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チャールズ・ビアード

挿絵(By みてみん)


 一九三〇年代のアメリカにおいてチャールズ・オースチン・ビアードは歴史学の第一人者でした。ビアードの歴史書は広く読まれ、政治家や学者など数多くの人々がビアードに意見や助言を求めました。

 東京市長の後藤新平もビアードの助言を欲した一人です。ビアードは六ヶ月ほど日本に滞在し、都市計画などに関して貴重な提言を残しました。後藤新平は日本の都市計画の先駆者として知られていますが、その師匠はビアードだったのです。

 ビアードは社交的な性格で交友関係が広く、家族にも友人にも恵まれていました。ただ、歴史学者としては徹底した学究肌であり、筋金入りの硬骨漢でした。

 ビアードが一九一三年(大正二)に出版した「合衆国憲法の経済的解釈」は大きな論争を巻き起こした一冊です。ビアードは、実証的かつ客観的な根拠に基づいてアメリカ建国の歴史に光を当て、次のように結論しました。

「建国の父たちの経済的利益が合衆国憲法に書き込まれている」

 これに激怒したアメリカ主義の人々が大反論を展開し、ビアードに辛辣な非難を浴びせかけました。

「神聖な建国の父を侮蔑するものである」

 アメリカ主義とは、アメリカの歴史、アメリカの偉人、アメリカ建国の精神を過剰なまでに神聖視する態度です。そういう人々にとって、ビアードの実証主義的な歴史論は許せないものでした。ビアードはさまざまな批判にさらされましたが、屈しませんでした。

「正しいことは正しいと主張するのが歴史家の使命である」

 ビアードは自説の正当性をあくまでも主張しました。その不動の態度によってビアードはかえって信頼を獲得します。文字どおりの歴史修正主義者でした。しかし、このためにこそ苦労もしました。ビアードがコロンビア大学教授として政治学を教えていたときのことです。不幸なことに、ときのコロンビア大学総長は偏狂なアメリカ主義を鼓吹する人物でした。このため大学総長とビアードは意見を衝突させてしまいます。ビアードはいさぎよく大学を去り、ニューヨーク市政調査会理事に転じました。


 チャールズ・ビアードは歴史を研究するばかりでなく、ときの政権の政策についても勇気ある論評をしました。その観点は、合衆国憲法の精神に適っているか否かでした。

 ビアードは保守的な不干渉主義の立場からルーズベルト政権を批判しました。ルーズベルト政権が欧州やアジアの紛争に過剰に介入していたからです。アメリカの伝統的な外交姿勢とは似ても似つかぬルーズベルト政権の干渉主義的介入外交に警告を発したのです。

 一九四一年(昭和十六)、ハワイ真珠湾が日本海軍航空隊によって奇襲されたというニュースに接したときの感慨をビアードは書き残しています。

「十二月七日午後、真珠湾で起きたアメリカにとっての大惨事のニュースを聞いて、私はすぐに戦争が単に偶発的あるいは偶然に起きたのではなく、百年以上にわたるアメリカの極東外交の結果であり、この共和国にとって新しく危険な時代の幕開けが来たのだと信じて疑わなかった。私は真珠湾攻撃をもたらした外交政策や外交活動の遂行に関して、将来、はるかに多くのことが知られるようになるだろうと確信した。そういうわけで私は真珠湾攻撃に関連する出来事についての資料の収集を開始した。それは単に歴史の重大事件としてではなく、偉大な歴史のなかのまったく新しい局面を人類に示すものとして、である」

 すぐれた歴史学者の鋭い洞察だったと言えるでしょう。アメリカ合衆国の世界的膨張を歴史学の観点から予見したのです。

 ビアードは、新聞や雑誌の記事、政府や陸海軍や連邦議会による真珠湾事件の報告書、連邦議会の議事録、ルーズベルト政権首脳の演説記録などを分析し、真珠湾事件の裏側にある歴史の真実について考察を深めていきます。

