15 誠、やばい奴にあう
「で、こんな傷作ってきたんですね」
ふたりして半べそをかきながら戻ってきたのは、磯に行ってすぐのことだった。本当にただ喧嘩して帰ってきたようなものである。
水着はあちこち擦り切れ、擦り傷も多い。せっかく海へ来たというのに自分から入れなくしていては、温厚な真由もため息をつくしかなかった。
消毒と絆創膏。滲みる痛みに悶える若人の表情を肴に酒を飲む大人のうち、声をかけてきたのは如月(二月)の玲奈だった。
「まったく……ふたりとも彩花の子どもらしいというか、誠、お前はそんな奴じゃないと思ってたんだけどな」
怒るというよりは落胆、そんな表情を浮かべていてもテーブルの上に大量のビールの空き瓶を並べていては格好がつかない。佐藤家一番の酒豪であり酒好きである彼女は、凛とした佇まいで誠を見下ろしていた。
誠としては不満である。正当な理由があったからだ。
「人の嫌がることを勧められて、しかも先に暴力まで振るわれたら、暴言くらい吐くでしょう」
「じゃれ合いで本気になるなって言ってるんだ」
玲奈が誠だけを執拗に責めるのには理由があった。本来責められるべき大輝は、すでに男親総出で叱られ、べそをかきながら不貞腐れている。お決まりの『お兄ちゃんなんだから』と、なりたくてなったわけでもないのに何かにつけて言われていた。
片方が責められ、片方が心配される。したことを考えれば当然なのだが、大輝からすれば禍根しか残らない。その釣り合いをとるため、喧嘩両成敗としたいのだ。
そんな大人の理論を誠はわかっていながら反論せずにはいられなかった。なぜならただひたすらに理不尽だからである。
「同じ目に遭えば玲奈さんだって同じことをしました。ただの常識的な行動なのになんで怒られなきゃならないんですか」
「あのなぁ……せっかくみんなで楽しくやろうって海に来てるんだ、それを壊す真似して楽しいか?」
「それは理論のすり替えです。別に謝ってほしいわけじゃなくて怒られる理由がないって言ってるんです」
既に誠の怒りの矛先は大輝から玲奈に移っていた。親としての正しさと、人としての正しさ、どちらが上に来るか考えるまでもない。
そもそも理不尽なことを言っている自覚が玲奈にはあったようで、これ以上はどうにもならないと首を横に振っていた。いつだって勝利は虚しいものであった。
「誠」
一段落ついて、横から割ってきたのは産みの母、彩花だった。彼女はにんまりと笑みを浮かべ、
「よく言い負かした」
なぜか誠を褒めて、玲奈をブチ切れさせていた。
翌日。
誠は上機嫌だった。
昨日の不機嫌さなど微塵も残らずにいたのは、夕食、朝食と、贅を尽くした食事に舌鼓を打っていたから。海沿いのいわゆる海の家という施設に泊まり、新鮮な海鮮や蟹の出汁が出た味噌汁など、普段と違った食事は嫌な気分でいることをもったいないと思わせていた。
この頃になると離乳食も終わり、食事の楽しみ方を覚えるようになる。普段の食事に文句を付けるところはないが、使われている味噌や塩加減など、新たな味覚が誠を嬉しくさせていた。
そんな日、旅行二日目のことである。
「まごどー……」
夜遅くまで羽目を外して晩酌していた大人たちは死屍累々、誠に経験はないがまるで大学生の無茶な飲み会後のような様相だった。
その中でひとり看護に勤しむ玲奈とは別に、ゾンビ映画よろしく布団から手が伸びて誠へと向かっていた。
この世界ですっかり慣れてしまった酒臭さに誠は辟易しながら布団をめくる。その中には顔色を青くした美咲がいた。
「……」
「これ……持っであぞんでぎなー……」
呆れてものも言えない誠の眼前に出てきたのはスマートフォン、しかし手渡す前に力尽きたようで床の上に転がってしまう。
だらしない、とため息をつきながらスマートフォンを拾うと、
「うみー……」
「海に入るな、ですか?」
もう満足に会話すらできないようで、誠が言った言葉に力なく伸びた腕の先、親指だけが天を向いていた。
憎たらしいほどの晴天の下、誠は兄姉に連れられて海へと来ていた。
借りたスマートフォンは防水ケースの中に入れ、首から下げている。無くさないようにするためだが身体への負担が大きく、身動きが取れずにいた。
それでも問題はなかった。兄姉が砂遊びをしている間、誠はというと少し離れたところで座っていたからだ。ビーチパラソルの設営は無理なので真由から白い日傘を借りて、水平線を眺める。周りから見てもわかる通り、本人ですら楽しいと思っていないが、兄姉と一緒になって砂まみれになるほうが嫌なら仕方がない。
うみねこか、かもめか。雲を切るように空飛ぶ鳥を見ながらそんなことを考えていた誠は、視線の下の方で大きくなっていく影を見つけ、目線を下げていた。
