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47 誠は子どもである

 夕食を終え、うつらうつらと船を漕ぎ始めた志乃を寝室に押し込んだ亜弓は、肩身を狭くテーブルに座る誠の正面に座った。

「ごめんなさいね、つまらなかったでしょ」

「あ、いえ……」

「遠慮することないわよ、お客様なんだから」

 そういわれて胡坐をかけるような性格ならここまで胃を痛めることはなかった。誠は、はははと笑いながら白湯に口をつける、胃腸にはそれが一番優しいからである。

 気を許さない少年に、亜弓は短く嘆息しながら覗き込む。そして、一言。

「――あなたって、本当に前世の記憶があるのよね?」

 今更な質問に意図が読めず、しかし茶化している様子もない。結果として、誠は「まぁ……」と頷いていた。

「それがどうかしましたか?」

「うーん、見ていても歳相応の子どもにしか見えないからね」

「……そんなに子どもっぽいですか」

 明確に肩を落とす。大人として振舞ったこともなければ大人とみられたいとも思っていない。それでも子ども扱いされたいわけでもないという、世界で誠にしかわからない感覚だった。

 事情はあれど、そこにいたのは大人っぽく見せたい子どもである。だから亜弓は謝りもせず、ただ軽く笑っていた。

「あなた、子どもになりたいって思ったことはないの?」

「子どもに……」

 悩む。

 即答はできた。ない、ただそれだけである。誠にとって子どもとは、大人の理不尽に抗えない存在である。生殺与奪権を握られた状態であることが、どれほどのリスクであるか、痛いほど理解していた。

 しかし亜弓の求めている答えはおそらく違うとも理解している。むしろそんな穿った見方をしているなど察するほうが無理である。

 ではなんだ、わからない。結局誠はしばらく頭を回してから、

「……ないですね」

「前世も?」

「前世のほうがですかね。早くお金を稼ぎたかったので」

「そう……だったわね」

 そこでいったん言葉を区切り、そして、

「――よし、一緒にお風呂入りましょうか」

 斜め上の提案に誠は口を開く方法をド忘れしていた。



 湯気立ち上る浴室で男女がふたり。言葉だけ聞けば情事に思える可能性もあるが、それが親子ほど年齢と身長が離れていれば誰が見てもほほえましい家族の一面であった。

 それでも誠は拒否したのだ、それも三回。亜弓は夫のいる身で誠は見た目こそ子どもだけれど精神的には大人である。そんな不義は働けないと必死で説得した。

 それでも亜弓には勝てなかった。単純に体格差に押され、あれよあれよという間に服を脱がされ、あまつさえ全身くまなく洗われて、お返しとばかりに亜弓の歳を感じさせない背中を洗い、ふたりして湯船に浸かっていた。別に意思が弱かったわけではなく、前世で寝たきりになってしまった母親の細い背中に浮かぶ汗を拭いてあげたことを思い出して、その顔を見られたくない気持ちが先だって出た行動だった。

 ぬるめの湯は身体を温めるに不適合で、亜弓は誠を抱きしめ暖を取る。小さな背中を腹につけて俯く頭に軽く顎を乗せていた。

「緊張してるの?」

「……そりゃそうでしょ」

 震えながら答える。少しでも動けばどこかしら当たってしまうほど密着しているのだ、他意など当然ないのだが、この状況でいるだけで罪悪感に苛まれていた。

 それでも完全に嫌というわけではなかった。むしろ今年に入って一番落ち着いているまである。早くからひとりでお風呂に入っていた誠にとって、こうして誰かと一緒にというのは久しぶりなのだ。

 当人が理解していなくても身体は正直である。だんだんと張っていた気も緩んできて、それに合わせて頭が沈んでいく。無言の空間にシャワーヘッドから落ちる水滴が子守歌のように一定のリズムを刻んでいた。

「……誠くんは前世で恋したことある?」

 半分意識を失いかけたところに、声が耳を叩く。甘い吐息をかみ砕き反芻してから、

「いや、ないかもです」

 それどころではなかったので、と付け加えると、

「忙しいのと恋をしないのは関係あるのかしら?」

「……半々でしょうか」

 よくわからない返答をしてしまうのは、素直に認めることができなかったからである。

 昭和のサラリーマンのように心血注いで生きていた頃は恋愛にうつつを抜かす余裕などなかった。これは真である。しかしその前、まだ稼ぎもできなかった未熟な頃はどうか、誰かを好きになることはあっただろうか。

 いやない。なぜか、ない。

 原因に思い当たる節はあった。顔も思い出せない父親の不倫、それが恋愛に対して幻想を抱かせなくなっていた。根源にその感情があったとして、その後どう改善することもなく、気にも留めていなかったのだから恋愛などできるはずもなかった。

 ならば今後一生恋愛というものが理解できないのか、この超恋愛主義がはびこる魔境で生きていく術を持たないことが恐ろしくて、口に出せなかったのである。

「僕も……人を好きになることができるんでしょうか」

「できるんじゃない? 頭いいんだし」

「関係ありますか?」

「さぁ?」

 はぐらかされたような、身のない話に崩れ落ちる。しかし恋愛などそんなものなのだ、テストのように正解などなく、その場その場で最適解が変わっていく。そしてなりより、完璧でなくともよい。

「僕はどうすればいいんですか?」

「そうだね……子どもの恋愛から始めてみればいいんじゃない?」

「子どもの恋愛?」

「そう、周りのみんなと一緒に勉強していくの。何が好きで何が嫌いか、ゆっくりわかりながら自分を見つけていく。ちょっとくらいわがままいっても誰も気にしないし、間違ったって怒らない。子どもってそういうものでしょう?」

 程度はあるが、おおむね間違っていない。誠はまだ胸の内にひっかかるものを感じながら顔を浸けるように頷いていた。

 子どもなのだ、自分は。少しだけそのことを認められた時間だった。

「そろそろ上がりましょうか」

「はい」

「……一緒に寝る?」

「それは……お願いしてもいいですか?」

 ちょっとだけ、いまだけ人恋しくなってもいい、そんな日もあるのだ。

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