 すでに高齢だったビアードは体調を崩していましたが、おなじく歴史学者である妻メアリの力を借りて研究をつづけました。その成果は第二次世界大戦後すぐに発表されました。一九四六年刊行「アメリカ外交政策の検証」です。これは一九二四年から一九四〇年にかけての外交政策の変遷を検証したものです。このなかでビアードは、ルーズベルト大統領が推進した外交政策の特殊性を明らかにし、その責任について論じました。

 つづいて一九四八年に「ルーズベルト大統領と一九四一年の開戦」を出版します。これこそルールベルト大統領の開戦責任を明らかにした意欲作でした。ビアードは、ルーズベルト大統領が国民に見せてきた「外観」と、国民の眼に触れぬように隠蔽してきた「実態」とを対比させながら、ルーズベルト大統領の開戦責任を合衆国憲法の精神に照らして批判しました。

 一九四一年(昭和一六)三月に成立した武器貸与法は、大統領に事実上の参戦権限を与える内容でした。それが「実態」でしたが、ルーズベルト政権はこの法律を「自衛と平和の法律」という「外観」で糊塗しました。この法案の審議過程において、そもそも法案立案者が誰なのかという点が問題になりました。

「立案者はいったい誰なのか」

 議会では議員が繰り返し質問しましたが、ルーズベルト政権は立案者を隠し続けました。連邦議会において議員たちがどれだけ追及しても立案者の名は明らかになりませんでした。のちに明らかになった立案者の名は、英首相ウィンストン・チャーチルでした。

 連邦議会では賛否両論が闘わされましたが、民主党の多数意見によって法案は成立します。以後、アメリカは巨大な軍需工場と化し、イギリス、ソビエト、中華民国などに大量の兵器と軍需物資を供与するようになりました。物資を満載した輸送船団をアメリカ海軍艦艇が護衛しました。これはもはや実質的な参戦です。選挙期間中の「決して参戦しない」という公約をルーズベルト大統領は破ったのです。

 一九四一年(昭和一六)八月十四日、ルーズベルト大統領とチャーチル英首相は大西洋上で会談し、公式声明を発表しました。のちに大西洋憲章として知られる一般原則が公表されました。一般原則には「英米両国は領土の拡大を求めない」などと美しい理念が書き連ねてありました。しかし、第二次大戦後にはそれらが空念仏でしかなかったことが明らかとなります。

 つづいて翌十五日、ルーズベルト大統領は、この一般原則を書簡にしてソビエト連邦のスターリンに送り、軍需品輸送のための具体的協議を開始したいと提案しました。こうして連合国が形成されていきます。

 ルーズベルト大統領は、共産党一党独裁国家ソビエトをあたかも民主主義国であるかのようにアメリカ国民に偽って印象づけました。

「共産主義は民主主義の進歩した形態である」

 こんな説明がアメリカ国内では通用していたのです。

「全体主義に対する民主主義諸国の戦いである」

 とルーズベルト大統領は記者団に話しました。会見場にはたくさんの記者がいたものの、「ソビエト連邦は共産主義独裁国家ではないか」と疑問を呈するような記者はひとりもいませんでした。

 ルーズベルト大統領は参戦にむけて次々と手を打っていきましたが、それでもアメリカ世論が参戦に傾くことはありませんでした。むしろ「アメリカは参戦すべきでない」とする世論が大多数でした。

 九月になると、アメリカ海軍駆逐艦「グリアー」がドイツ海軍潜水艦に先制攻撃されたというニュースが流れました。十月にも駆逐艦「カーニー」がドイツ海軍潜水艦に魚雷攻撃されたというニュースが大々的に報道されました。そのたびにルーズベルト大統領は得意の演説で世論を誘導し、参戦へ導こうとしました。

「アメリカは攻撃を受けた」

 ルーズベルト大統領は訴えました。一部の世論は参戦すべしと沸騰したものの、全般的には世論も連邦議会も報道機関も正気を保ちました。参戦反対の世論が七割を超えていたのです。この一連の騒ぎのあと、海軍の報告が発表され、最初の一発を発射したのはアメリカ駆逐艦であったことが明らかになりました。ルーズベルト大統領の参戦の意図は挫かれました。しかし、あきらめはしませんでした。

