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水温む

あの時は運命なんだと思った。


硝子ごしの光は淡く柔らかい。

その中にたたずむ彼も同じく淡い光を帯びていて、男性なのに綺麗で、きっとこの人に出会う為だったんだと、そう思った。そう思い込ませていた。


でないと気づいてしまうから。


耳をふさいで目を閉じて、甘い世界にだけいさせて欲しかった。


自分が主人公でいられる、そんな易しい世界に浸っていたかった。







セ・エーメの春は志保の知っている春と同じで、花が咲き光がこぼれ、眠りを誘うゆったりとした空気が漂っている。

志保を包んでいた霧のような膜はどこかえ消え去ったが、今度はうららかな春の日差しに覆われ、やっぱりうたたねをしているような感覚がする。

でもあえてその感覚を消さないようにしているのだと、頭の片隅では分っていた。


今志保は寝起きしている部屋のすぐそばにある温室にいる。

温室といっても硝子で囲われたテラスのようなもので、その硝子も今は開け放たれ、ときおり花の匂いの風が髪をなでていく。


椅子に腰かける志保の膝の上は分厚い辞書に占領されている。

辞書の中身は学生時代使っていた英単語の辞書と同じようなものだった。文字が日本語と英語ではなく、日本語とこの世界の公用語で書かれているという点を除いて。

しかもこの本は辞書という役目だけでは終わらなかった。

あの日セイネルに手渡されたこの本のおかげて、志保は自分が今どういう状況にあるのかをようやく知ることができた。



-この本が読めるであろうおそらく日本から来たあなたへ-


そう綴られている本には、ここが異なる世界であること、いろんな世界の住人が霧を通してこの世界にやって来ることがあると書いてある。

過去に元の世界に戻れたという事例がないことも。

真摯な言葉から筆者の誠実な気持ちが伝わると同時に、この世界で生きていきなさいという宣告を受けた。

この世界にやってきた人は一定の期間生活が保障されていること、その間にこの辞書で言葉を覚えること、そして今後あなたのような人の為に辞書をより新しいものに書き換えていってほしいともあった。


そのお願いはきちんと守られ、辞書には修正されていたり加筆があったするページがいくつもあった。

達筆なものや志保の書くそれとよく似た丸文字、左端にはこっそりペラペラ漫画の棒人間なんかも登場する。

次に読む人のためにと書かれたそれらは、ひどく温かいものだった。

みな志保と境遇を同じくした人たちで、きっとそれぞれに人生があり葛藤や絶望があったとこは想像に容易い。



「少し休憩されてはどうですか?」

声とともに、ハーブのいい匂いがする。

志保はページの左上で落とし穴に落ちていく棒人間から、入口でにこにこと頬笑みながら立っているウユへ顔を向ける。ウユは志保がこの世界、もといこの部屋で目が覚めてからずっと面倒を見てくれている。

というよりもウユとセイネル以外の人を見たことがない。

「今日は気分がすっきりするお茶をお持ちしましたよ。喉にもよく効きますからね。」

さぁ飲んでと言わんばかりに顔の前に湯気が立ち上るカップを出されては飲むしかない。なるべく舌をやけどしないように口をつけると、口の中から鼻へ柑橘の爽やかな香りが広がる。

熱ちちと心の中で顔をしかめつつ、どうですかという眼で見つめてくるウユへ首を振る。

お茶だしそんなにすぐ効きはしないと思うが、残念そうにしているウユは真剣に自分の事を心配してくれているのだと分っているので、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


こんなによくしてもらってるのにごめんなさい。


声が出ないと気づいたのは最近だった。

はじめはぼんやりとしていて返事する事も億劫だったから、その後は言葉が分らず口を閉ざしていた。

辞書を読んで挨拶ぐらいはと、朝ウユへ声をかけようとした時には志保の咽喉から音が出なくなっていた。咽喉に何かがつまっていて、声を通せんぼしているみたいで、ヒューヒューという息しかでてこない。

いやいやまいったと人ごとのような志保よりも慌てたのがウユだった。

寝かしつけられ、分厚い毛布でぐるぐる巻きにされたかと思うと、ものすごい色と味の薬らしきスープを飲まされたり、何やらぬるぬるする布を首にまかれたり。

なすがままになりながら、これだけ心配してもお医者さんを連れて来ないってことはやっぱり何かあるのかと思いはしたが、深く考えることは放棄した。


だって楽だもの。


ご飯の準備や掃除洗濯、意味の分らない勉強も何にもしなくていい。全部やってもらえる。

ウユは自分の娘のように可愛がってくれる。実の母親よりも愛情を感じてしまうぐらいに。


知らない世界からやってきた自分はきっとヒロインだ。一人ぼっちの孤独な少女は、みんなから愛され必要とされなくては。だってそれが物語だもの。

これは私の物語。


ノックの音がし、ウユがドアへ向かう。

この部屋を訪れるのはウユを除けば一人しかいない。


「あら、セイネル様。いらっしゃいませ、今お茶をお持ちしますね。」

「ありがとう、ウユ。おはよう、ニーム」


セイネルは淡い金髪に明るい緑の瞳の涼しげな顔立ちの青年で、毎日部屋を訪れては志保の様子を気にかけてくれる。

話の内容は理解できないが、やさしい口調の彼の言葉は聞いているだけで心を癒してくれる気がする。

志保を見る瞳には慈愛や優しさが込められている。

志保から見ても高価と分る装いのセイネルはおとぎ話の王子様のようで、そんな彼に見つめられ、穏やかに話しかけられれば、志保が彼に好意を抱くのにさほど時間はかからなかった。


セイネルもしばらく虚ろだった彼女の自分を見る瞳の中に、だんだんと増してくる自分への感情を見いだしていた。

少女と女性の間の年頃特有の魅力をもつ志保からの甘い感情は、男として悪い気持ちはしなかったし、そうなるように実際は仕向けたのだ。


知らない世界にやってきて不安で押しつぶされそうな所を優しくされれば誰だって少なからず心が開くものだ。

ましてや男と女。

自身の容姿が女性にいい印象をあたえ好かれやすいことは分っているので、存分に発揮させてもらった。




セイネルの手が志保の手にそえられる。


「今日は伝えたいことがあってきたんだ。-ニーム、私と結婚してほしい。」


濡れたような黒の瞳を見つめながらの求婚の言葉は、志保にはまだ分らなかったらしい。

首をかしげる志保の膝から辞書を借り、ページをめくる。


セイネルが指さしたページにあったのは一つの言葉。



-結婚-



驚きに目を開く志保の頬がだんだん赤くなっていく。

ルルカの花の実のように真っ赤になった志保がこくんとうなずく様は愛らしく、セイネルも思わず笑みがこぼれる。





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