それは子どもだった。ちゃんと足のある、少し小太りの、小学生くらいの男の子。彼は明らかな意志をもって誠の正面に立っていた。
「お前」
「僕?」
初手、呼び捨て。社会人としては如何なものかと唸る場面だが、相手は子ども。寛容になるべきと誠は考えていた。
実際、よくあることなのだ。知らない子どもであっても遊びに誘う、そういう文化なので警戒などしていなかった。
その彼は誠を指さし、
「それ、貸せよ」
誠の視線が指先を辿ると、首から下げてあるスマートフォンへとたどり着いていた。
確かに今、誠は使っていないが、これは緊急用。中に個人情報が入っていることもあって他人に貸し出すような代物ではなかった。
なので、
「嫌ですけど」
可不可の問題ではなく、心情的に。どうしても借りたい理由があるならば致し方ないため、それが精一杯の譲歩だった。
例えば親とはぐれたから連絡を取りたい、近くに病人がいるから救急を呼んで欲しい。そんな理由が出てくると想定していた誠は、男の子の言葉を待っていた。
だが、しかし。
「殴るぞ」
「は?」
ポカ。
誠が何を言われたか理解する前に、頭を小突かれていた。
通常、真っ当に生きていれば暴力事を目にする機会は少ない。それは人を傷つけて得られるものと失うものの差が大きいからである。大人になればなるほど顕著で、日本において外出時に殴られる確率は、ほぼないと言っていい。殴られた日は相当運が悪かったのだろう。
子どもはその自制のきかないことが稀にある。だからといって急に殴るわけではない、何かしらの前兆があって、貯めて貯めて吹き出た感情が暴力に形を変えるのだ。
だからほとんど脈絡なく殴られるなんて想像するほうが難しい。これがそれなりに痛みを伴うなら誠も危機感を覚えてすぐに行動に出られただろうが、威圧目的の押し出しのような殴打では、呆気にとられるばかりで見上げることしかできずにいた。
「貸せよ」
追撃はなかった。だんだんとなにが起きたか整理がついて、誠は睨みをきかせていた。
「警察呼びますよ」
「駄目」
「駄目って言われても……」
「いいから貸せ」
簡単に手を挙げる子だ、奪い取ろうと迫ってくる。ここに来て楽観視をやめた誠だったが、いささか対処が遅すぎた、腕を掴まれ体重を乗せられてはいなすこともできずにいた。
「ちょ、離して」
「誠!」
組み伏せられ、白い傘が砂浜を転がる。その時、近くで遊んでいた大輝が駆け寄ってきて、
「弟にひどいことすんなっ!」
恐らく、仲良く遊んでいるようには見えなかったのだろう。馬乗りになってする遊びはないのも当然で、踏ん張りの利かない砂で飛び上がり、両足を突き出してのドロップキックを男の子にかましていた。
将来プロレスラーを有望視されるような、惚れ惚れとする技。横っ面でまともに受けた男の子は、砂浜を転がっていた。
ナイス、と誠は心の中で叫ぶ。ベストではないがベター、とにかく今は襲われている状況から脱したことを素直に喜べていた。
誠はすぐにスマートフォンを操作し、電話をかけていた。まだ朝早く、気温も低いため海水浴客の姿は少なく、子どもだけでは埒が明かないと、大人の味方が必要だった。
そのコールが鳴りやむ前に、ひとりの大人が誠の前に来ていた。
「澪真ちゃん、どうしたの!?」
転がっていた男の子に寄り添う姿は母親といったところか。澪真と呼ばれた子は身体を起こすと、誠を指さし、
「こいつがスマホ盗んだ」
「いえ、僕のです」
淡々と告げながら良かった、と誠は安堵する。
親なら子どもの嘘を見破ることなど容易い。スマートフォンを買うには親の許可が必要で、買ったかどうかを確実に把握しているからだ。ちょっとたしなめて、謝罪してくれれば水に流す準備が、誠にはできていた。
普通なら、それで問題なかっただろう。普通ならば。
「……澪真ちゃんが嘘ついたっていうの? 悪い子ね」
「いや買い与えたかどうかは、あなたのほうが一番わかってるでしょう」
「もちろん、買ってあげたわよ。だから早く返しなさい」
……まじか。
子が子なら、親も親。そのことを考慮に入れていなかったのは落ち度だった。家族構成以外では普通の感性の大人にしか会っていなかったから、油断していたのだ。
言って分からないのであれば、することはひとつ。
「これ以上は親呼びますよ」
問答の間、通話中になっていたスマートフォンの画面を印籠のごとくかざすと、さすがに分が悪いとみたか、女性は恨み節を呟いて、子どもの手を引き退散していた。
旅行二日目、波乱続きにおなかいっぱいと、誠は倒れ込んでしまっていた。