 十月、中立法の改正をルーズベルト政権は達成します。そもそも中立法とは、アメリカが欧州の戦争に介入してしまった第一次世界大戦の反省に基づいて、参戦を抑止する目的で立法されていたものでした。したがって、参戦したいルーズベルト大統領にとっては邪魔な法律でした。

 この中立法を改正し、骨抜きにすることによってルーズベルト大統領は、従来の中立法が有していた参戦への制動機能をほとんど消し去りました。同時に、アメリカ大統領に新たな権限が与えられました。それは、アメリカ商船を武装化し、その商船隊を戦闘地域に突入させる権限です。参戦理由を探し求めているかのような法律改正でした。それでもルーズベルト政権は、「外観」上は、あくまでも戦争を抑止する目的のためであると説明していました。連邦議会内には反対意見が多く、中立法改正には長い時間がかかりました。

 ルーズベルト大統領は、中立法改正に手間取ったことを問題視しました。かりに大西洋方面で何らかの紛争が発生し、それを理由として対ドイツ宣戦布告を大統領が連邦議会に申請した場合、おそらく連邦議会では多くの反対意見が噴出し、長い時間を要するであろうと予想されました。ここにおいてルーズベルト大統領は、もっと直接的かつ大胆な手段をとることを決断したようです。

 ルーズベルト大統領は、なんとかしてドイツあるいは日本に最初の一弾を撃たせる必要がありました。なぜなら一九四〇年の大統領選挙において次のように公約していたからです。

「われわれは外国の戦争に参加することはない。攻撃を受けた場合を除いて」

 攻撃されることだけが唯一の参戦方法だったのです。ルーズベルト政権は挑発の標的をドイツから日本に変更します。

 アメリカによる対日挑発政策はすでに一九三八年(昭和一三)から始まっていました。それは道義的禁輸と呼ばれました。法律的根拠はなかったものの、道義的立場から対日禁輸措置を実施したのです。この禁輸措置は徐々に強化されました。さらに一九四〇年(昭和一五)、ルーズベルト政権は日米通商航海条約を一方的に廃棄します。日本政府からの抗議を無視しての条約廃棄でした。これは充分に挑発的な外交態度であり、これを理由として日本がアメリカに宣戦布告しても不思議ではありませんでした。

 しかし、日本政府は忍耐します。大陸政策を推進する日本にとって太平洋方面の安全は必須条件でした。だからこそ、有田八郎、阿部信行、野村吉三郎、松岡洋右、豊田貞次郎、東郷茂徳といった歴代外相は懸命の対米宥和外交を展開しました。

 しかし、ルーズベルト政権は、当初、交渉そのものを拒絶していました。これに業を煮やした松岡洋右外相は日独伊三国同盟を締結し、さらに日ソ中立条約を成立させました。これらの条約によって日本の対米外交力を強めたのです。すると、ようやくアメリカは重い腰を上げ、日米交渉の開始に同意します。しかし、この日米交渉もルーズベルト政権にとっては単なる時間稼ぎに過ぎませんでした。

 こうしたルーズベルト政権の対日外交についてアメリカ議会もアメリカ国民も無知でした。ルーズベルト政権がいっさい報告しなかったからです。アメリカ国民も連邦議会も概して欧州方面の情勢に関心を集中させており、アジア情勢には疎かったのです。日本との戦争を望んだアメリカ国民など皆無でした。そもそも関心がなかったのです。ヒトラーとの戦争には賛成する人々も、日本との戦争は望んでいませんでした。

 ただ、唯一、ルーズベルト政権内にのみ日本との戦争を待望する者たちが存在したのです。ルーズベルト大統領、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官です。かれらは表玄関にあたる欧州戦争に参戦するため、裏口にあたる極東からの参戦をめざしたのです。

 一九四一年(昭和一六)七月二十四日、この日の演説でルーズベルト大統領は意味深いことを言いました。

「日本と呼ばれる国があります。われわれが石油の供給を打ち切っていたなら、おそらくあの国は一年前に蘭領印度に進出したことでしょう。ですから日本に石油が供給されるようにしてきたのです。それは、アメリカのため、イギリスのため、航海の自由のため、そして南太平洋に戦争を持ち込まないためでした。これは二年間、功を奏しました」

