絶世の美女
西国無双の美女
歴史人物の影に美女あり、、と申しますが。
此処にも美女は存在している。其れは、、、
『 西国無双の美女 』と謳われた、、益田 真葛であった。
あの「 島原の乱 」の首謀者である、益田好次の長女・真葛、(18歳)
義弟に天草四郎時貞(16歳)がいる。
四郎時貞は、数々の奇跡を生み出している。
「空から白い鳩が四郎時貞の手に止まり、卵を産み落として飛んで行った」
「アリア像から、涙が出てくる、、」
これ皆、姉上、真葛が四郎時貞に伝授したものである。
西洋人から習った、「マジック」を習得していたのであった。
其れと、、タネガシマを自ら改良して、背中に背負って何時も持ち歩いていた。
後のスペンサー銃みたいなものです。
あだ名、「 虎姫 」と呼ばれていた。
其れは、洗礼名「ベンガル」からきたものであろう?
川瀬の柳の花咲く頃、柳絮(綿毛)が飛んでいた。
長崎である時、真葛は一人で酒場に立ち寄った。
離れた席に座っていたら、他所から来た浪人たちが真葛に近づいて、、
「此処は、女が来るところじゃない、出て行け!!」
すると、真葛は背負っていた布袋からタネガシマを取り出して、
『ドッカン』その発砲音と衝撃で、浪人たちは口を開け腰を抜かしていた。
その衝撃で数個の酒瓶が粉々になっていた。
「女将、すまぬ、後で弁償するから、、」
「良いんですよ、虎姫様、何時も四郎様にお世話になっていますから、」
その発砲音で、外にいた取り巻きたちが酒場に入ってくる。
「虎姫様、何事ですか?」
「あぁ、大したことない、さぁ行こう、、」
真葛と数人の手下は、酒場から出て行く、、、
益田真葛は、あだ名『虎姫』と呼ばれている。
その真葛の父親は、、、益田好次、、
肥後国南半国の大名小西行長の家臣であった。
関ヶ原の戦いで敗れた小西行長は斬首されて益田は浪人となっていた。
益田好次、、母、さね(洗礼名、マリタ)
その長男が四郎時貞(洗礼名、ジェロニモ)で、次女・蔓(洗礼名、ウラマン)
真葛とは、腹違いの弟と妹であった。
真葛の母親は良く分からない、小西行長の娘とか、一条院の后だったとか、、
父親に聞いても答えて貰え無かったのである。
謎の、『 西国無双の美女 』である事は間違いないであろう。
そして、これから、伝説の美女として、世に知らしめるのでありました。
幕府方、細川藩、佐賀藩などに、百姓や領民たちはさまざまな迫害を受けていた。
其処で、益田好次は蹶起することにした。
浪人たちを集めて、一揆を興そうと考えている。
皆の意見を聞いて、、天草四郎時貞を総大将として一揆を行うのでありました。
「父上、私も四郎と一緒に参戦します、」
「うぅ、、そうだなぁ、考えておく、、」
真葛は、その時は父上様の返事ははっきりしないでいた。
「此処は強行突破だなぁ、、」ということで手下たちを集めていた。
『虎姫』の呼び掛けなら、と、集まったのは、なんと百人は超えていたのであります。
そうなると、益田も、許すも許さないもない、真葛も一揆に加わっていくのであった。
江戸時代初期の天草島原キリシタン一揆、『 島原の乱 』勃発する。
総勢三千五百人の一揆勢キリシタン軍は、本渡へ陸と海から攻め寄せるのでありました。
「あれは、、幕府軍の大将か?」
「そのようでございますね、虎姫様、、」
「よしっ、着いて来い、平助、」
幕府軍を掻い潜って大将に近づき、真葛はタネガシマで狙い撃ちました。
すると、其れが命中したのである。
唐津藩の三宅藤兵衛(富岡城番代)の首を撃ち取ったのでありました。
キリシタン一揆軍は大将を打ち取り勝利を収めたのであります。
天草四郎は船で本渡町茂木根に上陸し馬に乗る。(馬印、瓢箪)
その時の出で立ちは、、、
「白い絹の着物を着て、はかまを着て頭には苧を三つ組にしてあて、額には小さな十字架を立てていた、」
翌日、島原から一揆軍の応援に来ていた大膳が見て、、、
天草四郎は島原藩の藩主・松倉勝家から奪った船に乗っていたのである。
天草四郎時貞軍は、初めは優勢に勝ち進んでいたが、徐々に形勢が悪くなってきて、、、
遂には、キリシタン一揆軍は既に廃城となっていた原城に入って行く、、、
其処で、原城での籠城戦となってしまったのであります。