表情が見えないから、竜が呆気にとられているのか、笑っているのか、深刻そうなのかわからない。
(な、何か返事してよ)
冷や汗を感じながら、頭をフル回転させて次に言うべき言葉を考えていると。
「優花が作ったものなら、なんでもいいよ」
平坦な口調が聞こえた。感情が読み取りづらくて、優花は困惑してしまう。何でもいいよという言葉は、表情次第で良い方にも悪い方にもなれるのだ。
「じゃあ、お姉ちゃんとも相談して考えておくね」
無難な回答をして、話を終わらせようと思った。このまま話し続けるのは危険だ。普通に、今まで通りに話そうと思うのに、違和感しかないのだ。そもそも、自分は普段どうやって竜と話していたのだろうか。どんな心持ちで、どんな口調で、どんな表情で話していたのか。
自分の今までがわからなくなっていた。
「優花」
少し強めな声で名前を呼ばれ、どくんと心臓が大きく揺れた。
「な……なに?」
再び、沈黙。
どくん、どくんと嫌な音で心臓が騒ぎ続ける。
「……話がある」
低い、真面目なトーンだ。
どくん、どくんと更に大きく揺れる心臓のリズムと、自分の震える呼吸のリズムが合わなくて、一瞬視界が歪んだ。
(話? 何の話? どの話? 私、今の状態で竜の話を聴ける?)
結論はすぐに出た。
無理。今は無理。今は、それを聴きたくない。
「竜は、まだ本調子に戻ってないでしょう……?」
辛うじて整えた呼吸で、声を発した。
「ちゃんと熱が下がって、元気になってから聴くよ」
また、重い沈黙が降りた。
途方もない長い沈黙の中に突き落とされたような気持ちがして、思わず優花はぎゅっと目を閉じる。
「わかった」
何の感情も込められていない声が返ってきた。優花はうっすら目を開けながら、ホッとしつつも、更に遠くに突き放された気もして、ずんと心が重くなった。
「じゃ、お昼ご飯食べてくるね」
言うが早いか、優花は竜の部屋のほうは振り返らず、逃げるように階段を駆け下りた。