 ルーズベルト大統領が過去形で話したことが話題になりました。翌日の記者会見では記者たちが盛んにその点を質問しました。

「対日宥和は終了したのか」

 しかし、ルーズベルト大統領は曖昧な言辞で答えをはぐらかしましたが、じつは、この日、対日資産凍結の大統領令を発動させていたのです。つづいて八月一日、ルーズベルト大統領は対日石油輸出禁止の大統領令を発令します。日本を窮鼠にする勝負手でした。しかし、その内容をルーズベルト大統領は連邦議会にもアメリカ国民にもいっさい知らせませんでした。

 資産凍結につづいて石油途絶という事態に直面した日本政府は驚嘆し、懸命の対米外交を実施します。野村吉三郎駐米大使はハル国務長官と繰り返し会談し、近衛文麿首相の親書を提出し、太平洋での近衛・ルーズベルト会談を提案しました。日本政府は必死でした。そんな日本に対してルーズベルト大統領は肩すかしを食らわせて時間を稼ぎます。大西洋上でチャーチル英首相と会談する一方、野村大使にはけっして会おうとしなかったのです。

 日米間の外交交渉についてハル国務長官は記者会見で次のような説明をくり返しました。「日本との交渉は非公式のものであり、予備的段階のものである」

 これはまったくの虚偽であり、参戦の陰謀を完成させるための伏線でした。ルーズベルト大統領にあてた近衛首相の親書がマスコミによってすっぱ抜かれ、特ダネとして新聞に報じられても、「そのような事実はない」とホワイトハウスは否定しました。結局、アメリカ国民は対日外交について何も知らされなかったのです。このことが後に爆発的な効果を生みます。

 対米交渉に行き詰まった近衛内閣は総辞職し、東條内閣が成立します。大命降下の際、昭和天皇は東條英機総理に白紙還元の御諚を仰せつけられました。白紙から対米交渉をやり直せと命じたのです。東條内閣は、日本として譲歩できるギリギリの最終案をアメリカ政府に提示しました。それに対するルーズベルト政権の回答がハル・ノートです。ハル・ノートは最後通牒でした。ルーズベルト政権は、連邦議会の承認を得ることなく日本政府に最後通牒を手交したのです。重大な憲法違反でした。この事実も隠蔽されました。

 十二月一日、ハル・ノートを突きつけられて絶望した日本政府は、御前会議において対米英蘭開戦を決断します。この翌日、ルーズベルト大統領は記者の質問に答え、「合衆国は日本と平和な状態にあり、それも完全に友好的な関係にある」と答えています。最後通牒を突きつけておきながら「完全に友好的な関係」にあると述べたのです。みごとなまでの詐術です。

 日本軍は開戦に向けて行動を開始します。日本海軍の機動部隊は択捉島からハワイをめざしました。これら日本軍の動きをルーズベルト大統領は知っていました。日本軍の暗号を解読していたからです。機動部隊が発する電波の発信源もとらえていました。そして、知っていながらハワイの陸海軍司令部には知らせませんでした。日本軍に初弾を撃たせるためでした。

 アメリカ時間の十二月七日、日本軍の攻撃が始まりました。日本海軍航空隊の空襲を受けたハワイ真珠湾ではアメリカ太平洋艦隊が壊滅的な損害を被りました。

 それまでは日米交渉についてなにひとつ具体的な発表をしてこなかったハル国務長官は、この日になって突然、野村駐米大使との詳細なやりとりを公表しました。その内容は次のとおりです。

「ハワイ真珠湾に対する日本軍の攻撃がはじまって一時間が経過した頃、野村大使が国務省を訪れた。野村大使は、アメリカ政府に対する回答文書をわたしに手交したが、それは宣戦布告の文書ではなかった。怒りに震えたわたしは、野村大使を次のように叱責した。『わたしは五十年にわたる公務のなかで、これほど恥ずべき嘘と歪曲に満ちた文書を見たことがない』」

 こんな内容をハル国務長官は公表したのですが、読者のみなさんはどのようにお感じになりますか。ハル国務長官のセリフは、まるで演劇のセリフのようです。本当の交渉において、このように芝居がかったセリフを言うのでしょうか。言うとしたら事前に準備していたに違いありません。いかにも芝居がかっていて白けます。入念に事前準備されていたに違いありません。ハル長官は次のような声明も発表しました。

「日本は合衆国に対して背信的で、まったくいわれのない攻撃をおこなった」

 こうしてハル国務長官は、翌日におこなわれるルーズベルト大統領の連邦議会演説のための露払い役を果たしました。すべての事実を隠蔽したまま。

 翌八日、ルーズベルト大統領は連邦議会で「恥辱の日」演説をおこないました。この演説においてもルーズベルト大統領は重要な事実をすべて隠蔽しました。対日交渉の経過、石油輸出禁止を含む対日経済封鎖、最後通牒たるハル・ノートの発出、日本海軍の機動部隊がハワイに接近していた事実を把握していたこと、それにもかかわらずハワイの陸海軍司令部に知らせなかったこと、これらをルーズベルト大統領はすべて隠して演説したのです。そして、大統領は言葉を尽くして日本を非難し、連邦議会に宣戦布告の承認を迫りました。そして、連邦議会は真相を知らぬままに宣戦布告を承認しました。

 十二月九日、ルーズベルト大統領はラジオを通じて演説し、ふたたび日本を非難しました。ハワイ真珠湾への攻撃は、日米両国が平和的状態にあったにもかかわらず、日本によって唐突に開始されたと述べ、日本の裏切り行為をはげしく非難しました。むろんウソ話です。

 さらに十二月十五日、ルーズベルト大統領は連邦議会に対してメッセージを発し、やはり日本を非難しました。

「日本政府はわれわれの信頼を裏切り、われわれに対する攻撃計画の命令を発し、これをすでに実行しつつあったのです」

 見事なまでの虚偽です。ルーズベルト大統領がだましたのは日本人ではありません。アメリカ国民とアメリカ連邦議会をだましたのです。情報から隔離されていたアメリカ国民は無邪気にだまされ、宣戦布告を熱狂的に支持しました。ここまではルーズベルト大統領の思惑どおりです。

 かくして参戦を支持したアメリカ世論ではありましたが、真珠湾の甚大な被害について、その真相を知りたがりました。

「真珠湾の大惨事はどうして起きてしまったのか。いったいなぜだ」

 この国民的疑問に対してホワイトハウスは積極的に答えようとしました。ただし、あくまでも「外観」です。ルーズベルト大統領はロバーツ委員会を設置して実態を調査させましたが、真相の究明には消極的でした。

 結果はほぼ一ヶ月後に発表されました。ワシントンの政府高官には職務怠慢や判断ミスはなかったとする一方、ハワイ防衛の現場責任者だったキンメル海軍大将とショート陸軍中将に職務怠慢と判断ミスがあったという結論です。

 アメリカ国民の大多数はロバーツ報告書を信じました。しかし、連邦議会には疑問を呈する議員が現れ、また、ジャーナリストや学者もロバーツ報告に満足せず、真相の究明を求めつづけました。とくにキンメル海軍大将とショート陸軍中将の処遇が大きな争点となりました。ふたりの将軍に発言の場が与えられるか否か、それが鍵でした。

 二月、アメリカ陸海軍はキンメル大将とショート中将を退役させ、同時に、軍事法廷を当面のあいだ開かないと発表しました。ふたりの将軍は沈黙を強いられたわけです。

 その年の夏、ルーズベルト政権はふたりの著名な記者に「戦争はいかにして始まったか」という本を出版させます。これはルーズベルト政権を擁護するためのプロパガンダ本でした。ルーズベルト政権は可能な限り責務を全うしていたと国民に信じ込ませようとしたのです。

 真珠湾事件の真相は、なかなか解明されませんでした。ですが、実のところ、去る十二月七日夜、ハル国務長官はそれまで極秘扱いにしていたハル・ノート(一九四一年十一月十六日付覚書)を公表していました。

 これがひとつの突破口になりました。ハル・ノートの重要性に少なからぬ識者が気づきました。気づくためには外交や国際関係の知識が必要でしたが、ともかくアメリカの識者はルーズベルト大統領の虚言の証拠をつかんだのです。

 ハル・ノートという最後通牒文書の存在は、アメリカの識者を驚かせました。連邦議会の同意なく最後通牒が手交されていたからです。これは憲法違反です。そして、日本側の和平提案を拒否したのはむしろアメリカ政府だったことが明らかとなりました。日本の提案を受け入れていれば日米間の戦争は避けられたのです。さらに、アメリカ政府が日本に対して苛烈な経済制裁を課していたこと、また、支那大陸から全面撤退せよと日本に強引な要求をしていたことも明確になりました。

 時間の経過とともに、真珠湾事件の真相をあきらかにする資料や報告書が公表されていきました。連邦議会の各委員会も秘密会を開き、陸海軍将校からさまざまな情報を聞き出しました。

 一九四四年(昭和一九)六月十三日、連邦議会上下両院共同決議が承認されました。この決議によって陸軍長官と海軍長官に真珠湾に関する調査が命じられました。

 この決議案をめぐっては連邦議会で激しい論争が起こりました。民主党議員はつよく反対しました。

「戦時下における国民の団結を危険にさらすものである」

 しかし、すでに戦勢は連合国が圧倒的に有利になっており、真相を知りたいという動機の方が優勢になっていました。加えて、ロバーツ委員会が糾弾したキンメル大将とショート中将が訴追すらされていないという事実があり、その両将軍が発言の機会を要求しつづけていたことも決議案を可決に導きました。

 さらに、ルーズベルト大統領とチャーチル首相の秘密書簡がイギリスで公開され、開戦前にルーズベルト大統領がチャーチル首相に参戦を確約していた事実が明らかとなりました。真相究明を求める国内世論がいっそう高まりました。

「アメリカ国民には真相を知る権利がある」

 決議案はようやく連邦議会で承認されました。このときルーズベルト大統領は拒否権を発動することもできました。しかし、そうした場合の批判の大きさを予想して上下院共同決議案に署名しました。

 以後、陸軍と海軍の査問委員会がさまざまな調査を実施しました。連邦議会の各委員会でもひきつづき聴聞会がおこなわれました。

 こうした証言や資料や報告書に学者やジャーナリストの関心が向くのは当然です。しかし、陸軍と海軍の査問委員会報告書は大統領選挙の日(一九四四年十一月)まで公表されませんでした。これらが公表されたのは一九四五年八月二十九日です。すでに日本は降伏勧告を受諾し、ルーズベルト大統領は死去していました。

 トルーマン大統領が陸海軍査問委員会報告書を公表したことでアメリカの言論界はおおいに沸騰しました。なぜ真珠湾の悲劇が起こったのか、キンメル大将とショート中将の責任はあるのかないのか、戦争に至るまでのルーズベルト政権の干渉主義外交は是か非か、いわゆるハル・ノートという最後通牒の発出は憲法違反ではないのか、ルーズベルト政権中枢は日本海軍機動部隊の接近を知りながら、なぜハワイの陸海軍司令部に知らせなかったのか、これらの疑問が新聞紙面をにぎわせました。

 連邦議会はさらに上下院合同真珠湾委員会を設立し、一九四五年十一月から翌年六月まで聴聞会を繰り返し、証言を記録し、証拠物件を収集しました。膨大なページ数となった報告書は七月にまとまり、十月に公表されました。必ずしも完全な調査報告書とはなりませんでしたが、多数意見とともに少数意見が掲載されたことはアメリカ連邦議会の健全性を証明したと言えるでしょう。


 チャールズ・ビアードは、これらの資料を読み込み、分析しました。アメリカの歴史と憲法の精神に照らしてルーズベルト政権の政策をいかに評価すべきか、それがビアードの歴史学者としての関心事でした。

 ビアードの遺作となった「ルーズベルト大統領と一九四一年の開戦」は一九四八年に出版され、戦勝に喜び湧いていたアメリカ国民の頭に冷水をあびせました。

 第二次世界大戦が終結してわずか三年しか経過しておらず、アメリカ国民のだれもがルーズベルト大統領を英雄視していたときです。多くのアメリカ人は無条件で大統領を正義の人物と信じていました。それを、高名な歴史学者が真っ向から否定したのです。

 大きな驚きとともに強烈なビアード批判が巻き起こりました。ルーズベルト擁護の論陣を張る学者やジャーナリストは、「目的は手段を正当化する」と主張しました。多くのアメリカ国民は無知ゆえに無邪気にルーズベルト大統領を信じ続けました。

 こうした世論にビアードは真正面から挑戦したのです。おそらくビアードは、世間からの反発を予想していたでしょう。それでもあえてビアードはアメリカ国民に問いました。

「合衆国大統領は、再選を目指す選挙の運動期間中には参戦しないと国民に公約しておいて、選挙に勝利した後には、国家を戦争へ導く行動をとったが、それでよいのか」

「合衆国大統領は、秘密の目的を達成するために連邦議会と国民に偽りの説明を行い、そうして法律を成立させたが、それでよいのか」

「そのようにして成立した法律のもとで実施された政策について、合衆国大統領は正しく国民に伝えなかったが、それでよいのか」

「合衆国大統領は、憲法が大統領に委任していない権力を使えるようにする法律を成立させるために曖昧な表現で説明をおこなったが、それでよいのか」

「合衆国大統領は、宣戦布告なき武力行使を実施したが、それでよいのか」

「合衆国大統領は、外国政府首脳と秘密会談して密約し、共同謀議によって第三国に圧力をかけたり、アメリカ軍を第三国に進駐させたりした。それでいてアメリカ国民にはなんら報告しなかったが、それでよいのか」

「合衆国大統領は、特定の外国政府を勝手に敵であると決めつけ、国際法や国内法に違反してまで随意に戦闘行為をおこす権力を持ったが、それでよいのか」

「合衆国大統領は、秘かに指示して戦争行為を自ら引き起こしておいて、その戦争は合衆国に対して仕掛けられたものだと連邦議会や国民に公言したが、それでよいのか」

「合衆国大統領は、プロパガンダによって国民を駆り立て、法律が認めていない行動を大統領がとるべきだと思い込ませたが、それでよいのか」

「合衆国大統領は、公表した外交方針とは真逆の政策を秘密裏に遂行し、相手国が合衆国に対して先に発砲するように軍事的外交的政策を推進することによって、連邦議会をして宣戦布告を拒絶できない状況に追い込んだが、それでよいのか」

「合衆国大統領は、連邦議会の同意なきまま、合衆国に世界の警察官としての義務を負わせる約束を外国政府と結んだが、それでよいのか」

 ビアードのルーズベルト政権に対する批判は辛辣でした。しかし、それに数倍する非難にビアードは曝されました。主要紙はビアードの著作をきびしく批評し、不買運動さえ起こりました。モリソン戦史で知られるサミュエル・モリソンは手きびしいビアード批判を発表しました。世間の風は圧倒的にビアードに冷たかったのです。かつて多くの読者を魅了したビアードの人気は失われ、旧友も離れていきました。

「祖国に対する背信行為である」

 とさえ言われました。最晩年のビアードは歴史修正主義者の悲劇を味わうことになりました。しかし、それでこそ真の歴史家としての役割を果たしたといえるでしょう。ビアードの遺作の最後の一文は、アメリカ合衆国が歴史の結果として恐るべき段階に到達したことを見事に喝破しています。

「合衆国大統領は、公に事実を曲げて伝えておきながら秘かに外交政策を遂行し、外交を樹立し、戦争を開始できるという制約なき権力を有する」

 アメリカが無法な世界帝国に変貌した瞬間を的確にとらえ、その危険性を告発したことがチャールズ・ビアードの最後の業績となりました。



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